かんながら

この日本にはとても優しい人たちがたくさんいることを神話に書かれている。

元来、とても素直で情け深い優しい人たちが多いというのは今でも島々に行くと感じる郷土の人たちの触れ合いの中にも見出すことができる。

人間社会の中で生み出される、信不信の軋轢の中で人は大いに苦しみ迷いながら本来の私たちが持っていた精神性を見つめる機会がある。

この国には古来から3つの宝、三種の神器があると言われる。

一つは、「鏡」、一つは、「玉」、もう一つは「剣」である。

名は、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あめのむらくも)という。

本々、鏡と勾玉は、高天原の天界にあった宝で天照大神が所蔵していたもの。そして、剣は下界で素戔男尊が、八つの頭を持つ蛇、ヤマタノオロチを倒して手に入れたものだ。

その3つの神器をもって世界人類が仲良く平和に暮らしていけるようにしようとした。

これは、別にモノを言うのではない。

神社に奉納されていて、その珍しいものを見ようとする人が多いのだがこれは自分本来が持っている奥底にある真心の宝のこと。

説明すると、まず、「鏡」は子どものような素直で明るい正直な心。
そして「勾玉」は、やさしく思いやりのある温かい心。
「剣」は、どんな困難に負けずに立ち向かう信念と知恵、そして勇気の心そ指す。

この心をみんながそれぞれあわせ持つことこそが、皆が仲良く平和に暮らせる宝とすると自らの実践を通して日本の守護神天照大神が示した理念ということになる。

そして天照大神はこの3つの宝を、「和」と語り天界と地界を結び、その結び目をいつも切らさないようにと生活の中に日本人が大切にしているこの心をいつまでも引き継ぐようにとお参りという感謝の行脚を通じて、心の中の穢れを祓い、清らかに禊ぎをすることで古来の精神を保つようにと祈り私たちを見守ってくれているのだと私は思う。

私は神主でもないし、何かそういうことを勉強したわけでもない。

しかし、自分の内面に明らかにあるこの3つの心こそ、この国がもっとも大事にしてきた理念であることは本当によくわかる。

素直で優しく勇気がある神々が平和な世の中を願い創り上げた世界、この大自然の顕現である地球。

万物創造の根源にあるものは、宇宙の真理なのであり、この根源のものを内包することでこそ人間の持つ本当の素晴らしい真心が引き出されて無限の気を発するのではないかと思う。

ただ、それをさせない邪念というものもまたある。

数々の人間社会における、屈折した捻くれた疑いのある暗い心、自分のことだけを考える他を排除する冷酷な心、そして困難から卑怯にも逃げてふらふらする弱虫の心などが同時にあわせて生まれていることも事実。

これは、人はその生き方、在り方、活かし方次第で、いつでもどちらにも傾くものであることを証明している。だからこそ、人生生活の中に理念を持ち心を籠めて生きることが何よりも大切なのだと私は思う。

祈ることは歩むことだし、願うことは行うこと。

日々の生活を誤魔化さず偽らず、正し知識と澄んだ和の心を持って実践していくことこそが何より創始理念に沿っているということになる。

理念に沿うとは、世の中の理(ことわり)にそっていくということ、これは天人合一ともいう。

まずは、先祖の子孫への深い思いやりと無償の愛を正しく受け取ることから学び、この現代の浄化に努めるために日々の生活の中で理念を第一にし和の実践、この「かんならの道」を歩んでいきたい。

感謝

深く潜る

物事の見方には色々とある。

人間は何かの物事を判断する際に、自分のモノサシで理解しようとする。その理解の範囲は、自分の今までの知識や経験から自らで培ってきたものだ。しかし、そのモノサシよりも相手の経験や知識が偉大であったり深かったりする場合は当然相手の質量にあわせることができずそれ以上深く潜ることはできない。

そうなると、どちらかが先生でどちらかが生徒となるのだと思う。

しかし、本質となるとどうだろうか?

本質などとなるとただ広い知識では理解できないことが多くその人の深い体験や経験を通した気づきや実践からの洞察や考察、内省により掴んだものでしかそのことを理解するために近づくこともできはしない。

表面上だけを見て判断するというのは、深く潜ることをせず広く浅く情報を取るときのひとつの情報収集方法となる。

しかし、本当の問題や本質的な課題、もしくは真に解決しないといけないものと対峙する際、人は芯からの解決を探さないといけなくなる。本質とは、自分の内面に潜り静かに体験を通じて自問自答し、本来のあるべきようを引き出していくようなプロセスがいる。それはまるで、宇宙の謎に迫っていくような感覚で自らの奥にある偉大なものに触れていくようにと潜っていく。

それを私なりに言うと根本といってもいいし、根源といってもいい。

たとえば、私は日本書紀に興味がありsおれを学びながら心で感じていると私たちの祖先はもともと天地創造により陰陽の太極を司る神が創造したことになっている。

いいかえれば、そこからイザナギとイザナミによりはじめて生み出されたのが私たち先祖、万葉人となる。そこから次第に様々に分化し多様化したことで今の私たちが此処で生きている。

だとしたら当然今起きているすべての出来事や事物、この身体も心も歴史もすべてはそこからを起点にはじまっているといっても過言ではないと私は思う。

すると問題の本質や課題の本質はどこまで辿るかが分かり、突き詰めればどこまで潜り、自らの内面の真理から引き出し、そこから見通すか、いや、見透かすかということにならないかと思う。

色々なことを人間はそれぞれに好き勝手に洞察する。

それは人間の感情の機微から掴む人もいるし、何かしらの動物的な直観で掴む人がいる。どれも確かに鋭い視点だし、それはそれでとても参考になるし感心することも多い。

しかし本質の洞察とはその奥底に在る本当の根本や根源を掴んでこそ正しくそのものを観ることになるのだと私は思う。

コンサルティング業とは、そういうものを自らの実体験と経験、日々の実践連まの自律した透徹された相手への思いやり、至誠至大の真心によってしか貫くことはできないと私は思う。何を持って掴もうとするかという、どこまで本気で自分と向き合おうとするかが大切なのであり自分を誤魔化している人では真に人を感化することはできないのだ。

たとえば、子どもたちはどんなものでも見抜く感性がある。

生まれたての子どもたちは、今まで生きてきた人間の歴史を内包し、その課題を乗り越えながら現代に顕れてきたと私は信じている。

だからこそ、本来のあるがままとは、自然であるとは、自分を偽らず他人を欺かず、その問題や課題を寛容な精神と強靭な誠心、つまりは、確固とした信念と柔軟な優しさによってなる立派な人物になっていることを言う。

自分勝手にしていることや、自分の浅い判断であるがままというのは、ただ無理をしなくなったというだけで、この世で自然であるには修身や学問をし、道を極めていく努力をしてはじめてあるがままを維持できるということだ。

常に、自分自身の本質を見つめ、子どもたちの未来のためにも正しいものをつまりは邪念を持たない澄んだ心で環境を遺していけるように自らの実践を第一に取り組んでいきたい。

本心本音の幼児の心で大人たちを感化し、皆で自然に近付けるような社業を邁進していきたい。