天真チャレンジャー

先日、ある園から相談を受ける機会がった。

歴史があるところは経験年数が多いベテランと言われる人たちが多く、新しい人たちと中間層とそれぞれに文化ができているところがある。

人は知識というものを得、色々な体験をすると次第に先のことが分かるようになる。そうすることで同じ失敗をしないことになり、さらに上手にコツを掴んで何事も一人でできるようになる。

しかしそこに落とし穴がある。

何か知識を得てしまい、色々な体験を経てしまうとその概念が邪魔をして新しく創造することができなくなり、何かを補うことが新しいことと勘違いし無茶なことはしなくなる。つまりは想像の範囲内での挑戦をすることが新しいことということになる。

これは経験年数を問わず、職種も問わず、知識の量がそういう常識を持ち新しいものために変わる勇気がでなくなっていくというものだと思う。たとえば営業の仕事もそうだけれど、新しいことをやるといっても以前の経験や失敗、身に付けた知識が邪魔をしてそこから抜け出そうとはしない。特に成功体験があればあるほど、これはダメ、これもダメ、これもイケナイことと自分勝手に判断をし、チャレンジすることよりも、結果ばかりが気になり思い切って動こうとはしない。なのでいつも失敗する、つまりは変わることができずに停滞する。

これはどの仕事であってもそうだけれども、安全ばかりを気にしていてはとても創意工夫は生まれない。手段ばかりを議論し目的を見失っている組織もたくさんあるけれど、大事なことはまずやってみることであり、そこで掴んだ確かな気付きを日々積み上げていくことであると私は思う。

人は正しいことを行うと決めたとしても、以前の刷り込んできた自分に囚われるとどうしてもできないことややってはいけないという固定概念に縛られることになってしまう。

困窮の困の字は、口の中に木が入り込み抜け出せない状態を表す。

この口こそが、自分の今までの知識であり体験であるということなのだとし、新しくなることとは、その口を一本貫いた芯があり何事にも囚われない自由な心で取り組むということによる。

可能性とは、何よりも新しいことにチャレンジする中で新しい自分を発掘していくという中にある。今までやったことがないのだからそれを遊び心で楽しみ、その最中に閃きや気づき、智慧を引き出し、生まれ出でてくるものにより今までの囚われを払拭して脱皮し新しい世界にいくことを意味する。

教育の世界で、真面目であればあるほどそういう囚われを怖がり何もしないことを優先し、平均であろうとするのは事なかれ主義の保守でいることを意味し、本当に変えたくないものがあるのならば何よりもチャレンジしながら守っていくという姿勢が本来の攻めの姿勢ということだと私は思う。

攻撃は最大の防御とは、攻めているからこそ新しい変化を受容でき、古き不変の原点を守ることができるのだと私は思う。

そして新人は経験がないからこそ自分の心を開き尋ねて囚われのない自由闊達のあるがままでいることだと思う。やってみたいと思うことを安心できる環境で行うには当然そこには周囲への配慮を忘れないことなどの基本的生活習慣を自覚自得していることが必要だけれど、素直にやってみると価値が生まれるのだからその連続で成長していくものでもある。

そしてそういう状態とは皆がチャレンジャーであるということでもある。

目的を掲げたら新旧お互いが皆で一緒にチャレンジすることこそもっとも価値のある充実した理念の実践ということになるのだろうと私は思う。

経験者はすぐに結果ばかりにこだわり頑なになり、新人を押さえるのではなく一緒にチャレンジしそこに生まれた新しい何かを変化の元としていくこと、新人はすぐに否定ばかりして諦めるのではなく、一緒にチャレンジしてそこに生まれた新しい何かを成長の糧にしていくこと。

大事なのは、周囲の環境を信じて素直に成長したいと言う伸び伸びとした大らかで朗らかな素直な心を持って生きることだと私は思う、それを天真チャレンジャーとする。

こういう時代だからこそ、周囲を信じ切ることは自然がすべてを許容することを見習い、色々な価値観、生きざまをあるがままに受け容れる思いやりの心で広く豊かな環境を創造できるような共生と調和した徳の実践を積み上げていきたい。

子どもたちは、何より自由闊達な中でさまざまな存在を受容してくれる大人たちや自然環境の中で活き活きとその天真爛漫な個性を発揮してほしいと願う。

擦り切れてしまい傷ついた人たちもたくさんいるけれど、だからこそ同じようなことがないように子どもたちに遺せるものの本質をともに愛する人たちとの絆を軸に正義と勇気のチャレンジャーでいようと思う。