清々しい完璧

昔、誰かを守るためには自分が強くなりたいと思ったことがある。それは、今でもよくあるのだけれど自分がしっかりしていればと思わないときの方が少ない。それはひょっとしたら私はそれを長男のしがらみであるとし、自分を犠牲にすることが恰好良いと錯覚するのを九州男児のしがらみと定義している。

何かの哀しい出来事や、何か自分の無力さや非力さを実感するとき、人はもっと強くなりたい、もっともっと完全になりたいと自分の不完全さを忌み嫌うことがある。

幼少期からの自己肯定感の差もあると思うけれど、その事実を正しく受け容れて周りとともに生きていける人と、能力が高く実力がある人ほど事実に対してあまりにもそれができなくなり周りを拒絶する人がいる。例えば、悲しすぎる出来事を一人だけで受け容れようとすると自分が犠牲になれば良かったと思ってしまうことがある、そしてより強くなろうとし、自分を鍛えて痛めつけることでその弱さをどんどん克服していくように見える。

そういう人は人一倍責任感が強く、人一倍仲間を思うので、自分が何とかすればと一身に全てを背負いこみ、今にも折れそうな心を奮い立たせながらギリギリの精神力でボロボロになってもたとえ死んでもとさえなり孤独に挑んでいく。

そんな時は、すべて他人の悪い出来事は自分のせいだとも思っていたりもした。そして独りの怖さを味わいながらも誰にも頼らず自分だけを頼りに生きている。

そういう孤独な優し過ぎる人たちが多い社会になったなと最近は本当によく思う。
私自身もまた今までずっと甘さと弱さを勘違いし一人で背負いながら生きてきた。

それは幼い時から頑張りすぎるようにとの教育を大人たちに施され、自分が不完全であることつまりは自然であることを拒絶され、必死に大人の時間や空間にあわされた弊害としての刷り込みが自分の内面にはまだまだたくさんあるからだ。

本当は、仲間と楽しく社会を築き、感動と平和とそして未来を謳歌しながらその人生の旅路を歓び次世代へ譲る幸せを感じて生きていきたいと思っていたのになぜか世知辛い方へ忙しない方へと社会が外側から無理やりに駆り立ててくる。

別に利益を出すだの、奉仕するなど、そんなものはなく、心の赴くままに皆が自然に生きられればどれだけ心が満たされたかを思うと、物質ばかりを生み出され部品のように使い捨てされるから、不安を拭うためにより完璧な部品であろうと心を亡くし生きていく人ばかりになってしまった。

そして傷をなめ合うばかりが仲間というものになり、本当の人間関係を築き難くなってきている。チームというものを意識するほどに、心の扉を開いた心の通いあう当たり前の関係がなくなってきている。

話をそのチームというものに移せば、人は生きていれば生かされている御蔭に感謝してくるもの、そしてそれは皆に迷惑をかけないために自分から決めたルールを守る必要がある。

人は拗ねてイジケて一人で生きている人ほど、ルールを守らないものだけれど、そんな人たちでも死ぬような思いをすると周りがいなかったら生きていけないと思える機会に出会い運が良ければルールとは自分の中に常に置いている必要があると感じる。

しかしそうやって今度はルールばかりを守ろうとすると、小さな犠牲はいらないとなる、もしくは大きな犠牲すらも必要だともいう。これも結果だけにこだわった偏ったチーム観ということになる。

そしてそこで他人を犠牲にしようとする人も一人で完璧を目指す人であり、自分を犠牲にする人も一人で完璧を目指している人である。

完璧とは何だろうか?

私は本当の完璧とは、自分の弱さを誰かにさらけ出して自分の不完全さを受け容れる心をもって相手の弱さを受け容れる心を持ち、ともに支え合って助け合うときに顕れるものだと思う。誰も犠牲にはしない選択ができることこそ、本来のあるがままの自然の姿だと私は思う。

人は不完全であるからこそ、清々しい完璧であることができる。

自分にしかできないことをやるというのは、自分の弱さを受け容れてそこは相手に頼り助けてもらい、自分の強さを引き出して相手を助けていくという変なプライドなどを捨て去った在るがままで一生懸命に仲間を思いやる素直な状態のときにできているとも思う。

ついリーダーとは、誰よりも責任感が強く自己犠牲を払う完璧な人だと勘違いするけれど、私は過去の失敗を戒訓にしてこれからは多くの人たちに仲間の素晴らしさをを伝えていける自分でありたい。

弱い人も強い人もなく、色々な人たちがいて皆が必要という調和を司るリーダーがたくさん世の中で子どもたちの未来を穏やかに揺るぎないものにしていくように社業を邁進していきたい。

不完全さこそが清々しいことだと思えるような自分都合の見方ではない真実真理をあるがままに観える刷り込みの取れた自らの中にある子どもの心を大事にしていきたいと思う。