寧静致遠

自分と言うものを大事にするというのは、自分の持って生まれたあるがままの性に従い天命を全うすることにある。

しかし人は、この雑多な喧騒に鳴りやまない世界に於いて自分の道を定め命を運ぶと言うのはとても難しい。欲に塗れてしまえば、本懐を忘れ、事に乗じては初心を失くす、これではとても真実の人生を遂げることはできない。

光陰矢のごとく過ぎ去り、そして好機は二度ないからこそ一期一会。

その縁を本当に活かす人生を歩むのならば、人生に戒律を持たねばならない。
私が幼少期から尊敬する人物に諸葛亮孔明がある。

私は名が近いこともあり、昔から自分探しの度に紐解くことをしていた人物の一人になる。その諸葛亮孔明が子孫へ言い遺し伝承した「誡子書」に下記が在る。

「それ君子の行ひは、静以て身を修め、倹以て徳を養ふ。淡泊にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし。それ学は須く静なるべく、才は須く学ぶべし。学ぶにあらざれば、以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし。滔慢なれば則ち精を励ます能はず、険躁なれば則ち性を治むること能はず。年は時と与に馳せ、意は日と与に去り、遂に枯落を成し、多く世に接せず。窮盧を悲しみ守るも、将た復た何ぞ及ばん。」

私の解釈だけれど、「立派な人は静かに慎み身を修め、質素倹約にしてその徳を養っていくのがいい。寡欲でなければ志が明確にはならず、穏やかで静でなければ遠大な理想に至ることはない。学ぶということはすべて自ら静謐であることから、そして才能を活かすのも同じくそうやって学ぶもの。このように学ばなければ才能を広く世界へ活かす機会も得られないし、もしも志がなければ本当の学問は決してすることはできない。怠慢になれば精励し継続することもできず、険しくざわつき焦っていたら自らを正しく修めることもできはしない。年月の過ぎ去るのは駆けるようにあまりにも疾く、ついにはその大切な機会も失われてしまい何もしないうちに気力も枯れてしまう。そうしているうちについには年老いてしまい、世の中に接する機会もほとんどなくなってしまう。そうなると、色々と貧窮や困窮の中で悲しみに暮れるようになってしまう。決してこのようににならないため、どうすればよいかよく考えて励むべきです。」とした。

これは、橋本左内など維新の時の志士たちが立志し学問を実践する際に自らを奮い立たせるために書き記したものに似ている。

人は最初に初志を立てることにあり、そのことで無欲になる。

そしてその初志を貫徹するまでのプロセスに、揺るぎない自らを見出だし、その静かで穏やかな日々の中で様々な天を感じることができる。

融通無碍に円満静謐に、悠久の流れに身を置くことができるのだと思う。

常に立志立命というものは、学を志すにある。

そして静かで穏やかであるからこそ、偉大な流れが感じられ其処に在る自らの真の命に触れることができるのだと私は思う。

子どもたちにも、そういう静かであることや穏やかであることはその志の本からあるものとし、その動の中にある静かに安寧があり、その静かの中にある動に安心があることを自らの実践を通じて体現していきたいと思う。いつまでもつまらない誰でもできるような些事に身を任せては臥竜も天に昇ることもない。本来の志に帰り、志に根差して創意工夫と克己修練に研磨して一期一会に感応し続けること。

本当の静かであるというのは、どのような事態においても動でもなく静でもなく、常に「穏やかで安らか」ということがもっとも人生に於の道で偉大なところまでいけるのだとし、まず私は日々平常心を育むような生き方を目指していきたい。