幼い記憶

先日、独立して会社を経営する弟とアライアンスの提案があり久しぶりに真剣に仕事の話をすることになった。

兄弟というのは不思議で、小さなころからお互いの人生観を尊重しているところがある。けれど当たり前のことだけれど私は兄なのでどうしても兄であるという気持ちがいつまでもなくならない。

かつての幼い記憶がその今の自分を形成しているからだ。

これは師にも教わったことだけれど、あるがままの今を受け容れるということはかつてのその時期があったということが善かったからだとも言われたことがある。それは、例えば赤ちゃんや3歳などの幼児期の子どもはとても愛らしく成長していくと大人になるのだから大人の姿を見れば当然子どもの時点のかわいさというものはもう見た目にはあまりない。

しかし、大人になった今でもかわいくして仕方がないと感じるのは過去のその時期時期がかわいかったからということであるしそういうことを見ていればいつまでたってもかわいいものということになる。

人生の中で何度も色々なシーンを共有し、その成長を見守ることで必ずその人がすくすくとその人たらしく生長していくことを身近でずっと感じているからでもある。

子どものころから見守るというのは、大人にもとても幸せな体験であると本当に感じる。豊かさというのは、人が成長して様々な体験を通して自分の幸せを自分なりに掴んでいくのを良かったねと感じる事でもある。

そう考えると、やはり子どもというのはそのものの存在がとても素晴らしいからこそその子どものころの記憶は親子をはじめその子を取り巻く人々にとってとても重要なことであるのだろうと私は思う。

相手が自ら幸せだと信じることが、自分が幸せになることなのだとこういうときのこそ心底感じることができるものだ。

いつまでもそういう子ども時代の記憶のように両親への愛も兄弟への愛も昔から何も変わらないのはきっと今の自分の関係が過去の連続であることをきちんと受け容れているからでもあるのだろうと思う。

見守っているというのは、いつもと違う言い方にすれば相手の善いところを見てそれを善いことだといつまでも信じていることをいう。

なんだか弟が立派に自立し成長していく姿は、頼もしくなったものだと本当に嬉しく感じる。昔から変わらないところばかりがあるけれど、それを正しい方へ、人を大切にする方へと遣おうとする姿にともに道を歩む中での出会いの有難さや歓びを改めて感じます。

困ったときにはお互い様で生きてきた半生、たいへんなことばかりだけれど体験や感動、その挑戦そのものをともに丸ごと味わい楽しんでいきたいと思う。

これからもお互いの成長を楽しめることに感謝です。