天真爛漫

先日、京都の鞍馬寺で素晴らしい方からお話をお伺いすることができた。

色々な実践を経て、悟ってくると無為自然の境地に達するのも人間の叡智だと思う。

日々の生活で精進し、自然と触れ合い感応力を磨いていく、そして自己の本質を探究し、境界線をなくしていく、そこに確かに心身ともに澄んでいきその生命を輝かせていく。

そしてその全体の調和が繋がり合う世界に於いて、澄んだ心を存分に発揮しながら個性が顕在すると天真爛漫に振る舞えるようになるのだろうとも私は思う。

そこで教えていただいたことがある。

一つは、何かを求道するにおいてもっとも深めることは原点であり、その原点への辿り方が無数にあったとしてもそのものは一つ、命や光であるというもの。人間はなぜ生まれてきたのかを知りたがり、その性を活かしたいと思うようになるのはもともと在った姿やもともとの澄んだものになろうとする無為自然の働きであるようにも私は思う。

つまりはすべての命が水のようになり、渾然一体になっているということ。

もう一つは、世界を映し出しそこで生きるとして、正しくコンセントを入れてチャンネルをあわせることで観えてくるというもの。常に時代とともにその時代の変わるものと変わらないもの、易不易があり、その中で正しく変わらないものに繋がりを持ちつつ、変わるものにあわせていくということだと解釈しました。

常に、すべての生命はあるがままであり、全体としての一部として働きを持つ、つまりは役割がある存在であるということに根差せば、当然、私たちはその役割を果たしたいと願うもの。

だとして、この時代にいるのであれば当然役割を成就することを念じて気長に歩み性を全うすることでその天真を発揮していく、そのプロセスに現実の情感世界が存在していて感動と青春を謳歌しながら幸福を味わっていくということだと私は思う。

澄んだ心とは、天真爛漫であるということ。

常に、子ども第一主義を柱とする私たちの会社ではその天真を極めるために孤高の頂きを目指し質を高めるための実践を日々怠らず、常に人を愛し、天を敬い、丸ごと受容する世界を信じてともに歩んでいきたい。

一期一会の教えに、改めて感謝いたします。

響き合う世界

先日、パートナーの園で話を深める機会があった。

人は、お互いを信じ合う環境を創造しリーダーがそれぞれの人間の中の個性を引き出して事に当たればほとんどの問題は解決の方向で顕在する。

本質というものは、偏らないところにあるものであり、偏らないためにはプロセスの中に意味があるものとしそのものをすべて含有し無限に受容し循環させていくなかでのみ共通理解ができるものだと私は思う。

例えば、話し合い一つであっても、何も決めず、何もやらない絶対積極の世界にて響き合いや繋がり合いを生み出す時、そこに新たな創造的生命が発動していく。そこまで深掘ることができれば後は流れに逆わずに丁寧に進めていけばいいのであると思う。

保育や教育の世界では、とかく大人側の偏見により子どもを見定めよく子どもの話を聞き届けず安易に判断をしてしまうことがある。

それは保育者と言われる人たちもそうだし、またその施設の長と言われる人たちも知識が豊富になり過ぎたり、情操が豊富になり過ぎると、とかくどちらかに偏ってくる。

子どもを真ん中にとあるけれど、ただ大人と子どもという安易な対極的な視野ではとても子どもを真ん中にとはいえない、それはただのスローガンだということになる。

本当に子どもを真ん中にというのであれば、当然それは中庸であるのだから真に子どものあるがままということになるけれど、これは大人でもなく子どもでもなく人間としてどうあるべきかが正しく実践できているかどうかによる。

子ども第一主義の私たちの理念もそうだけれど、どれだけ自分が童心であるのか、つまりは澄んだ子どもの心でいて理解し共感し行動できているかということでもある。

人は、何かしらの先入観や自らのエゴを優先すると偏るもの。

特に何かの組織やチームで行う場合は、人が関わるからその中和していくことは難しい。理由としてもっとも面倒なのは、人はみんな自分を分かってもらいたいと相手に思うばかり自分がどう分かっているかという自己理解への探求に矢印が向き変わらないからだと私は思う。

人は、みんな自分のことを相手に分かって欲しいと日々躍起になっている、言いかえれば、分かって欲しい人を死に物狂いで探しているといっても過言ではない。在る境地までいけば、仙人のように天命を悟りあるがままなのだろうけれどそうではない人たちはみんなそうやって分かり合えない日常の中で苦悩をしている。

相手を分かろうとすることは、自分を分かろうとすることでもあり、自分が相手を自分と同じく思えるかという共感力による。認めてくれているかどうかというのは、自分の内面に相手の本性を映し安心しているということ。

つまりは、相手を信じているかどうかということに根差している。

子どももそうだけれど、信じていれば安心して動きだす、信じていなければ分かってもらえないと思うから動かないということになる。自発的な組織とは、お互いを深く理解しあって安心しているからこそできるものであり、受け身の組織はお互いが分からないから受身になるということでもある。

それを中和し受容するものに私たちが実践する一円対話がある。

一つ一つの音を、深く響き合わせることで音楽を奏でていくようなもの。
音だけではただの音、それが響きあうから音楽になる。

そこにどんな真心を籠めるかで響き合う世界は変わっていく。

道徳により、天の赴くままに時間を使うことこそ人間の本性を引き出していく方法はない。

これからも子どもたちの現場に、響き合う世界を広げて、より子ども第一主義の理念を体現していきたい。何かの出来事が起きるとき、そこに確かに何かの深い意味がある。その深い意味を味わい尽くして、日々の生活を楽しんでいきたいと思う。

寛容と気遣い

人が人と生きる以上、気遣いというのはその間に必ず存在する。

それはどんな距離感の間でも必要で、その気遣うことで関わりがより豊かになっていくものだし、そこに幸福の香りが広がっていくものだと思う。

しかし、最近では気遣いが形だけのものになり礼儀が心からのものではなくなり、まるで一般常識ということでその場その場だけの単なる形式になってしまっていることが多い。

人をおもてなすことやその方法を考えると、それは無限にある。
しかし、相手のことを大切にするということは一つでありそこに数はない。

つまり、何よりもまず人を大切にしようという自然な心の顕れを表現することが気遣っているということになるのだと私は思う。

気遣いに本質があるとして、それは心と言葉を本心本音で表現することであると思う。

何かのテクニックでやるのではなく、心からの言葉で相手に分かるように自分の思っていることを、正直に伝えて相手の心と自分の心を通じあわせていくよういしていくこと。

そこに相手を敬い、相手を愛するということでその自分を敬い愛することができ、まるで鏡に写る自分のように自他同一に感じ合う時、通じ合っていくのだと思う。

そしてそこで敬愛するのは、相手のことを大事にしたいと思う自分の誠意であり、自分の本音本心を包み隠さず相手に表現することである。それを心を開くということでもあるし、受け容れるということでもあるのだと私は思う。

人はつい自分の偏見(何かしらの基準)を設けて、他人を品評することがある。それはその人の一部ではあるけれど、それをする人からすればその人の全体のことになってしまう。

自分の偏見の眼鏡で他人を観るのは、自分の中にある同じものにフォーカスすることであり、そればかりを遣っていると次第に自分が疲弊してくることもある。

他人の良い処を観るというのは、偏見のない素直で澄んだ心で相手のことを受容し、そしてその中でも自分が敬愛している自分と同じ部分をたくさん見出だし、相手と心を通じ合っていくことを言うと思う。

私自身、どうしても過去のトラウマ体験や、その状況で感じたキズが癒えず、どうしても苦手な相手にはそういう偏見を持ってしまうことがある。

もちろん、それも相手は何かしらの事情であるのだろうけれど全体としては人間は必ず自分と同じように素直に生きているところがある。

だからこそ、もっと他人を許し、そして広く受け入れるような実践、つまりは何事も寛容の心で気遣いをしていけるようになっていきたいと思う。

子どもたちにも、いつもそういう寛容なモデルを示していける大人でいたいと誓う。

子どもを愛し切ること

昨日は、見守りと導きを理念に掲げるパートナー園の園長と一緒に話を深める機会があった。

現場での実践を開始するにあたり、色々と御互いの共通理解やまた何を約束するのか、その信頼関係というものへの関わり方や心の開き方などを含めて様々な話をした。

その中で、保護者というものへ対してどのように接していくかについてなども話を深めた。私は、保護者を含め周囲の大人に対しては子どもたちに時代を譲っていく存在であるものと定義しており、自分たちの子ども時代そのものが未来の社会なのだから当然、子どもたちを見守り、何を譲り、何を与えられるかを皆で考えましょうとそれぞれの大人たちが愛と真心、つまりは親心を発揮していこうと、先祖代々から私たちがあることを問いながら共有していくことを大事にする。

また園では理念を明確にしなければ、地域の子育ての拠点といっても何をやりたいのか何ができるのかが分からないままでは当然多くの人たちと協力し合うことも難しくなる。

つまりは、まずは自分がその信念や理念を周囲へ表現することで誠心誠意を尽くしていくことを優先することで心を通じ合う関わりを持てるようになるというもの。

経済主導の社会の中では、サービスというものが何かをやってあげることであるからこそ、見守るということはとても理解していただくことは難しい。だからこそ、そういう見えない価値に対してどれだけ真剣に皆で心を籠めて取り組むかで長い年月を経て多くの良縁を結ぶことができ子どもたちが譲り受けることができるのではないかと感じている。

その園長との話の中でとても印象深かったのが、保護者との会談の中でのやり取りの話だ。つい保育者や保育従事者から見ると、親は自分の子どものことばかりについて要望してくることもある。しかし、その応えに対してどのように返答するかということだろうか、園長は保護者との会談でこう話をしたという。

「自分の子どもをどんどん愛してください、自分の子どもだけはといつも大事にしてください。そうしていれば、深まっていけば必ずその子どもの周囲の子どももどんどん愛していかないと自分の子どもが良くならないと気づけるからです。だから私は、「自分の子どもばっかり」などとは言いません。とことん深く自分の子どもたちから愛しきってもらえれば必ずそれは多くの子どもたちへの愛になりますから。」

これはよくマザーテレサも言うけれど、本当の愛は平等で公平であるし、本当の愛はそこに広大無辺な無限の愛が顕現するということと同じことだと思う。

そして私は社業の理念である「子どもを第一主義」にというのは、つまりはこういうことだと思っている。

どこまで子どもたちを信じ切るかとなると、そこに自分のエゴや私欲、自分の都合の中での子どもに良いではどうしても子どもたちのことを本当に愛しきったかとはいえないと思う。

何の遠慮もなく、何の躊躇いもなく、心から真心で愛するように自らの心に清らかであり素直にその本々備わっているあるがままの親心で無償の愛を与えきるとき、育まれる側がその真理を受け継いでいくのはすべての生命のあるがままの本質であると私は思う。

私の尊敬するポーランドのヤヌシュコルチャックにもこうある。

「子どもを理解するとは自分自身を理解することであり、子どもを愛するとは自分自身を愛することである。」

自分にも必ず子ども時代があり、その子ども時代を深く愛することが子どもを愛することにも繋がっている。

古語にも童心には神が宿ると言われることがあるけれど、純粋無垢な心のままでいることは何よりも子どもを第一にしているという自らへ向けた真心の実践でもある。

見守るというのは、そこにどんな社会環境があったにせよ、どんな刷り込みの中でトラウマが沁みついたにせよ、まずは自分自身がそれと正面から向き合い、堂々と正直に周囲の人々とともに思いやりのある温かい社会を生きていくという自覚を持つことに繋がっているのが何より人の道であると私は思う。

そして人は一人では生きていけないのだから、それを同じ志を持つ人たちや、同じように苦悩で生きる人たちと学び合いながら自立し、心と力をあわせ、認め合い、支え合い、助け合い、貢献し合いながら生きていくという自らの人生を真摯に生きていくという信念を持つことでもある。

カグヤの理念「子ども第一主義」でいうところの子どもの心は、子どもはいつも周囲に愛されて大切にされることを一番望んでいるという現実を大切にすることであり、それは教育や保育などと分類分けする以前の生命全ての基本理念であると私は思っている。

師の語る「Mimamoru」の本質は子どもをまるごと信じているからということが何よりも優先されている。

これからも、色々な温かい意見をすべて社業の理念の有難い糧とし、支えてくれている人たちや応援してくださる人たちの感謝を実践で子どもたちに譲っていきたいと思う。

配慮の質量

何か組織で重要な仕事を行う際には常に信頼関係が基盤になっていなければ安心して働くことはできない。

もし安心できなければせめては安全だけでもとなり、そうなると管理体制を強化していけばいいとやっているところはたくさんあるけれど、そういうマニュアル中心で進めている組織ではやはりどこか組織に機能不全を起こしてしまい所々に配慮が足りず全体が頑固に偏っていく傾向もある。

そういう組織は脆く崩れやすく、大事な場面でとても弱い。

しかし安心してそれぞれが自立し配慮し合う組織は、ファジーで柔軟性がありそういう大事な場面でとても強いし大きな効果を発揮していく。

そこで大事なモノサシとなるのは、個々における配慮ということになる。

この配慮の「配」は辞書をひくと、(配慮や注意などを行き渡らせる。方々に行き届かせる。)とある。そして「慮」とは、(周囲の状況などをよくよく考える。思いめぐらす。)とある。

つまりは、この「配慮する」とは、「自らが先に相手や周囲へ心をくばりよく見て常に相手を気遣いながら考えを思いめぐらしている行為」ということになる。

私はこれはとても大切なことだと思う。

特に難しい問題などを扱うコンサルタントや、繊細な心の機微に触れる仕事をしている人たちはこういうことができなければ配慮に欠ける言動で相手を深く傷つけることにもなるから注意が必要だと思う。

子どもの保育にしても、相手のことや周囲を慮らない自分優先の自分都合の価値観の押しつけで保育をしてしまうと気づかずにとても子どもの純粋な心に多大な影響を与えてしまうこともある。

みんなと一緒に働くというのは、自分ができる範囲では最大に合わせたからと勝手に考えるのではなく常に周囲のことを尊重して自分を高いところへ合わせいなければ相手の言うことを本質的に分かりあったりすることはできない。

仕事もそうだけれど、まず自分が相手のことを優先して考えているときは配慮ができているけれど、その逆に自分がどうしようかとばかりに躍起になっていては相手の気持ちも考えずに自分を一方的に押し付けて相手に合わせさせ追い込むようなプライベートな追及を行うようにもなったりもする。

特に相手が配慮深い人であったり、一流のセンスを持つ人を相手にするのならば余計にその微細な配慮は相手の問題意識や個性を尊重するものになっていなければ失礼にあたることがある。

まずは配慮の質量を正しく通じたコミュニケーション(思いやりの実行)をすることを大事にして信頼関係を積み上げていき、相手のことを観が見て、相手がどうしてほしいのかを深く洞察し、自分が相手の問題意識に合わせて心地よく進められるかを行うことも、より高い次元で自らを活かすために協働し安心して進めるためには必要になる。

しかしこれを単に当然仕事だからとあまり配慮せず慇懃無礼に相手の気持ちを考えずさも当然のように振る舞ったり、もしくは自分のことばかりを考えて自分に余裕がなくなると相手にばかり無理をさせることになり、最終的には御互いが協力して安心して仕事に取り組むことができなくなる。

常に仕事とは、お互いが配慮しあうことで成り立っている。

それは、チームの仲間や仕事を行う人たちがどのような気持ちで今いるのかを自分なりに近づくように努力することであり、自分が一体何ができるのかを思いやりを持ってともに一つ一つ取り組むことで自分から仕事の信頼関係を築いていくのだと思う。

古来からあるこの国の基本的精神である和の心とは互いに配慮し尊重しあうことでの信頼関係が優先されている誠の心であり、それを正しく積み上げていくことが認め合い安心して心も力もあわせて大事を行うということになる。

もし一緒にやることが流れ作業だと単に言われたことをやればいいのだろうけれど、一緒に創り上げる本質的な仕事や協力して助け合う公の仕事は、単に言われたことを自分勝手にやってもだめでそれは正しく相手のことをまず理解しようとする相手を優先しようとする自立した自分でいなければいけないのだ。

自然に言えば、自立とは共生することであり、共生が自立をするということ。

自分がまず相手のことを考えている人たちでなければとても皆で自立して助けあいながら活かし合うことなどはできはしない。

しかし、人間はつい今まで一人で作業をしていたり、画一化された組織の義務や権利など刷り込みが深いと、役職が上なのだから当然部下の面倒は見るのは当たり前だと開き直ったり、下だから上から教えてもらうのは当たり前だとなったり、自分は先輩だからやらなくていいや、もしくは新人だからこれくらいでや、もしくはベテランだから知ってて当たり前や、功績があるからもういいなど、そういった相手への配慮のない自分都合の先入観や刷り込み、または決め付けなどは思いやりに欠ける行為になるので人と仕事をしているのだから何よりも気をつけないといけないと思う。

常に、相手のことを思いやり自分から気を配り慮るように相手のことをまず配慮するという公人として自立した実践のモデルを示していきたい。

特に子どもの仕事に携わる以上、この相手への配慮は何よりも子どもの立場で考えてそれぞれの人たちと協力し合うことであり、共に信頼し合うチームとして保育をしていくことを優先し、本質的なコミュニケーションをより重ね合わせて協奏していけるようにしていきたい。

信じること

親子の間に「無償の愛」と言うものがある。それは見返りを求めることのない無私の心であり、自分のことよりも相手のことを自分以上に思いやる真心でもある。

日本の神話を読むと天地開闢以来ずっとこの国の子孫を思い数々の神々が顕れ、譲り続けてきた真の親心ともいうようなものがある。

そしてまたその子孫が譲られ続けられた偉大な親の敬愛の懐にあり、その子として兄弟姉妹ともに仲良く睦まじいままでありとあらゆる生きものを優しく思いやり全ての存在を敬い感謝することが子心と言うのかもしれない。

この国はその天照大神、皇大御神が鎮座している皇国と言われ伊勢神宮に祭られてあり、その創始理念を鑑が観るために私も折をみては道すがら参拝にいくことがある。

その伊勢神宮に、神宮のことを紹介するビデオの中に古事記の解読で有名な本居宣長の歌がの一節が入っている。

「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代(よ)には見えた物なり」 本居宣長(古事記伝より)

神職の人たちは、そこに「当然に在るもの」としていつも神を奉ることにより神代に暮らした私たちの先祖と同じように神を見て暮らし、日々清らかで明るく素直な心で平常心を保ちながら、心を澄まして神に御仕えしいこうとする心の顕現の実践行だとも思う。

私たちはこの狭すぎる人間社会でばかりに心を没頭して生きていると、ついそういう偉大なものをいつも感じるよりも自分の頭で考えたことや誰かの評価やそももっともらしく大きい話が凄いことだと勘違いしてしまう。

しかし、この私たちが使っている言霊も、そしてこの生きているこの地球でのあらゆる出来事も、そもそもそれは遠い遠い昔から引き継がれていることであるし、その悠久の時間から織り成され続けていることであり、その呼吸をするように途切れることのない自然で偉大な天の運行により存在しているとしたら、私たちはその流れを確信しどれだけ感じながら歩んでいるのかがとても重要に思えてくる。

自分だけで生きたり、自分のことだけを考えたり、自分のこの短い人生のことがすべてとなると、何のために今までがあったのか、そして何のためにこれからがあるのかというその人生の問いから離れることにならないだろうか。

悠久の流れを感じることは、昔は観えていたものを見据えながらこの今を見つめることであり、それが清く明るく美しく生きていくことになるのではないか。

そう思うと、その実践の顕現である「信じる」ということは何と偉大なことではないかと私は伊勢神宮の天照大神を参拝するたびに深くそれを感じてしまう。

どこまで信じ抜くか、どこまで見守るのか、その境目すらも感じることができないほどの潔癖なまでの純粋さを示し、その崇高で偉大な真心の存在にあまりにも畏敬を感じずにはいられない。

私たちが引き継いできた思いは、信じるという言霊に載せて賜った大和の心。

この大和の心を信じることとし、毎日の実践に曇りなき真心で歩んでいきたい。子どもたちのことを思うと、天に感謝し、日々、祈念しながら自らの性を学び、その叡智に触れながら学びを深めて世の中のために活かしていきたい。

かんながらの道の奥のさらに奥にあるものを感じられるように至誠を優先できるようにしていきたい。

理想と現実

この仕事をしていると、いろいろな人たちから応援をしていただける機会がある。
こんな時代にとても珍しい会社であること、そういう素直に誠実に理想を追う人たちが集まっていることなど、色々なところから期待していただくこともある。

私たちにとっては、子どもの会社なのだから当然子ども心を大切にしながら人間としてともに認め合い、助け合いながら、人間学も時務学も学び、知行合一に役割を果たしていこうというシンプルな目標に向かっている。

そういう当たり前のことができにくいのは、時代の常であり特に商売や利益が発生するところでは難しいこととされそれは理想でしょとされ建前がどこにあるのかを探される場合も多い。

どんな業界でも、理想はある。
どんな仕事でも、理想を求めていく。

しかし時代の流れだとし、本質を貫くための努力を怠れば現実の厳しさに負けてしまい考え抜くことを諦めて流されていき気がつくと言いわけばかりをする日常が当たり前になってきたりする。

子どもの頃、大人になることは、「物わかりのいい人」になるものだと周囲の大人に教えられた。そして、大人になるとは理想と建前を使い分けることができるようになるものだと習ってきた。これは別に誰かに教えられたのではなく、子どもの眼差しで私が観ていて感じたことだ。

それが嫌で嫌で仕方がなかったから様々なものに反発した、たとえば学校でもそうだし、無理やりそれを押し付けてくる人であったり、社会に出てからは上下関係や組織のこと、さらには社会とはそういうものだよという周りの圧力にで対してもすべて反発した。

そしてそういうものに負けるかと孤軍奮闘していた時期が長かった、それでもそういうことをさせてくれる仕事を探し、自分が観ている世界にしたいと願い只管に自分を持とう、自分に帰ろうと努力した半生でもあった。

そして出逢ったのが、この子ども業界だった。

子どもたちは、理想はみんな持っている、しかし現実の社会の中でどのように発達していけばいいかは分からないでいる。ただ、確かに彼らの中には理想がありそれを追い求める純粋な魂があるように思う。

それを叶えてあげるのが大人たちの役割であろうと、私は感じて見守るということの素晴らしさに感動して今の社業がある。

しかし、現場実践をしているとそうではないものにもたくさん出会う。

たとえば、理想と建前という理想を追うことを事実上諦めて上手く生きていくという現実から逃げた考え方でさももっともらしくその現実を受け入れたくないために虚像を作り上げてねつ造した真理で人々を巻き込んでいるものがいる。

本来は、理想と建前を使い分けるのではなく、本当に理想も現実も持っている人が理念を語れるということが何よりも価値があるのにそうではないことがある。

私は理念と言うものを考えるとき、そこに必ず理想と現実が発生することを知っている。だからこそ、そこに向かって皆で歩むことがもっとも子どもたちの社会を見守ることでもあるのだと確信している。

譲っていくものを思う時、形あるものに囚われるのではなく形のないものでも確かに悠久の普遍的な一つの流れがあることを引き継いでいくことが彼らの時代にとってふさわしいと私は信じている。

これからもカグヤは、理想と現実を正しく持って何よりも子ども第一主義の実践に心を籠めて歩んでいきたい。

コンサルタント業

この仕事を通して日々感じるのは、私たちの為すコンサルタント業とは大いなる敬愛を以て厳格に自らを律し、思いやりを優先し実践することで感化をなすことが何よりの徳目であると私は感じている。

そこには、まず何より「恥」という羞恥の心得が備わっていなければできない仕事ということなる。

孟子に、「羞悪は心の義の端なり」とある。

これは「義」を持つためのもっとも最初の若い心に、他人をがっかりさせない、信頼を壊さない、自分の名誉を自分で傷つけないという、羞恥心を持つことがまずはじまるということになる。

人を感化するような道徳的規範や人道的模範というものは、常に自らが聖職者であるという本人の自覚とともにある。

それを誰からも見られていないからと人目に付くところで本心を隠し、自分を誤魔化し、正直さよりも卑屈さに走り、自他を偽るような、誠のない言葉、誠のない実践では、とても人を本気で感化していけるような立派なコンサルタントにはなれはしない。

「武士は食わねど高楊枝」ではないけれど、サムライは自分の名誉を持つことは自らの使命を成就するために揺るがない大義のためにいつも自分を正しておこうとする誠の実践であり、そのために日々精神的な鍛錬を怠らないという強い信念と決意の顕れともいうのだと私は思う。

つい、今の時代は名誉というと他人から称賛されることや、他から与えられることなどと勘違いしている人がたくさんいるけれど、本当の名誉は、自分自身が「自分自身で誇らしく思えるか」どうかによる。

自分が勇気を持って行動したことが、如何に人々のためになったか、それがより他の幸せのための大いなる貢献に繋がったかを省みるとき、そこに非常に偉大な清々しさが存在していることに気づく。

そして、その清々しさは自分が名誉を維持できていること、本当に誠を尽くしたと言い切れるくらい本気で努力精進ができたということを自覚したときにはじめて持てるものが本当の「名誉」であるのだと私は思う。

その名誉は、魂の中にあり、何人たりともそこを傷つけることはできはしない、唯一傷つけることができるのは、自分自身が誤魔化し嘘をつき、不誠実に逃げたという後悔のみをもって名誉を失うことができる。なぜなら何よりもその不誠実を一番身近でじっと観ているのは何よりも自分であり、何よりも自分を愛してくれている天であるからであると私は思う。

コンサルティング業に於いてもっとも尊重しないといけない自覚は何よりその名誉心であり、そこに英国のジェントルマン精神やこの国の武士道に模範がある。

他人はつい大義のためにミッションを行うという人がいるけれど、本当はそうではなくミッションに誠実であれば次第に大義が芽生え、その恩寵として自分が名誉を手に入れることができるのだ。自分の問題であり、他人が名誉を与えないかどうかが問題ではないということ、つまりは自分に対して正直に素直であるかどうかを問われるのだ。

私自身は、生死の体験からどうしても自分の死生観に自らを照らすと一度きりの一期一会の人生なのだから、何か子どもたちに遺せるものや譲れるもののために生きたいと思えば強く思うほど、見守ってくださっている天と対話をしてあるがままでいたいと思う日が多い。

そこには、最近邂逅があった方で正義や正直であることを何よりも重んじ、その誠を尽くしこの世を去った西郷隆盛の座右の銘、「敬天愛人」に同じ思いを感じることができる。

「道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人を愛すなり。」

自分が今在るのはすべては天の慈愛によるのだから、分け隔てなく天がそうしてくれることへ深い感謝をして畏敬の念を持ちい、天を見習い自分も同じく他人に対しても自分を大事にしたいと思う慈愛の真心でいることを誓った。

そして、さらに義理人道の実践として天の鏡にいつも自分の心を照らしてその誠を顧み内省することを怠らなかった。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。」(西郷南洲遺訓より)

その実践の境地に達するにはまだまだ足りず、日々、真心を籠めて己の誠と正対することが必要であり、何よりまずは日々天を相手とし自分に正直に素直に生きていくことを維持できなければそれはできるはずもない。

これは自分を偽らず誤魔化さず、自分に対しては忠、もしくは義、そして他人に嘯かず欺かず、他人に対して信、もしくは仁、つまりは忠信や仁義を何よりも優先することがこの仕事をしていくための本筋であるのだと私は思う。

こういう時代だからこそ、刷り込みにもっていかれないような誠の人であることを優先して本業を尽くしていきたいと思う。

子どもたちの歩む道が愛に包まれているように至誠を貫ける自分でありたい。

義の心

平和な時代が長く続くと、少しずつだけれどもズレが生まれていく。

その平和を維持するためにもすぐれた教育があり、道徳的な規範が必要だったのに裕福な生活の中で物質的欲求や短絡的快楽に次第に身も心も廃れていくのはどの時代も常であるようにも思う。

かの孟子の時代も、今と同じような時代背景があり嘆いていた言葉が残っている。

「その道を捨てて顧みず、その心なくしても求めようともしない、哀しいかな。鳥や犬がいなくなっても探すことはできるが、心をなくしてはさがしようがない。」

という、これは心をなくしていくことの怖さを物語っている。鳥や犬はいなくなるといないなとすぐに探すくせに、心がなくなることは気づきもしない。そうやって人はどんどん道を捨てていくということだ。

私の定義ではこの平和であるとは、道心を優先する社会を一人ひとりが心の中に持ち続けて皆が思いやりながら大切にしていくことを言い、戦争とは道心を優先しないで利権や欲望を優先する良心から外れた社会のことを言うと思っている。

人は戦争が起こるたびにそのなくした心を取り戻したいが故に、信仰を持ち、宗教を必要としたりする。どの時代も、戦乱が続けば宗教が興り、平和が続けばまた権力が興るように、まるで呼吸をするように相対するものを生み出していくのがこの人間の業であるように思う。

しかしだからといって、何もしていないわけでもなくそういう易不易の中にこそ人間が真摯に生きる意味があり、愛や勇気が求められて人物が登場し、人々はその心の姿かたちの顕現に心から感動し世の中をまた循環させていくのだとも私は思う。そういう人には、必ず義が備わっている。

人と人との間には目には見えないけれど何よりも重要な人の筋道があり、その筋道を正すことであるがままの社会が豊かになるようにできている。会社でも人間関係でも、まず何よりも義を守ることがまずお互いの信頼関係を生み出し、成功と発展の共生基盤になっている。

そして義には必ず実践行動をするという「勇」がある。

孔子は論語で勇とは「義をみてせざるは勇なきなり」といった。つまりは、勇気がある人とは別に強い人ではなく、優しく愛があり、正義を貫くためにその身を捧げられる人をいっているように解釈できる。

古来の有名な義の人に越後の国の上杉謙信がある、隣国のライバル、武田信玄の国土が山野しかないために生活に必要な塩が手に入らずに国民が困っているところを謙信が知ってその信玄に自国の塩を送るという有名な話だ。

謙信はこう言う、「我、公と争うところは弓矢にありて、米塩にあらず。請う、いまより以て塩をわが国に取らえ候へ。多き少なき、ただ、命のままなり」

自分は、争うのは弓矢にてのもので別に米塩ではない。もし必要なら必要な分を持っていってもらっても良い、好きにしてくださいといった感じだろうか。これは、義のために戦はするけれど、義に米塩は関係がなく、それは困っているだろうからどうぞ遠慮なく良いですよということだと思う。敵に塩を送るとは、大義を優先しているからこそできる境地であるのだと思う。

そして後に信玄が亡くなった知らせを聴くと、謙信は生来の素晴らしい恩敵を失ったと慟哭してとても深く悲しんだという。

義とは、お互いに深い尊敬を尽くし礼を持って接することで本来のあるべき勇気を持てるようになるのが互いの人間らしさでもあると私は思う。

スポーツマンシップではないけれど、「最後はみんな誰にも負けない」という境地、つまりはお互いに義を優先して清々しく闘っていましょうという相手への深い尊敬の念により発するべきものが本当に正々堂々としていることだと私は思う。これはとても人間らしく、お互いを深く思いやるからこその徳の高い精神性の成せる人間の優美さであると私は思う。

そしてこの勇とは、天の働きに応じれば、その自ら死ぬときを知り、死ぬ時を誤らないことに繋がるのだとも思う。つまりは、自ら命をとことん尽くして生きるとは、単に自分勝手に犬死をするのではなく、もっとも価値のあるときを見逃さず勇気を出して正義を貫くために生きるということではないか。

巷では生きた屍のようにゾンビのようになっている人を良く見かける。そこには義はなく、礼もなく、自分だけを如何に守るか、自分のことばかりを如何に満たせるかに躍起になっているうちについには孤独や孤立の状態になってしまった人のようにもみかける。

相手の気持ちになり苦悩を共感し、相手の立場になり悲しみを受容し、相手が自分と同じように辛苦に耐えているとし、弱い立場の人たちのために自分の力を誠心誠意遣り切っていくということ。

勇気とは、弱きを助け、驕っている強きをくじく、そして安心して暮らせる世の中のために、自分が天狗のような勇敢さで天下に太平を示すことと私は定義する。

この時代はやはり、天狗のような義を貫く義士は世の中で必要になってきている。自分がなんのために生きるのかを人の道の上で静かに思う時、人はやはり義を立て生きていくことこそが命を尽くすことに繋がっていくようにも思う。

これからも子どもたちとともに歩む中で、先祖に恥じないようなカグヤ道を築き上げていきたい。

素直な深化

師友が在るように人と人は、関係性を通じて色々なものを学ぶ機会がたくさんある。

それは、年上年下関係なく、男女もなく、その人がもつその人なりの生命の本質を感じ取り学ぶことで互いに深まっていくことがある。

そこには器の同じ量の人と器が大小に開きがある人もあるけれど器と器を錬成していくことでいつも自分の器を練り上げていくことも人格陶冶になるものだと思い、そこには終わりはない。

語り口調が大きい人のことをつい器が大きく感じることもあるけれどしかし本当の器が大きい人とはそうではなく、自他に対して誠心誠意が在る人であり、優しく強い信念と深い思いやりがある自立している人にいつも私は器の偉大さを感じる。

人は自分で真理を観ようとしない限りは自分の器に入るものしか人は容れようとはしないくなる。

よく多くの人と触れているとよくわかるけれど、功績があったり肩書きがあると誰でもすごいと思っているところがすごいと思うのだろうけれど、本当の凄さはそういうモノサシでは量れはしない。

明らかに自分の器を大きく超えて偉大さを感じることでその人の凄さを感じることが何よりも人を観る方法だとも私は思う。

私は営業と言う仕事を通じて毎回人に出逢うたびにその人の持つ本当の凄さを洞察してきた。そこには何か一つは、必ず自分の器にして学べるところがありそれをその人なりに磨いているからこれもすごいあれもすごいとなるのだと思う。それを続けていくことで自分の器もどれくらいなのか何をどう学び修行し錬成していけばいいかなどを理解することができる。

しかし、人は自分の頭で考えない癖が長年沁みつくと、自ら深めることをせず今ある自分の器の分でのみしか知識も言葉も容れようとはせず、毎回どんな話や出会いがあってもその人の持っている器以上はこぼれおちてしまい吸収することもできなくなってしまっている人をたくさん見かける。

どんなに同じ話をしても、それをよく聴き取り自らのモノにしていく人と同じ話をしても、いっこうに聴き入れず相変わらずモノにしていかない人がいる。

どちらも同じ人なのになぜだろうか?

真理や本質は、本人が深まっていけば人が語る言葉の中に必ず見出すことできるものだ。別に偉人だけが語る言葉が真理だということではない。そしてそれは決して安易に理解できるものではないし、それは当然それ相応の実践をセットにして語られるのだからあまり便利に使える営業トークでもツールというものでもない。

偉人の言葉を理解するには、自分が偉人と同じ実践をして道を歩んでいることができなければどんな言葉も理解することはない。

たとえば、マザーテレサの真理を知りたければ同じくらいの深さで道を歩んでいなければ気づけないし、私もたくさんの言葉を深めるけれどその差が埋まらずいつもどれくらいその差があるのかを感じるためにと読んでいるだけで、その人の真理を受け売りで何かに使おうなどとは思ってもいない。

人は誰でも偉人の部分がありそれぞれに個性や天性があり、その人の姿かたちが自然に丸みを帯びた球体のように一体となりその透過する光の中にその人らしい神秘性が顕在しているものがある。

それは日々の言霊の中にも、眼差しの中にも、そして声色の中にも顕れる。

そしてそれを自分だけのものにはせず、人々を導くために、あえて言葉にし他人に伝えるために必要な知識と理論、また洞察した言語を持ってそれを伝えようとするけれど、問題はその偉大さを受け手がどれだけ掴み取り観ることができるかということになる。

私の師匠もたくさんの人たちに話をする、しかし同じ話をしても「話がうまい」と聴く人と、私のように毎回「神がかっている」といって聴く人がいる。

私は他人から、「あなたは師を尊敬して神様みたいに思っているからでしょ?」と言われるけれどそれはまったく私の認識とは違う。

その人は人間であり、別に世間で言う神でもないし、自分に利があり尊敬すればすぐに神様となるはずがない。

私が言う神がかっているとは、「自分の器を超えているほどの自然な姿」ということであり、その師の技術、真心、実践、哲学、徳、天の感じ方、等々、そのすべてが私の器よりも偉大だと思って聴いているだけということだ。

それなのに、いちいちそれを周りは評論のように言うけれどそれでよく自分の器を改めて深く大きくしていけるなと思ってしまう。相手のことを偉大だと思って聴けないのは自分に相手を尊敬する素直な心が開いていないからであり、自分以上の存在を受け容れたくないひきこもった卑屈な心や自信のなさがそうしているのだとも私は思う。

自分で考えればわかることを、他人の知識ばかりを頼って自分で深く潜り掴み取る努力をサボっているからそういうことになるのだとも思う。

しかし、一生の中で本当の自分を活かすために、同じ道を選んだ理念の体現者と体験を共にと思い、その人と力をあわせて何か偉大なことをしたいと思うのならその人の言う真理を自分の頭と心で深く探り取り、その人との魂の邂逅や一期一会の生の実践により偉大さを慕いつつそのすべてを身につけることが何よりも学ぶ姿勢ということであると私は思う。

お手伝いとは、力関係が相手が上で自分が下だからするものではない。自分勝手に定めた安全な中でのお手伝いでは、足手まといなだけでお手伝いとは言わない。本当のお手伝いとは、その人の語る本当にやりたいことを正しく理解し、自分の力を正しく発揮して力になることを言うのだと私は思う。

つまりは自立していなければ手伝えないということだ。

常に姿勢としてまずその偉大さを素直に感じ入り、自分で深化すること、つまりは偉大な差を感じながら学びそれを自らの頭と心で器を新たに創造していくことを優先することが重要ということだ。

私はこの道がかんながらである以上、八百万の神々の持つ神性を感じ取るセンスを磨いてより多くの人たちのあるがままを引き出していきたい。まだまだ自分の器に執着があるようでは易不易と簡易に満ちない。

常に縦横無尽に一物中無尽蔵な器を風に乗せていたい。