今はこれ

昨日は、中京大学で世界会議が開催されそこに出席し開催者の講演を拝聴してきた。私は、メビウス理論の吉川先生のご招待でその哲学の実践事例の一環として参加をさせていただくことになった。

講演では、今のようなまるで乱気流の時代にどのようにブレークスルーするのかなどについて語られていた。私は、自分が決めていればどの時代もそこには安んじるところがあり、外的環境で左右されることはないという師を持ってから不動心のようなものを学んでいるけれど、やはりリーダーはどの時代もそういう外的環境の中で本来あるべきを維持し譲り守れる人が選ばれるのだと思う。

よくバランスを保つや、柔軟性を持つ、両輪が廻るなど、色々とリーダーとしての資質に必要なものに優先順位を決められるがある。部下はそれを信じて着いてくるし、人はそれを信じて追ってくる。だからこそ、人を導く側なのだから常に天下の王道に照らしてどうなのかを考え抜けているかどうかはとても大切なことだと思う。

私も何かの仕事や相談を受けていると色々と矛盾することを言わないといけないことがたくさんある。その中で、皆がそれぞれに自ら何かこの言葉に深い意味があると受け取ってくれれば、そこからその意味を紡ぎあっちこっちという反応型の二択ではなく、こういうことかと思えるような内省型の一体の答えを導きだしていくことができる。

しかしつい何かのことを行う時に人が陥りがちなのはそれを正しいか正しくないか、もしくは自分都合で判断し間違っていないと勝手に決め付け、どちらかに偏ってしまい柔軟的な発想や行動などがまったく判断できなくなってしまうことだ。それに対して、そうではないと言い続ければそのうちに反応することばかりで必死になり本来考え抜くというような本質を捉える重要性に気づけなくなり追われていくような日々を送ってしまうことになる。

この柔軟性とは、自分が本当に全体のために遣りたいし遣らせていただけることに深い感謝とともにその根本的なものを自ら考え抜いて決意できており、常に「今はこれ」ということを道をともに進む仲間たちとともに判断できるようなことを言う。それを同志ともいう。

それを決めずに、他人にあわせて自分で決めなければ今もこれ、常にこれ、いつまでもこれと言う風になってしまい、本来は理念など中心軸にあるものにあわせて自分で決めないといけないのにそれが観えなくなっているからこそ何を決めることもできなくなり、目の前に相手に頑固に自分の持っている先入観や価値観のみに囚われ、本来の大きな目的のために本来の自分を活かして感謝の輪を喜んでいただくことができなくなっていく。

頑固であるとは、自分の価値観のみを優先し、この「今はこれ」を考え抜いていないことであり、柔軟であるとは「今はこれ」と常に優先順位を自分で決めていられることになる。

最終的には自分で優先順位を決めなければ事物のタイミングや周囲との一体感も持てるはずもなく、それを客観的に一人で判断できるようになるには人間学や時務学をバランスよく学び天人合一するような王道の実践を丸ごと信じているからできるというものでもある。

それはリーダーが行うのだから、フォロアーは理念を主軸にどれだけ全体にとって良いか、つまりは「三方よし」であるかを考え抜いてからリーダーに相談し自ら決めるという行為を主体的に決め続けていくことが大事になる。

それが優先順位が理解できることであり、もし「今はこれ」を自分にさせていただけるとすれば当然それは自分の力ではなく多くの人たち、またはすべての御縁への深い感謝の心がそういうものを引き出していくし、またそこに思いやりを尽くせているからこそ自分と言うエゴを超越し自分の足るを知り世界や全ての周囲に自らを活かしていけるのだとも思う。

最終的には、自分が正しいこと行うこと、つまりは仁義礼智心忠孝悌など人としての正しいと言われる人の道を誰にも見られていようがいなかろうが天が自分を見ているとし実践を怠らないで自然にそれができることになることが安心して自分の天命を立てることになるのだと思う。

だからこそ、見ていないと自分が思っている時間の過ごし方やその心の在り方などを修養し、天が信じていると思い、天と同じように自分もいたいと至誠至純の心をもって思いやりをもって人を愛していくことだと思う。

まだまだ私自身、分かってはいても師のような実践ができるはずもなく、しかしそれ自体が深い意味が在りここに学べるという有難い機会に感謝し、今日もまた一期一会の邂逅があることに何よりも感動と喜びを感じたいと思います。

子どもたちには、そういう大人の実践が感化され生まれてきた意味やその生きるという素晴らしさを私自身の道で表現していければと思います。あるものを観れば感謝のことばかり、出会いや別れその美しき豊かな生に有難い天の恩恵を感じます。

感謝再拝