愛の実践

人は生きていると様々な後悔をすることがある。

相手に対して申し訳ないと思う心がそうさせるのは、自分がその時に無理をしたり、お互いが納得していなかったり、勝手に決め付けたり、思いやりが欠けていたからということがある、そして自分の中にある相手への贖罪が一向に消えず常に亡霊のようにそれが心にとり憑き酷くもがき苦しむことがある。

自分と相手との距離を隔てて生きる人は、あまりにも自他の隔てがあるゆえにその距離が埋められず一人孤独に悩んでいることがある。これは以前、何かもっと赦してあげれたはずの相手、つまりは自分自身を許せなかったことに起因する。

しかし、もともとの本質は人間は同じもので人類は皆兄弟姉妹で家族なのだから本来はそこに分け隔てをつくるのではなく、皆で喜びも幸せも分かち合うために生きているのにそうさせないのは人々の中に自分を許せない、許さない心があるからだとも思う。

集団や社会を形成する上で、排除したり排斥したりするという思想は人々に恐怖と不安を押し付けてくる。その不安と恐怖は、本能的なものであり、遺伝子的なものでもあり、それを簡単に人間が自己処理することはできず、人はいつも分かってもらう人を血眼になって探している存在であり一人になっていない状況をなんとか創りだそうとして無理やり誤魔化し様々に繋がりを広げていこうと躍起になっている。さらに、ひきこもることでそこを断てば楽になれるということをしてまで必死に繋がろうとするほど一人になることを心底嫌がる。

しかし、あるがままの実践により心が澄んでくると独りを慎むことができるようになる。そうなると、独り慎みながら本当の深い愛の繋がりを感じることができるようになる。決して一人ではないのだとしそこに不安と恐怖はないと思えるのだろうとも思う。

それを「自立」するとも私は定義している。

そしてそういう独立自尊している状態になるには共感が必要で、その共感するとは自分と相手を同じものとして考えることだと私は思う。つまりは相手は自分であり、自分は相手であると思えるかどうかということ。

相手は別だというのは当たり前のことだけれど、そうではなくもともと相手も自分そのものだったかもしれないと自他を同一視できるかということ。

これは自論だけれど、人は、どこに生まれてくるかわからない。
私だって今は、ここにこの身体でこの精神、この周囲があるけれどそれはどうだったのか。

生まれてきた魂が、その身体に定着し、その人格をその様々な織り成しにより融和調合して誕生し、そのものの徳性をその都度構成すると仮定する。

すると、魂が入る身体と環境により人生が変わってしまうという理になる。

だとすると目の前の相手はひょっとすると自分であったかもしれないとなる。
あの嫌いな人も好きな人もみんな自分だったかもしれないと思える。

そう考えると自分自身が一体どういう徳性があるのかを見極めていくと当然周囲へ対してどれだけ自分の徳を実践し感化するのかがそのものの天命といことになるのではないかと私は思う。

人は、皆誰しも自分自身とする。

だからこそ、相手を恕す心を持って、自分を恕すことが愛の実践となる。

これは今の社会では非常に難しいけれど、子どもたちのために周囲の大人たちを恕せる不動の実践をしていきたい。結局は、子どもを良くしようとすると、周囲の大人が愛が枯渇したり飢えていたらもうそれはどうしようもない。

私が目指してるかんながらの道では避けては通れない場所がこの忠恕の道でもある、周囲の幸せのために大義を貫いて浄化していける自分でありたい。

私の尊敬し心酔する二宮尊徳のような、愛情至大のコンサルティング仕法を信じて、カグヤの社業を通して人々の心田を耕していきたい。