弱さという強さ

生きていれば人は成長するために様々なことを体験する。

その中で、それぞれが自分の人生と向き合い、自分の人生でもっとも大切なものは何かというものを知り学び活かしていくのだとも私は思う。

みんなそれぞれ自分のことを知り尽くしている人はとても少ない。他人のことはよく知っているのに自分のことはほとんど知らない。

自分の見ている目が主観的だからであり、客観的に自分を見ている中にも主観的な自分がいつまでも残り、それがあるから正しく自分を理解することができないのであろうと思う。

しかし、志を持って生きていくならいつまでも逃げるわけにはいかないしその全ての現実を受け容れて次の一歩を踏み出していかなければ納得のいく人生を歩めたとはいえなくなる。

人間には、長所もあり短所もある。だから強みもあれば弱みもある。そのことをどう自分が受け容れることができるかというのは、本当の自分のことを知っている必要がある。

本当の自分の姿と憧れている姿があり、そのギャップが埋まらずに苦しんでいる人はたくさんいる。もともと自分にはそれはないのに求めていたらずっと苦しむに違いはない。

たとえば、仮に西洋人のように背が高くスマートで理論的なイメージを持っていたとしても自分がどんな遺伝子で今ができているかをみればいくら表面上は何か靴や服で補ったとしても、しゃべり方を変えてみても本当にそうであるわけではないのでどこかで無理が生じ本物には勝ることはない。背が小さな人が大きな背の人になることはない。

私の同窓に野球部でとても背が小さな友達が野球部の時はあまり良いポジションにはつけなかったが、卒業後競艇選手になって大成功しているという。

誰もが損だと思っていた自分の長所を、それを活かせる環境を自分で見出しそれを存分に発揮することで社会のお役に立つことができる。もしもその彼が、いつまでも背が高くなろうと背伸びをして無理をしたってきっと今の彼が手に入れている自分の本当の強みを生かすことはできなかったのではないかと思う。

そう考えると、弱さとは受け容れないことをいう。

自分の弱さを受け容れないことこそ本当の弱さであり、それができる人こそ自分の本当の強さを知り活かせる人なのだろうとも思う。

私は強みに、最期まで諦めないという強さがある。だからこそ、途中であきらめることや妥協することはその強みを阻害するものであると勘違いしたりすることもある。しかし、最期まで諦めないためにはたくさんのことを捨ててでもやり続けているという実行こその積み重ねで得ていることが多い。

何に絞り、何をやることがいつまでも永続してやり続けられることなのかということもそれを求道していくなかから築きあげてきた自分の強みでもある。

今は、一斉画一の平均教育の環境の中でいつまでも弱さを受け容れらない人がたくさんいる。それを認められずに、自暴自棄になってしまう人たちもたくさんいる。

しかし反対からものを観れば、それこそが素晴らしさであることを体験できるような機会もたくさんえられるほど自分で決めて行動すれば人生を豊かに自然体で楽しく生きていくことができるのだ。

子どもたちには、自分がそれをどこまで示せるかまだまだ頼りない自分だけれど真摯に自分一人ではないことを語り、助け合い、信じあえる社会、見守る実践を深めていきたい。

長い時間かかったとしても、弱さを受け容れることができるような素直な自分の人生をいつまでも前向きに大切にしていこうと思う。