清々しい完璧

昔、誰かを守るためには自分が強くなりたいと思ったことがある。それは、今でもよくあるのだけれど自分がしっかりしていればと思わないときの方が少ない。それはひょっとしたら私はそれを長男のしがらみであるとし、自分を犠牲にすることが恰好良いと錯覚するのを九州男児のしがらみと定義している。

何かの哀しい出来事や、何か自分の無力さや非力さを実感するとき、人はもっと強くなりたい、もっともっと完全になりたいと自分の不完全さを忌み嫌うことがある。

幼少期からの自己肯定感の差もあると思うけれど、その事実を正しく受け容れて周りとともに生きていける人と、能力が高く実力がある人ほど事実に対してあまりにもそれができなくなり周りを拒絶する人がいる。例えば、悲しすぎる出来事を一人だけで受け容れようとすると自分が犠牲になれば良かったと思ってしまうことがある、そしてより強くなろうとし、自分を鍛えて痛めつけることでその弱さをどんどん克服していくように見える。

そういう人は人一倍責任感が強く、人一倍仲間を思うので、自分が何とかすればと一身に全てを背負いこみ、今にも折れそうな心を奮い立たせながらギリギリの精神力でボロボロになってもたとえ死んでもとさえなり孤独に挑んでいく。

そんな時は、すべて他人の悪い出来事は自分のせいだとも思っていたりもした。そして独りの怖さを味わいながらも誰にも頼らず自分だけを頼りに生きている。

そういう孤独な優し過ぎる人たちが多い社会になったなと最近は本当によく思う。
私自身もまた今までずっと甘さと弱さを勘違いし一人で背負いながら生きてきた。

それは幼い時から頑張りすぎるようにとの教育を大人たちに施され、自分が不完全であることつまりは自然であることを拒絶され、必死に大人の時間や空間にあわされた弊害としての刷り込みが自分の内面にはまだまだたくさんあるからだ。

本当は、仲間と楽しく社会を築き、感動と平和とそして未来を謳歌しながらその人生の旅路を歓び次世代へ譲る幸せを感じて生きていきたいと思っていたのになぜか世知辛い方へ忙しない方へと社会が外側から無理やりに駆り立ててくる。

別に利益を出すだの、奉仕するなど、そんなものはなく、心の赴くままに皆が自然に生きられればどれだけ心が満たされたかを思うと、物質ばかりを生み出され部品のように使い捨てされるから、不安を拭うためにより完璧な部品であろうと心を亡くし生きていく人ばかりになってしまった。

そして傷をなめ合うばかりが仲間というものになり、本当の人間関係を築き難くなってきている。チームというものを意識するほどに、心の扉を開いた心の通いあう当たり前の関係がなくなってきている。

話をそのチームというものに移せば、人は生きていれば生かされている御蔭に感謝してくるもの、そしてそれは皆に迷惑をかけないために自分から決めたルールを守る必要がある。

人は拗ねてイジケて一人で生きている人ほど、ルールを守らないものだけれど、そんな人たちでも死ぬような思いをすると周りがいなかったら生きていけないと思える機会に出会い運が良ければルールとは自分の中に常に置いている必要があると感じる。

しかしそうやって今度はルールばかりを守ろうとすると、小さな犠牲はいらないとなる、もしくは大きな犠牲すらも必要だともいう。これも結果だけにこだわった偏ったチーム観ということになる。

そしてそこで他人を犠牲にしようとする人も一人で完璧を目指す人であり、自分を犠牲にする人も一人で完璧を目指している人である。

完璧とは何だろうか?

私は本当の完璧とは、自分の弱さを誰かにさらけ出して自分の不完全さを受け容れる心をもって相手の弱さを受け容れる心を持ち、ともに支え合って助け合うときに顕れるものだと思う。誰も犠牲にはしない選択ができることこそ、本来のあるがままの自然の姿だと私は思う。

人は不完全であるからこそ、清々しい完璧であることができる。

自分にしかできないことをやるというのは、自分の弱さを受け容れてそこは相手に頼り助けてもらい、自分の強さを引き出して相手を助けていくという変なプライドなどを捨て去った在るがままで一生懸命に仲間を思いやる素直な状態のときにできているとも思う。

ついリーダーとは、誰よりも責任感が強く自己犠牲を払う完璧な人だと勘違いするけれど、私は過去の失敗を戒訓にしてこれからは多くの人たちに仲間の素晴らしさをを伝えていける自分でありたい。

弱い人も強い人もなく、色々な人たちがいて皆が必要という調和を司るリーダーがたくさん世の中で子どもたちの未来を穏やかに揺るぎないものにしていくように社業を邁進していきたい。

不完全さこそが清々しいことだと思えるような自分都合の見方ではない真実真理をあるがままに観える刷り込みの取れた自らの中にある子どもの心を大事にしていきたいと思う。

甘さと弱さ

先日、組織のことを思いながらまたある人の相談に乗りながら人間の甘さと弱さについて考えてみた。

この似たようで異なるものは一体どういうものだろうか?

まず甘さから話すとよく人は何かを決めて取り組むとき、約束をすることがある。それはまず自分がそれを確かにできるかという自問が先であり、周囲の信頼を裏切らないようにという強い意志を固めることもある。

しかし生きていれば様々に出来事が起こり、できない理由はいくつも現れ、そして約束を守れないような邪魔もたくさん入る。それが人生といっても過言ではない。決めない人生であれば流されればいいけれど、一度決めるとそうはいかない、生きているというのは関係性であり決めたと公言するとそれは周囲へ影響をすぐに及ぼすことになる。

そして決定することから、自分に厳しい人と自分に甘い人を見ることができる。

例えば、自分に厳しい人は意志の強さゆえにどんなことへも準備を怠らず、どんなに外側の環境がどうであれ自分で決めたことは自分で守るとし、徹底して主体的に自分を持ちながら約束通りそれを継続していくことができる。

そして自分に甘い人は、意志が弱いゆえに受身になり準備を怠り、外側の出来事がそうなったから仕方がないとなり自分の責任を他人のせいにしたりして言い訳をすることで挫折し何度も続かないことを繰り返している。

意志薄弱ではないけれど、甘えるのは自分で決めないことであり、誰かに任せて責任をとろうとしない当事者意識の欠如から起きることが多い。

そして次の弱さとはどういうものか?

よく弱いのは人間らしいといわれ、他人に共感される。

それは通常は意志の強さと準備はできていてやれているけれど、継続がたまたま困難であったり、結果がどうしても思い通りにならずに心情を吐露するとき同じように取り組む周囲がその継続の意思を尊重し共感されそれも人間らしいからといわれる。

ある意味では他人は完璧な人間に憧れ、同時に嫌悪する。

それは、自分にはできないからであり、それをやることで自分の存在が小さくみえてしまうからでもある。いろいろ出来ない方が自分が役に立てると思える場所がなくなるから次第にその人から離れていこうとなるのだとも思う。

弱さというのは、あるがまま不完全なところがありながらも完全でありたいと思うけれどできないとなったときにお互いの持っている本来の役割や魅力を見いだせるということになる。

そして、弱さをさらけ出せる人は芯がある。

そういう芯を持つ人は、自分を持っている人であり、芯がない人ほど自分がない。他人の顔色ばかりを伺い、良い人になりたいことを目標としているから人は芯がわからなくなり甘えてしまうのだと思う。

そしてその甘さというのは、自立している人からはとても煙たがられる。

なぜならこの甘さは決して「他人を良くしない」からだと思う。

つまり自分に甘いのは自分が良い人になりたがっている人が多く、自分に厳しい人は他人を良い人にしていこうと思っている人だと私は思う。

本当に人に思いやりをもっていれば、自分に甘くはなれない。

先日もある人からなんでそんなに他人に本気になれるのかを問われたときに理由は簡単で「自分が思いやりに欠ける言動が嫌だからと感じるからだ」と話をした。

これも明瞭で、相手が良くならないと思えば思うほど、その言動は真摯になっていく。ひょっとしたらその人にとっては耳の痛いこともあるかもしれないし、ひょっとしたら言われて嫌われるかもしれない。

しかし、それでも相手が正しい行いをするために自分に厳しい部分で相手にもそれを伝え理解を促し、思いやりをもってともに変わろうと話をするのは自分の存在を正しく理解していることであり、自分が周囲により生かされている日々に感謝をしていればこそ、自分で意志決定することの大切さを伝えることができる。

そしてだからこそ、その刹那にその人になりきり人情的には艱難辛苦を深く共感してともに智慧を絞っていこうねや、そういう時こそ継続することだよと心底その人の立場になりきることができる。

そういう意味で私の定義する弱さとは、世界の一部としてあるがままの自分の存在価値を自分が認めていることであり、周囲を信頼し不完全な自分をさらけだしている自然な状態であり、感謝し一生懸命素直に真摯に自分を尽くし取り組んでいる姿であり、そういうものが人々を共感せしめ共に感動し生命の躍動を感化するのだと思う。

西洋文明の人間至上主義の考えでは、常に時間と空間の覇者でなければならずそのために責任に押しつぶされたり、自他をすぐに犠牲にしようとしたりする。

しかし、神道の八百万の神々にあるようにどんなに不完全なものもすべては神様とし何も排除しないという平和と調和の中でこそ神を見出だすことができるという自然と寄り添う寛容の姿から学んだ思想が私たちの内面に繋がり脈々と生きている。

そしてそれはかんながらの道のひとつであり、天地の恩恵を全て素直に感受し、その御礼に天地と同じく他を自分の存在で良くしていこうとする真心を持つ人こそ、自分の本当の弱さに向き合いそれを乗り越えている自然な境地。

だからこそ、社会にいる私たちは自分を大事にし他人も同じく大事にするために自分で決めて本気になり、自他との約束を守る言行一致の実践こそが甘えを断ち切るとし、あるがままの自分で人々を感化できるような日々を過ごしていきたい。

天の一方的で寛大な恩恵に対して、甘えず、地を這う私たちはともに生かしあって楽しみを謳歌する美しい関係性を築いていければと祈る。一度しかない人生だからこそ、甘さと弱さを履き違えないような世界を切り開いていきたい。

子どもを思う

昨日はGT会議があった。ここではいつも藤森平司先生を代表にして学びあいながらその自ら歩みを問いながら日本の保育を創りあげている最中、その方針を知り道を確かめつつ世界の活動と調和していくような話し合いを深めている。そしてそれを同じように取り組む方々とともに点を線にし面にしていきながらより良くしていこうというような活動の原動にしている。

そうやって原動を核にし継続する最中にはいつも本気の邂逅がある。

何でもそうだけれど、本気というものは続くものであるし、続くものが本気というのは真実であり、それだけ何万回も同じことを考えることができ、そしてそれだけ何万回も祈るように実践できるのは形を成していく根本原理だと私は思う。

子どもたちもそうだけれど、最初は形がおぼつかないように見えるけれどその実はもっとも中庸であり、言いかえれば宇宙そのものの根源を成していてそこからこの世界に順応していくように感じる。

だからこそ、原始原則原理から思えばすべての命はそのままでいいというあるがままのもので生きようとするからこそ、そこに個性が生まれ、道が分かれ、育つのだとも思う。

そして、ふとそれを思う時、如何に人はそのままの状態を見守れるかという先人の叡智がいるし、正しく道を歩んだ聖賢の人たちの実践とモデルが魂を揺さぶるような感動を与えてその性を全うさせていく原動力になるのだと私は思う。

保育の素晴らしさとは、そのものの性を引き出すことであり、そしてその命を輝かせて光らせることだと感じ、宇宙の根源である子どもというものをいつも傍に感じることができる心の安んじる至高の御縁が得られるようにも思う。

そこから生育を思うと中庸の「至誠は息む無し」の一文からインスピレーションがある。人は生きているということは、呼吸をしているということであり、その繰り返しの中で必死で生きている。そしてそこに何かの意味があり、その意味に対するものは「悠久」であるような気がする。

はじまりもなくそしておわりのないもの。
永遠に存在している悠久というもの、悠久こそが無中の光であるということ。

そして、中庸にはその人の生育する様にこうあるように感じる。

「至誠は息むなし。息まざれば則ち久し。久しければ則ち徴あり。徴あれば則ち悠遠なり。悠遠なれば則ち博厚なり。博厚なれば則ち高明なり。博厚は物を載する所以なり。高明は物を覆う所以なり。悠久は物を成す所以なり。」

とある、これに照らし私が自由解釈する。

人は、本気であるがままで生きているとその生涯に於いて何かの兆しを得ることができる。それはその自分の発達の兆しなのかもしれない、そしてその発達があればそれが遥かかなたへ繋がっていくことになる、始祖の魂なのかもしれないし、命の根源なのかもしれない。その状態であればそれは広くそして厚みを帯びてくる、そしてそうなれば高く明るい状態になる。土台として大きく厚みを帯びた大地が生まれ、空が明るくすべてを覆う。そうなると、私たちが目に見えている宇宙のような膨大で広大無辺な存在を感じることになる。そこまで偉大な存在になれば物はそこに成るものであり、そこに物が顕現できる。

つまりはこの生育とは本気であり、それの存在を自然に尽くすことが天命ということであるということではないかと私は思った。

そのプロセスを経ていることが、生育を観察することであり、保育ということになるのではないか。発達の普遍性とは私なりの解釈がある。

しかし、今の人たちはすでに生まれた時から誰かに信じさせられた真実を払拭することができず、刷り込みを取り除くことができないでいる。

そういうプロセスを通して人がそのままに生きられる自然な社会を築きあげる世界を譲ることが保育だとするときに、師の「見守る保育」というところの本質的な価値に至ることができる。

私たちは、人は育てるのは補填的だと勘違いし、何でも教えることや何かを補うことばかりに躍起になり学校の勉強のようにばかりなる。つまりは今で言う大人目線で一方的に可能性を制限し子どもをみようとする。しかし知識先行型安全社会でそれを信じさせられただけのような気がする。そして本当に生まれたときは果たして自分がそう思っていただろうかと思うと、私は周囲を見渡して能力を削っていったのだと信じているし、子どもの心はいつでもどこでも限りなく無限であると思い、その生命の躍動感、つまりは好奇心を感じるたびにその可能性のことを自らの魂が示してくれる。

だからこそ、子どもは子どものものであるようにしていくことが大人たちの推譲であり、人間とはもともと分けることができないものであればこそ天然自然に素直にあるがままに生きていけるようにしていけばいいということになるのが聖職者という社会での役割ではないか。

また子どもを思う。
私はかんながらの道を往く身。

何よりも、自らが子どものモデルになるように自らを清め穢れを祓い安らかなる心と揺るぎない真理とともに、あの星星と同じく輝き煌めいていたいと願う。

子どもたち自身の道と心を見守る存在でいたいと思う。

本当の人間関係

信頼しあう関係を築くのに心を開くということがある。

例えば、自分の心に尋ね、信頼したい相手に対し誤魔化したり隠し事を行えばもうそれは心を開くことができない。自分が相手に心を開くことは、相手のことを自分が信頼しているという行為であり、その相手に対して心を受け取りその開かれた心に対して自分も心を開き通じあうというのが信頼関係を築くということでもある。

その繋がりの絆を強くするのは、日頃のお互いの心を開いた関わりの積み重ねでありその心の扉を常に閉じずに開けておくことができるかどうかによる。

都合によって開けたり閉じたりとしていては、信頼できないとなってしまい本音や本当の関わりができなくなってしまう。

大学にある、「唯仁人のみ能く人を愛し、能く人を悪むと為す」という。これは、ただ本当の人間だけが本当に人を愛することができる、本当に人を憎むことができるという意味になる。だからこそ、孔子は己に克って礼に復るを仁を為すといい、何よりも相手のために自分の甘えに打ち克ち正しい道義を重んじることで思いやりをもった本当の人間になるといった。

たとえば、誰かと決めたルールや規則がある。それはお互いを信頼しあうために要したものだとする、たとえば報告だったり日報だったり、何か問題意識の共有のためのやり取りだったりと、言葉にしたということはそこに約束したということになる。

そのことに対して、自分ができないのならば当然約束してはいけないし言葉にしてはいけないのに、それを破るから信頼関係がまた壊れていくという悪循環を繰り返す。

自分の言動には細心の注意を払い、軽々しくもその場の雰囲気で話したりはしないと言うのは信頼される人間にとってとても大事なことだと思う。

安易な優しさというのは、自分への甘えであって過度な優しさと同じくらいタチが悪いものであると思うし、それが許されるのは自立しあっているものどうしでの中での通じ愛であり、それができるには当然自分に克って自分に忠、人に信という至誠の実践の上に成り立っているのだと思う。

しかし、また仁者に学ぶべきものとして包容力がある。

どこまでを包むかというのは、その愛するところを素直に心から受け容れること。憎むものは憎み、愛すものは愛するというのは、本心からその人の本当に素晴らしいところをゆったりと包み込む深く大きな愛心と真心による。

つまり、相手の中に良くないと思われるような受身である部分や歪んだ刷り込みについては断固として絶縁し正しい人間関係の中には入れず、相手の中に良いと思われるような主体な部分や正しい人としての美しい姿には何よりもあるがままに包みこみ人間関係を豊かに認め合うような気持ちで繋がり織り成していく。

本当の人間関係では、何より自立していないで刷り込まれた人としてどうかという部分にはクールに厳しくジャッジし、自立して真面目に素直な心を開いた人たちには温かく見守るというような「礼と譲」の実践が必要だと私は思う。

これからもカグヤでは、何よりも自分たちがチームとして何を成すべきかを常に自問し、私自身も偏った優しさではなく正しい見識と良心を大事に、原理原則のルールと規範や自律と、また譲り与え見守る思いやりと真心を優先して取り組んでいきたい。

中庸とは、仲人とは、そういう自立したものと定義し、本気で相手のことを思いやりきり接していきたいと思う。

天真チャレンジャー

先日、ある園から相談を受ける機会がった。

歴史があるところは経験年数が多いベテランと言われる人たちが多く、新しい人たちと中間層とそれぞれに文化ができているところがある。

人は知識というものを得、色々な体験をすると次第に先のことが分かるようになる。そうすることで同じ失敗をしないことになり、さらに上手にコツを掴んで何事も一人でできるようになる。

しかしそこに落とし穴がある。

何か知識を得てしまい、色々な体験を経てしまうとその概念が邪魔をして新しく創造することができなくなり、何かを補うことが新しいことと勘違いし無茶なことはしなくなる。つまりは想像の範囲内での挑戦をすることが新しいことということになる。

これは経験年数を問わず、職種も問わず、知識の量がそういう常識を持ち新しいものために変わる勇気がでなくなっていくというものだと思う。たとえば営業の仕事もそうだけれど、新しいことをやるといっても以前の経験や失敗、身に付けた知識が邪魔をしてそこから抜け出そうとはしない。特に成功体験があればあるほど、これはダメ、これもダメ、これもイケナイことと自分勝手に判断をし、チャレンジすることよりも、結果ばかりが気になり思い切って動こうとはしない。なのでいつも失敗する、つまりは変わることができずに停滞する。

これはどの仕事であってもそうだけれども、安全ばかりを気にしていてはとても創意工夫は生まれない。手段ばかりを議論し目的を見失っている組織もたくさんあるけれど、大事なことはまずやってみることであり、そこで掴んだ確かな気付きを日々積み上げていくことであると私は思う。

人は正しいことを行うと決めたとしても、以前の刷り込んできた自分に囚われるとどうしてもできないことややってはいけないという固定概念に縛られることになってしまう。

困窮の困の字は、口の中に木が入り込み抜け出せない状態を表す。

この口こそが、自分の今までの知識であり体験であるということなのだとし、新しくなることとは、その口を一本貫いた芯があり何事にも囚われない自由な心で取り組むということによる。

可能性とは、何よりも新しいことにチャレンジする中で新しい自分を発掘していくという中にある。今までやったことがないのだからそれを遊び心で楽しみ、その最中に閃きや気づき、智慧を引き出し、生まれ出でてくるものにより今までの囚われを払拭して脱皮し新しい世界にいくことを意味する。

教育の世界で、真面目であればあるほどそういう囚われを怖がり何もしないことを優先し、平均であろうとするのは事なかれ主義の保守でいることを意味し、本当に変えたくないものがあるのならば何よりもチャレンジしながら守っていくという姿勢が本来の攻めの姿勢ということだと私は思う。

攻撃は最大の防御とは、攻めているからこそ新しい変化を受容でき、古き不変の原点を守ることができるのだと私は思う。

そして新人は経験がないからこそ自分の心を開き尋ねて囚われのない自由闊達のあるがままでいることだと思う。やってみたいと思うことを安心できる環境で行うには当然そこには周囲への配慮を忘れないことなどの基本的生活習慣を自覚自得していることが必要だけれど、素直にやってみると価値が生まれるのだからその連続で成長していくものでもある。

そしてそういう状態とは皆がチャレンジャーであるということでもある。

目的を掲げたら新旧お互いが皆で一緒にチャレンジすることこそもっとも価値のある充実した理念の実践ということになるのだろうと私は思う。

経験者はすぐに結果ばかりにこだわり頑なになり、新人を押さえるのではなく一緒にチャレンジしそこに生まれた新しい何かを変化の元としていくこと、新人はすぐに否定ばかりして諦めるのではなく、一緒にチャレンジしてそこに生まれた新しい何かを成長の糧にしていくこと。

大事なのは、周囲の環境を信じて素直に成長したいと言う伸び伸びとした大らかで朗らかな素直な心を持って生きることだと私は思う、それを天真チャレンジャーとする。

こういう時代だからこそ、周囲を信じ切ることは自然がすべてを許容することを見習い、色々な価値観、生きざまをあるがままに受け容れる思いやりの心で広く豊かな環境を創造できるような共生と調和した徳の実践を積み上げていきたい。

子どもたちは、何より自由闊達な中でさまざまな存在を受容してくれる大人たちや自然環境の中で活き活きとその天真爛漫な個性を発揮してほしいと願う。

擦り切れてしまい傷ついた人たちもたくさんいるけれど、だからこそ同じようなことがないように子どもたちに遺せるものの本質をともに愛する人たちとの絆を軸に正義と勇気のチャレンジャーでいようと思う。

一字一涙

私が尊敬する偉人の関係性に、上杉鷹山と細井平洲がいる。

まず鷹山に有名な言葉が、「成せばなる 成さねばならぬ 何ごとも 成らぬは人の成さぬなりけり」がある。

もともと私がこの偉人に感応して繋がったのは、吉田松陰であり二宮尊徳であり、その師、細井平洲との邂逅そのものによるものだったと思う。

特に仕事で理念を扱う以上、この二人の師弟の仕法はとても参考になり何よりも私たちが以前から行ってきた維新のモデルになると感じてその足跡をずっと辿ってみようとしたところからのご縁だった。

もともと上杉家は、藩祖、上杉謙信が戦国時代に何よりも「義」を掲げその生きざまを家臣ともども自修し学び藩格を陶冶してきた。その後、戦後に直江兼継が顕れ、その忠義を平和な時代に「愛」とし、何よりも自らが愛の犠牲を実践し自らを顧みずに主君と家臣、その他の民に対し真心を尽くしきった生涯を生きた。

しかし、時間が経つにつれ安楽の方へと押し流され何よりも藩のプライドや重臣たちの嫉妬などによりその実践が薄れてきてさらに石高が下げられる事件が起き、誰も何も無責任になり解決しないまま時に流された。

そして、このピンチの時に顕れた人物が上杉鷹山であり見事にお互いが助け合い認め合う生産性のある思いやりのある社会を新生することになる。

何かの時代のターニングポイントにはそこに様々な偶然と必然の機会が織り成し、その都度何かしらの方針を定めて揺るがない理念を立てる人たちがいる。

歴史を辿るとそういう足跡の思念の痕跡によりいろいろなことから学ぶことができる。

私が今回、何よりもコンサルティングで重要視しているのがその上杉鷹山の師、細井平洲の手法となる。

この方は儒学者であり朱子学を行いながらも何よりも実践第一を掲げ、常に相手のわかる言葉で相手の実践にあわせた学問ができることを大事にした。例えば「考えて、学び、行動する」という教えを常に優先し、学問が机上のものにならないようにその思想や指導は常に現場の人たちの心に根差していたと記されていることからもよくわかる。

現実的に騒ぎ立てることではなく自分から主体的に取り組み改革をしようと思えば、常に実行できるものでなければその時代にあった学問とはいえないのだから、実践から学んで考えた思想は常に時代時代に於いて目からウロコになるのは当然の原理だとも思う。

この細井平洲は、理念の設定というものを大事に、自分の分度を弁え、何より米沢藩主、上杉鷹山を見守り続け、その藩政改革を実現に導くことができた。

見守りには精神的な支えというものがある。

人が理念や大義を掲げて物事を実行するとき、そこに悩みや迷いというものも同時に起きる。何も理念を立てなければそういうものはないけれど、何かを成そうとするならば当然に揺るがないものは原点でもある。

そして人は原点を大事に、お互いを思いやることで信頼関係を築いていく。

その信頼の強い絆こそが、何よりもお互いを見守りあうことであり、そしてそれぞれの道で成そうとする自分の役割の意義を感じ合いその天命を全うすることであるのではないかと私は思う。

なぜこの世の中がうまくいかないのか、政治がこうなのかを思う時、常に私はこの「大学」の中にこの「修身・斉家・治国・平天下」という原理原則があるように思え、国として世界として、私たちはこの先人の叡智と実践をどれだけ模範にしていくかは重要なことと思う。

長くなるので今回はここで話を終えるけれど、この上杉鷹山と細井平洲先生の最後の一期一会の出会いがある普門院には「一字一涙の碑」がある。

ここで師弟がお互いの歩んだ道をお互いが歩みあい涙しながら出会い、そして別れた形跡がいろいろと遺っている。

そしてここにあの吉田松陰が訪ねてきていたことをお寺の口伝で知った。きっと、国を憂う人たちが持つ「忍びざる心」の本質との深い邂逅を得たのだろうと私なりに感応することができた。

日々、子どもたちを思い生きていくことで一期一会が在る。出会いは時空を越えていつも声が届くことを思えば思想こそが私たちの本来のものであり、そう思えば私心なき思いやりのある澄んだ人生は素晴らしいものだと感じる。

何よりもその瞬間瞬間に感動する自分が此処にいる。

この感動をより多くの人たちへ伝えながらも自分の内面にある真実に正対していきたい。より惻隠の心の本質に近づいていけるような自分を修めていきたい。

感謝

懐かしい関係

カグヤにはかんながらの日というものがある。

それぞれの夢の実現、個人の成長、使命の成就、人生の充実などのことをすべて総合的に包みそれぞれが自立していけるように時間を毎月設けている。

私たちの仕事は、子どものモデルになることであり、その人として童心として純粋無垢に人を思いやり認め合うという仁慈の心を大事にしていくことを理念の柱に掲げて「子ども第一主義」と命名している。

その理念の実現には、何よりも知行合一する誠の実践が必要であり、その誠の中にある真理に触れることで愛を感じて自分を変革することを優先し、自分の変革こそがミクロの世界での自修であり、それを社会のため、全世界の子どものためとし改革することこそマクロの世界での自浄でもあると定義する。

まずは、私たち自らが自浄作用を働かせて世界の飢えと渇きを潤そうといった経済と道徳の一致のエネルギー玄となろうというものである。

私は玄米を大事にするのは、私たちは天地自然の恵みそのものとして全体一粒一円丸のようなあるがままのものになることを目指し、何よりもその大極において中庸とし調和を取ろうとするのが私の哲理でもある。

そこを基点にコンサルティングというものの人としての部分に何よりも大事にしていることがある。

先日、ある人より「離れているのになぜそこまでいつも会っているようにお互いに親身になるのですか」と聞かれたことがある。

私は教育保育というパブリックな仕事に携わり、そのパブリックの顕現のような師と道をともにするなかで自分の時間がとても少なくなってくることがあり、昔のように友人と長話する機会も遊ぶ機会も少なくなってきている。いつも関わっている御客様や同志、子どもたちを家族同様に心配しているとどうしてもそういう時間の優先順位が下がりとれなくなってくる。

しかしいつも何か有事があったり失意の時には、誰かから連絡がありいつも励ましたり支え合ったりしている。それは私自身、きっとそういう関係ばかりを築いているからだともあるとき思えた。

仕事も同じくして、離れている時間が多いけれどいつも思って心配している、師のいう見守りであり、孔子の言う恕ということであるかもしれない。そういう意味でいつでも傍にいるという自分の何よりの誠に問いいつもその答えが同じであるかどうかは日々の内省の中でなんども確かめている。

これは家族でもそう、離れていてもいつも心の繋がりは切らずに相手を思いやり続けていること、その今をこの瞬間もいつも祈るように、そして念じるようにいることが何よりも天を信じることであり、人を愛することだと私は思っている。

この心を優先するということが懐かしい人間関係を築けるのだと私は思う。

お互いが信頼し合うとそこに距離はない。
そして、お互いが心で支え合っているとそこに時間はない。

こういうまっすぐで素直な不器用な純粋な子どもような心を持つ人たちが生きにくい社会だからこそ、何よりも私はこういうものを大事にしていきたい。

心が傷つき折れそうになっても、いつも大事な場面で愛と真心でその人のことを丸ごと信じることで支えられる自分でいたいと心底思い、また新たに誓願する。

この繋がりの始祖、根源宇宙のような懐かしい関係に触れながら、かんながらの日を楽しんでいきたいと思う。

感謝。

主体という愛

主体という言葉がある、これはもともと人が生きようとすることを認め信じ正しくあろうとする働きのことだと思う。

すべての生命は天からの無償の愛や恩恵を無限に享受している。

与え続ける側である親心のような無償の愛に対して、すべての生き物は真摯に自分の性を活かし生きようとしているように思う。

それはまるで、与え続けられた愛に応えるようにすべてを丸ごと信じて自らを尽くしていくことが同じく天のような存在になれることをいい、無償に対して無償の愛を通じているようにも感じる。

常にお互いが存在できるということに感謝できているかということが何よりのものであると至上至大の誠の心に何よりも偉大な慈しみと敬いを感じてしまう。

それが自然であると私は思う。

そして自然を思う時、如何に今の人々が不自然であることに気づく。

親に対しての子どもとしての在り方としてもそう。
今は、なぜか親に対して文句を言ったり、親を信じない子どもが増えている。

大人たちの中でも信じあうことを避け、常に疑心暗鬼でいるのは自分が存在していることの否定でもある。

もともと自分がこの世にいられるのは、両親の御蔭であり、そしてその両親を生んだその先の祖父母の御蔭であり、そしてそのまた先の人たちの御蔭で今自分がこの世で存在することができる。

なのにそういう繋がりに感謝をすることを断ち切り、そういう無償の愛に対して見返りを求め、さらには有償の愛を示してみろなどと迫っている人たちが居る。

子どもの心を捨ててきた人たち。

そしてそれは負の連鎖を生みだし、さらなる子どもたちへその有償であることを求めていこうとする。

では、太陽や水、月や風など何も見返りを与えないものに対しても同じようにこれだけ自分が受けているのだからとさえいい、さらにはどのように評価されているかばかりを気にして評価が気に入らなければ文句を言う、これが果たして人としての道であるのだろうか、それは絶対にない。

常に私たちは目には見えないけれど、たくさんの見守りの中で今、ここに存在することができるということを忘れてはいけない。

無償の愛を利用するようではいけないのだ、親心とは常に子どもを思いやる心であり、子心とは、常に親に感謝する心であるのだと思う。

本当の貧しさは、そういう繋がりのある世界を断絶することであり、本当の困窮とは、そういう愛を感じることを拒絶することにある。

常に自分の疑心暗鬼が無償の愛に対する冒涜であることを感じ、虚栄心を捨て去り、自分を心底信じることができるようになるように願う。

大人たちが病んでいるのは、在る意味で病むことで正しいことを思い出させようとする自浄作用であるのだと思う。

私たちは大人になったのだから、子どもたちに無償の愛を与え続け見守ることでもっと世の中を良くしていけるように心を清めていかなければならないと思う。

主体的に生きることは、愛を信じること。
愛を信じていれば自然に主体になっていく。

受身になりがちなこの世の中、教え込まれたものを忘れてあげる謙虚さを持って見守る保育に取り組んで欲しいと願う、まずは実践あるのみとして誠の心を育んでいこうと誓う。

結い

物事や人事には遠心力と求心力というものがある。

万物は一円のように、そのものを球体していてこの地球もそして月も太陽ですらその原理に於いて動静しつつ存在している。

遠心力とは、離れていく力でありそのものから遠ざかっていこうとする動的なものであり、求心力とは、そのものに帰ろうとする力でありそのものを納めていこうとする静的なものだと私は思う。

すべての生命には、その原理があり、その原理より発生しているという。

これは陰陽の原理でもそうだし、自然界の法則ともいうのかもしれないけれど、もともと常に活きているものだとするとそういう絶対的な揺れ揺らぎの中にある大極にこそ私たちが繋がっている縁なのかもしれないと空想を感じることが多い。

だからそれを理解したからと言ってどうにかなるわけではないけれど、原理原則を学びそれを実践で活かそうとし、天人合一に与えられた役割を感応していこうとするとこれもひとつ避けては通れないものなのかもしれない。

人間は、さも素朴に幼子のようななぜを内包しつつそれを何か未知なるもので折り合いをつけれるときは信仰が厚いということになっている。つまりは、何事も何か偉大な力が働いていると頭ではなく心で感じる時それを受け取ることができる。

自然体や平常心など、今は頭で悟ろうとする人が多いけれど実際はそういうものは今までの生き方が左右しているのであり、それを今からの生き方でゼロにしていこうと努力精進忍耐の上にこそ成り立っていることだと思う。

例えば、慈愛や敬愛、感謝や寛容などの人の徳がある。

これは、頭で考えてできるものではなく常に心の状態を澄ませておけるような純粋無垢な強くて優しい思いやりがいる。

どうしても自他彼此を隔てるととてもそうはいかない、それが同一的なものになるかは心の在り方、素直さにある。

そういう根源的なもの、つまりは存在しているものを感じるという境地へはなかなか意識してはいけないけれど、そこに確かに存在しているものをこの今、その瞬間、そこに感じることができる。

それを直観ともいい、結びともいうのかもしれない。

常にその結い目を曇らせないように、今、ここに全ての命を結集していけるような繋がりの世界に存在していきたい。

かんながらの道の上にあるこの結びの心、まだまだ気づきを深めていきたい。

感謝

渾然一体

先日、大阪にて幼保一元などについて意見交換を行うシンポジウムに参加した。
主催は、ウェルネスの片山先生で最近は理念の構築でもともにすることが多くその示唆に富む考え方や行動力にはとても共感することあり尊敬する保育の世界の実践者だ。

また藤森平司先生と安家周一先生の対談も面白く、朝から参加したけれどあっという間に時間が過ぎてとても有意義な機会になった。

根源が同じ人たちが何かをやろうとすると、話がとても盛り上がる。
それぞれの環境から様々な問題意識を育て、一つの確信を持つ。

その確信がさらに広く大きな環になって深まり高まっていく様相は、まだまだこれからやることがたくさんあることの喜びを感じさせる。

そういう確信を感じて見守ることの実践を積み重ねてきた人が次第にGTで集まってきていることを思うと、私たちもより一層、自分を修め、社業を貫徹し邁進していかないとと志新たに兜の緒を締めることができる。

人が何かを行う時、そこには必ず志というものがいる。
自分でこの世の中に何かを為してやろうという気概というものかもしれない。

大切なのは、何よりも自分自身が自分自身で恥じないような生き方をし、そしてそれが模範とされるような言行一致の在り方が周囲を感化していくとし、日々の生活を正し、人としてのルールを守っていくことだと思う。

どんなに良いことをしたや、充実したからといって、そういう日々の鍛錬を怠ったり、生活を誤魔化していると、次第に他人との約束を破ることになる。。

そうやって他人との約束を破ってしまうことが自分との約束を破ることになり、言行不一致が生まれてしまう。大事な決めたことは流さないようにすることが日々を命がけで生きると言うことになるのだとも私は思う。

話を戻すと、私は幼保一元のことでよく幼稚園と保育園が軋轢があるや、公立と私立で壁があるなどと話があるけれどそれはあまり気にしてはいない。

これは仲良くすればいいのだと思う、つまりはそれぞれがそれぞれで本質を見極め質を高めていけば次第に一つになっていくと思う。保育教育でいえば、それぞれが子どもの立場にたって子どもを大切にしていくこと、大人たちの目線での大切にするではなく、子どもたちの側にいるままで大切にしていくと大人都合の話はなくなっていくということ。

たとえば、制度だの、補助金だの、時間枠など、いろいろと言うけれどやっぱり子どもたちが今、何が不安なのか、何が足りないのかなどを、本来の子どもの心のままで考えれば、大人としての専門性で何を改善すればいいのかが次第に分かってくるものだと思う。

師の言うように、差のないところで議論をしなければ御互いに本質的な行動に移すことができないというのはそういうことだ。チームでもそうだけれど、差のあるところでばかり仕事を議論したっていつまで待っても動きもしない。

それならばいっそのこと、一つのところ、お互いが共有する差のない本質の部分で議論をすれば解決にすぐに向かうということだと私は思う。本当は何のためなのかともっとも真淵のところを理解できていれば何も異なることはなく、異なることは一つの方法へ向っていくことだとすぐに理解することができるからだ。人間は、それぞれに与えられた役割があるからこそ自分のことを深く理解していくとともにそれを活かしていく必要があるのだと思う。

話が膨らむので最後にするけれど、今回のシンポジウムの問題提起として私は子どものために皆がそれぞれの場所で取り組むとして「みんなで上書きしていくこと」が良いと思っている、つまりは木の年輪ができていくようにしていくといいと思っている。

年輪は、まるで変化するものと変化しないものをあわせもっているようなものを表現している。生きていれば必ず変化はある、環境の中で様々な激しい変化があっても、そこには必ず太古の昔から変わらない何かも必ずある。

それを思う時、私は「大いなる上書き」と呼び、もっとも必要なもののために毎回新しい自分に戻り、余分なものは削り落していきながら積み上げていくというような生長のための原理が必要になると思う。

今のような激しく変化する時代こそ、より一層変わらないものを持ち上書きを繰り返すことがもっとも自然なことだと私は思う。

そしてそうやって生長しながらも、今度は周囲を感化していく必要がある。

生きるとは、共生することではじめて成り立つのだからまずは環境の中で自分のミッションを尽くし自分自身がまずモデルを示すことで子どもたちに恥じないようにしていくことだとも思う。

組織を率いている人たちや、また子どもに関わる人たちは何よりも不易である理念を明確に打ち出して、その理念を主軸に地域や社会へ行動していくことでより易である貢献をしていくことを目指してほしいと思う。

こういう時代だからこそ、使命役割が明確になるのだ。

私自身、何より天が与えてくれた自分たちへのギフトを正しく受け取れるよう、何よりも志と実践を優先し、信念を醸成していきたいと思う。

常に太極的であれるような平常心を持てるようになっていきたい。

シンポジウムの皆様には本当に勉強になりました。

私たちも、垣根を創らず根本は同じだという思いで誰の批評も怖がらず広く大らかな心を持ってあらゆるものと渾然一体となって仲良く学んでいきたいと思います。

有難うございました。