温故知新

以前、長野県の善光寺に参拝した際にお戒壇巡りというものを体験したことがある。その道すがら暗闇の中で本物の秘仏を自覚し、秘仏に出会うという言い伝えがあるようにとても荘厳な雰囲気を味わうことができる。

人は、五感というものを通して様々な物事を自覚し感受し物事を善く観ることができるようになる。一概に言葉や目でばかりを追っていかなくても、自然に心を研ぎ澄ましていけば離れていてもその様相を感じることはできるのだと思う。

感情と言うものがあり、人はその感情があるから判断を迷うことが多い。

義理と人情や論語と算盤ではないけれど、どちらだけでは生きられず、様々な矛盾を受容しつつ、本物の境地や本質でいるには日々の修養と精進の為せるわざであると知りつつも喧騒に流されるままに何もできずに煩悶することがとても多い。

この暗闇というものは、主に目に観えない世界を言う。

その戒壇でも、漆黒の闇の中、最初に目を開いていると次第に闇が深くなっていく恐怖に心が奪われる。そこで開き直り、目を閉じてそれ以外の感覚に身体をあわせていけば次第に心が研ぎ澄まされてくる。指先や肌、そして小さな音、空気の様子や香りなど、次第に心が自由になっていくのを感じる。

そして始めも終わりもなく、ただ闇だけがあることに不思議な安心感を覚えてくる。私はせっかちだから、早く早くと思うのだけれど一度闇を受け容れればそんなに早くとは思わず静寂にいることの心地よさなども感じることができた。

とても長いようで短く、浅いようで深いその漆黒の闇は、様々な心に捉えている出来事を走馬灯のように蘇らせてくる。色々なことを考えていることから、心が虚空ではなくなりざわついているから他の感覚が鈍くなっていく。

瞑想することも、静かに自らを内省することも、それは感覚を研ぎ澄まし、広大で深遠な自分というものに帰りそこから本質を捉えていくということであるのだと思う。

長い歴史が在る中で、人々がこの仏に出会いたいという切なる思いを大事にしてきたことがこの御寺が多くの人々に深く愛され続ける由縁であろうと実感することができた。

こういうことを、様々な体験を通じて仕組化し人々に思い出させていくというのも今の時代では切に求められてくるのかもしれないと私は感じている。

今、カグヤでは様々な研修を通して、もっと子どものことを思い出し、子どもの心に回帰していく取り組みをコンサルティングを通して行っている。そしてそこにはどうしても目には観えないものを伝えていくことも必要になってくる。

そのためには変だと人に言われても、独自の表現を使い伝えていく必要がある。余裕やゆとりでもそうだし、共感や尊重なども口で言って分かるものではない。そしてそれは単にテクニックでできるものでもない。

昔あったものを新しいものに変える温故知新は、決して単に今の時代にあわせて新しくすればいいというのではなく、古きものの中に味わい深くある最先端のものを、今の時代の最先端のものとお見合いさせ、その両方の価値ある部分を重ね合わせて刷新するということが必要なのだと思う。

つまり、古いものはそのままに探究し極め玩味し、新しいものもそのままに探究し玩味する。つまりは、同時に古新の最先端を追い究め尽くすことこそが温故知新ではないのかと私は感じた。

偏って一方だけの観点からでは本当のことは分かりはしない、その時代、その時代に生きてきたものが其処に在る。だからこそ、今の時代、そしてこれからの時代に生きているものがその両方を究め、そこに真の文化を継承していくことが本筋の道であると思う。

心が荒廃する時代は、仏教や神道、儒教、そして欧米の知識やIT技術、さらにはマネージメントや科学などをすべて融合した新たなツールが必要とされていく。

私は私の立っている場所から、その方法を編み出し、子どもたちが安心して暮らせる未来と社会の礎を用意したいと思っている。カグヤのツール全てはそこから発案されているといっても過言ではない。

私にとっての一つのこととは、そういうものを大和魂で生み出していくこと。そこには人や物など全ては不問であり、ありとあらゆる自然の根源的な部分を具備したものであるべきままにあるがままにとしていかなければならない。

これからも、子どもという神秘な存在に寄り添っていくのだから私たちは社業を通じた実体験と実践を以て未来の子どもたちとともに温故知新の道楽を究めていきたい。