豊かな社会

今のこの国の社会は、競争原理に根ざして人を無理に自立させようとする風潮に塗れている。

一見、平和という形はあるように見えてもその陰ではいつも競争を迫られそのままであることを否定され優しい人たちはみんな疲れ果ててきている。そして一つの価値観で社会を治めようとする画一された上下社会の息苦しい中で誰かと比べられることを恐れて生活しているようにも思う。

平均で収まることを良しとし、平均以内でいることで束の間の安心と安定というものを味わっている節すらもある。

それは本当の意味で安心しているとはいわない。

自分らしく生きていくことを自分で決められ、その自分らしく生きていることを周囲に認められることが社会を安心できるものにしていくのだ。

多様性を認めない社会というのは、常にある一つのかたちを強要しそのかたちにあわせて環境を用意していくことを言う。それぞれの個性を活かすなら、自由というものをもっと考えないといけないと思う。

自由というのは、誰にも決められず自分で心を決められるということだ。

そしてそれを決めた人たちをそれぞれが認め合うようにすることで自分が決めたことをみんなに手伝ってもらえるようになるということだ。

それを一つの価値観を最上のものとし、それ以外はオルタナティブだと蔑み、その物差しを一部の少数意見だからと認めない。

それで果たして本当に善い社会が築けると思えるのだろうか。

人がなぜそうならないかというとこれだけ周りの環境が個々の利益を優先され、便利に早く拡大させようとしたツケが対処療法を生み出し、根源治癒を怠っているうちによりゆがみや歪が広がってきたのだ。

何もしないでおくこととは、やり方の方向を転換することでできるのにいつまでも対処療法ばかりをしているから顚倒することになるのだろう。

根源治癒とは、もともとの自然のようにそのものの価値を認める事、神道にあるような八百万の神々としてそのものの価値をそのままにしていく社会を私たちが取り戻すことでもある。

その中で競争は他とするものではなく、自己を磨き合うという切磋琢磨、つまりは質を高められるようにと学問をしていくことが素晴らしい社会を築き上げていくということになるのだろう。自分自身と競っていくから人は成長と発達することの真理を遂には悟り自己を丸ごと肯定することができ、そして世界に一人の自分に誇りと自信を持てるようになるのだ。

今の時代はそういうことに気づいている人たちも増えてきている。

そういう人たちが自分の持ち場で志を遣り続け持ち草莽崛起してリードしていくことで、世の中をより安心した社会へと導けるのだと思う。一つの価値観の中で染まっていることに騙されてはいけない、もっと自由に自分らしく生きていくことを恐れてはいけない。

人はあるがままの時が一番光のだからこそ、あるがままを認められるように自分が勇気を出して自分の価値観を発信し世の中のために堂々と使っていくことである。

そういう人たちを支えてくれる人たちは世界にはたくさんいることを忘れてはいけない。子どもたちのより良い夢や理想、現実を正しく伝え自分らしい人生を歩めることを見守るためにもまずは自分自身が率先垂範していきたい。

全部できることではなく、自分はこれができるといえる心優しい人たちが守られ尊重される豊かな社会を築き上げるために尽力していきたいと思う。