大切な思いのために

一昔前まではたくさんの園を訪問し、たくさんの園長にお会いし一体何がしたいのか、何が手伝えるのかということばかりを考えている時期があった。

それはそれで何かしらの課題があり、それを解決するためにおカネや人材を使ってそれぞれに悩みながら生活をしているのはよく分かった。しかし辿りつくと変化したくないから悩んでいるということが大半だった。

最初は知らなかったことがたくさんあった、そして誤魔化されていた事実もたくさんあった、理想と建前というものも分からず鵜呑みに言われたところから考えてしまっていつまでも納得できない成果に悩むこともあった。しかしそれもやはり変化というものを受け容れられずそれを今までのやり方の延長でなんとかできないかという相談がほとんどだった。

何でもそうだけれど、当たり前に以前あったものがいつまでも変わらずにそのまま存在するはずがない。生きていれば変化するのが世の中の常なのだから、その変化のために私たちは日々を努力精進して自分を修め、自分を易えていくことを続けていかなければいけないのだと思う。

業界別に分かりやすく今の時代の様相を例えてみる。

例えば、今は医者でも昔ほど暗黙の了解で権威があり信頼されているわけではない。面白くないかもしれないけれど、セカンドオピニオンを立ててもらい患者に選択してもらいながら信頼関係を築くのも今の時代の在り方だと思う。

それをいつまでたっても昔あったはずの権威にしがみ付き、それを感情的にいけないことだと一方的に否定したって、新しい時代の流れに対して外側を強引に力技で周囲を押さえ込もうとしてもそんなことくらいで変化の波に勝てるはずがない。

政治家だってそうだろう、昔は自分たちは国民に選ばれたと思っているのだろうけれど昔以上に国民の真の声を真摯に聴き、丁寧に説明責任を果たしていかなければ時代に着いてきているとはいわない。昨今の事件を見ても、逆行することばかりをやってさらに反感を買ってしまっている。昔の権威で強引にやろうとしているから説明責任を果たすこともなく支持率も下がっていく、これも単に変化できなかったということだ。

そして教育者ではどうか、教育者だって多くの人に昔ほど尊敬されている職業ではない。今はもっと授業を面白くしたり、子どもたちの立場で工夫を凝らし、楽しいものにしていったり、保護者と一緒に豊かな遊び心で学び合いをしたりとやっていく時代なのに、いつまでも自分は教師なのだからとそこで胡坐をかいて権威にしがみつけば変化できず周囲の反感をかってしまうこともある。

会社や施設の経営者であっても、今の時代はどうやったら社員や職員が満足して納得の上で働いてもらえるかを大事にし、環境を工夫し整え、自発性を重んじて楽しく豊かに働けるようにしていかなければ変化に対応しているとはいわない。昔のように社長だからと役員だからと肩書きにしがみ付き偉そうにしていたらそのうち時代に取り残されて変化できず会社も施設もまるごど衰退してしまうものだ。それは自分が変化していないからだということだ。

しかし、これだけ時代とあっていないと思うのになぜか人はその変化をいつまでも怖がり、変化しようとはしていかない、これはなぜなのかを考えてみる。

見ているとそのほとんどが今までせっかく大変な思いをしてここまできたのに、それを今さらリセットして手放したくないという執着や欲望があるからだとも思う。そもそも何のためにやるのか、何のために働くのかと感じてもそれをやろうとする理想と、実際はこのままでいたいという願望に打ち克つ意志が足りず建前ばかりを並べては議論をし、落とし所は「変わった風に見せようではないか」というところで着地点を探そうとする心があるからだと思う。

それは誰にでもある、自分にもある。このままでいてほしい、ずっとこのままで続いてくれればいいと思っているものだと思う。今までのままで・・と。

しかし、無常にも時は流れ変わらないものというものはない。それは、世界が生きているからであり生きとし生けるものすべては必ず循環していくものだからだ。

始めも終わりもないこの世界に突然やってきて、戸惑うけれど道はいつまでも続いていくものだ。道に安心と立命を求めるのも、そういうところからきているからだ、正しい変化をしようとするなら必ず「道を志す」必要があるのだと私は思う。

今、この保育や教育業界もはじめすべての業界で変化の波が来ているのはよくわかる。もう昔のままではないということは誰もが気付いている事実でもある。しかし実際は、気付いているけれど何とか以前のものを手放さず変えようとするからいつまでも今までのものを捨てて新しいものを得ようとはしない。

いつも有識者会議などでの経過と結果を観察していて感じるけれど、ちょっとツールを変えただけややり方を少しだけ変更しただけに留まり、何か抜本的に根本にあわせて変えたわけではない。そういうのを変化ではなく、帳尻合わせといい、新しくしたのではなく、補填しただけということになぜ気付かないのだろうか。

ではそのツケを先延ばした先に何が在るのだろうか、それは自分では変われませんでしたと公言し、新しく生まれてくるものや子ども達に先送りしてやってもらろうとするだけではないか。そして変な話はまだ続き、先送りしたくせに自分が年老いて過去を否定されたくないから若い人たちの邪魔をするとはどういうことだろうか。

人は知識や経験を得ているから偉いのではなく、変化に順応できているから立派であるというのにそれができずに凝り固まってしまっては仲間を集め新しい力を押さえこもうとすることで派閥はできても、それで本心は本当に子どもたちのことを愛しているのだろうかと思ってしまう。

どの時代も本物とは変化できる存在であり、変化こそ本物であるために必要なものだ。本物とは、利他の心で自分を捨ててでもと思いやりと勇気を持って挑戦する人たちでなければできはしない。

日々、大切な変化を優先せずに怠ればもともと何よりも一番大切だったものが塵や埃などによって埋まっていきどこにいったのかすら分からなくなっていく。

最初はそうでなかったものが時間が経つことにより見た眼の形は変わっていくものだ。だからこそ見た眼ではなく、変化を捉えて自分を変化させることが本当に変わるということに共通理解を持たなければならない。

だからこそ、いつの時代も大切な思いのためにいつも自分の全てを丸ごと新しい変化のために使っていこうとすることなのだと思う。私もまだまだできてはないからこそ、大変な方のお気持ちは本当によく分かります。

しかし、真心と子どもたちを愛する心を持って、今やらねばならないこと、つまり変化というものを勇気を持って伝えていけるように自分をあわせていきたい。変化するということは、何よりも大切なもののそばに寄り添い自分が初心や原点でいるということであるとすれば何よりも優先するのはその大切で純粋な思いそのもの。

どの時代も維新が必要であるのだと実感し、子どものために勇気を出して取り組んでいきたい。

皆のものなのだから、皆で大切にしていければ善いなと切に思います。