環境と自立

環境というものがある。

いくら良い素晴らしい環境というものを用意しても、自分で主体性を発揮せず依存しそこに甘んじる人がいる。どういう人がそういう人かというと、何かの出来事を常に周りの環境にせいにしている人のことだ。

「インビクタス〜負けざる者たち〜」という映画がある、この意味は「征服されない」というラテン語からきている。これはイギリスのウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩であり、マンデラ大統領自身の愛している言霊でもある。

マンデラ大統領は、27年間も監獄につながれその後、南アフリカ共和国の大統領になりノーベル平和賞など数々の功績が認められ、人種差別という人間の深い業に真摯に向き合い民衆を正しく指導した王道政治を行ったリーダーだ。

自分がどんな環境にあったにせよ最後まで自分の人生を自分が決めているという環境に負けることのない「自立」という点で私も日々実践し構築している見守る環境というものの定義が生き方そのものを通して説明できる。

その愛読の詩、インビクタスの最期の2行にもっとも環境に対して主でいることの重要性が説かれる。

「・・・ 私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官なのだ 」

人は、誰しも安易に周囲の環境をみて自分がどうするかを決めていこうとする。人、モノ、空間などでもまずそれが厳しい環境であればその環境にあわせて自分を厳しくし、もしも環境が甘ければそれに甘んじて甘えようとする。

本人の自立しているかの資質とは、環境の中に置いてみるとすぐに分かる。

人間学を積み、人間ができてくれば自ずから心を立てることができて何にも左右されることもなく、自分で決めることができる、そして守ることができるのだと思う。

ある人は、自分で決めた日記を書くということを誰にもいわれずとも必ず書き続けることができ、またある人は自分で決めた掃除などの生活を誰にも言われずとも正しく厳守しやり続けることができる。

しかしある人は、自分で決めたのにいつまでも忙しいからとやろうとはせず、またある人は自分で決めても環境にせいにし言い訳をして実行はせずに常にできない理由ばかりをのべてまったく続けることができない。

これが環境というものに自分がどうあるのかが出てくる、出てくるのは本来の自分自身の主体性というものだと思う。

たとえば、見守るという環境が在る。

これは相手が自立し共生して社会を通して自分の人生を豊かにするためにその平和で幸福な一人ひとりを大切にした環境を国やもしくはリーダーが用意するとする。

その中でもっとも大切なことは、「自分との約束を自分で守れるか、自分のことを自分で律せるか、つまりは環境がどうであれ常に自分で正しい判断と行動ができる善き人間であれるか」ということではないかと私は思う。

例えば、教育でも個人教育や個性教育とは道徳教育と密接に繋がっている。

なぜなら自分で自分を律することができるかなどはすべて自分で決める力を持つ一人ひとりが社会に自分の意志で参画し、正しい倫理観によって調和できるから平和な世界ができてくるのだと思う。個性とはつまり道徳のこと、人間ができるということだと私は思っている。

それをするために、世界の教育では幼少期から「自分で正しい判断を持ち決める、それを自分で守る」ということを絶対評価にし、その絶学ともいう学びから正しい判断基準が持てるような人に育てていくことを重んじている。

しかし今の大人はどうだろうか、誰かに管理されて厳しくされなければ自分を持てないや、環境が甘いので次第に自分都合に流されて自分で自分を甘んじていることをいいことにいつも言い訳ばかりをするようになってしまっている。

小さな組織であれそういう人たちばかりであれば、これでは国家も同じくで、国民一人一人が自分で正しい判断で律していかなければある人は我儘ばかりになり、ある人は自分のことばかりしか大事にせず、またある人は言い訳ばかりで責任を転嫁していたら、確実に国家は滅びるのではないかとも思う、それに正直者が馬鹿をみるような社会がとてもお互いを信頼し合う幸福なものとも思えない。

大学にある、まず国家を修めるにはまずその身を修め、一家を修めとあるけれど、まさにその最初の自分が修まらないのに決して世の中を善くしていくことなどはできはしない。自分との約束が守れなければ信頼と調和の平和はきやしない。

弊社には理念ブックがある

理念ブックは、自分たちが守ると決めた道徳的倫理であり、それこそが私たちが自分でクルーでいるという約束でありその自覚こそがともに信頼しあうという証でもある。

それを厳守する、またはお互いの小さな約束は自分が徹底して守り抜くからこそ誰かのせいや環境に甘んじない自分が主体とした自立する信頼関係ができあがるのだと思う。

常に、環境というものを通して、「自分が甘んじない人=自分との約束を自分で守れる人」そしてその判断が正しくできている人こそが自分で自分の人生を主導して支配していける自立した人ではないかと思う。

仕事も同じく、報告や連絡、相談などもそうだし、責任や役割、貢献や共生などもそれをトップダウンなどではなく自分が誰にも言われずとも自分でできることが環境を与えられて甘んじない人なのだと思う。

もちろん、自分で自分を正しく評価できるようになるには自分で考えて選択し全てに納得し決めていく力が育っている必要がある。

その力は、先程の詩にあるように人生の主導権を自分が責任を持ち魂の支配者は自分だと揺るぎない自覚で日々を正しくすることだと思う。

子どもでいえば、嘘はつかない、他人のものは盗まない、約束は破らない、言い訳はしない、他人を騙さない、他人を蔑にしないなど、人として当たり前であることを自分が守れる人であることからそういう正しい判断はできるもの。

子どもたちに見守る保育を展開していくとしても、大いなる寛容の心と揺るぎない信念という柔和で芯のある模範を示し、その環境との関係性や相互作用によってその人格形成のお手伝いをしていくのも私たちの仕事の一つ。

私自身、どんな厳しく甘える環境が周囲にあるとてそこには惑わず迷わず常に自分が納得し決めることを尊重し厳守し、それから学び、そこに潔癖なまでの魂の実践をもって歩んでいきたい。

草奔崛起を志し、大和の精神を伝承していきたい。