心動

行動を観ているとそれは心が表に顕われているものであると自他を見つめると感じることがある。何か変化があるときには心が何を感じどのような行動をしているのかを観ればその人の心もある程度は理解することができる。

人にはタイプがある。

行動しながら考えるタイプと、考えて行動するタイプがある。しかしどちらのタイプもまず心が本質的要素であり付属的要素が頭があるとしなければ何より大切な「気づく」という自覚することはできはしない。

よく行動をするけれど気づかない人がいて、行動をしないから気づかない人がある。これは両方とも心をまず使おうとせず、頭でばかり上手くやろうとして逃避するから起きることだと思う。

常に何をするにも、「心から」ということでなければ何も感じず、そうなれば気づくこともできないという意味である。

そして人は自分と向き合うことで価値観に出会い、その自分というものをより善く何か大切なもののために変えたいと思うのも「心」である以上、心から思い心で感じたことを少しずつでも行動に移していくということがなければいつまでたっても真に成長することはない。

すぐに知識ばかりや頭でやろうとする人は、心で思ったことを行動するのではなく頭で考えたことばかりで取り組もうとする。そのための読書をしたりしても知識を得ても、自分都合でばかり解釈したりするのもすべて心で感じた方を優先し動かないから結局は時間をかけても何をやってもうまくいかなくなっていくのだと思う。

私も毎月、人の相談を聴いているといつもうまくいかないとなる人は心で感じたことで行動に移そうとはせず、方法ばかりを探してうまくやろうとばかりしているから次第に感じる力が喪失し、自信も見失い、倦怠感や不安感ばかりに苛まれ余計にいつまでも変われないのだろうと思う。

元々人間は歴史を観ても本能的にはあまり自分を変えたいと思わない生き物であろうと思う。それはやっぱり知識を得たからこそ先に分かってしまうからであり、それが実際は大変だからだと知ってしまったからであり、そういうことが便利さというものを追及することになり、最終的には誰か自分以外の人にやってもらおうとする怠け精神が住み着いてしまったのだろうとも推察する。

しまいにはそれが長い年月をかけて積み上げられ習慣として沁みつき、心で感じず頭で処理するやり方から抜け出せなくなってしまったのであろうとも思う。そこまでになるとそう簡単にはそれまでのことを捨てられはないからより頑固になっていくのだろうと思う。

積み上げとは良し悪しにしろ積み上がっていくものだから、今までがある人は、日々の生活の中で心で感じて気づいたころからもっと素直に具体的な行動に移すことから大事にした方がいいのではないかと思う。つまり新しく心でやる体験を積み上げていくのだ。

何のための体験かというと、それは「気づく」ことが自分を創っていくものであり、そうすることで自らの心の感性を澄ませ自分自身が調和し自立していくものになっていくものであると思う。

最近、ひきこもりということも流行のようになっているけれどこれは体験して気づくよりも自分の知識の中にひきこもり心で感じることを避け具体的な行動をいつまでも避けている状態を言う。つまりは、心の中はできれば何か誰かが変わってほしいと外界に変化を求めることで心がまだ動こうとはしていないということになっている。現実逃避や自分と向き合わないやり方では、殻を破ることも臨界点を超えることもできない。

人間関係も同じく、心を開きもっと素直に感じたままに正直に付き合っていけばそのうちいつも真心から行動できるようになり人と親密な関係を築けるというものだ。それをどこかのマニュアル本みたいなものに固執し、頭でっかちに行動ばかりしたって永遠に親密な関係はできはしない。

何かを一緒に取り組む真の仲間とは、いつも心が通じ合う心地よい関係であるからだ。

今の時代の知識偏重型の教育で少子化の過保護過干渉に育ち、資本主義経済のサービス至上主義のような社会では、いつまでも受け身でいたら体験することよりも知っていることが大事なことだと勘違いしてしまう人が増えていく、そしてその結果、いつまでたっても社会に出て自分らしく自立していこうとする勇気がなえていくものだ。

そういう時代だからこそ、もっと心から思っていることや感じていることをより小さなことから行動に移していけるような心動できる環境は子ども達にももっと必要だと思う。

もっと素直に、心が感じて気づくことを大事にしていくようにと教えていきたい。常に誠実に明るく、前向きに生きるためにも心を開くことを何よりを優先することをカグヤでは実践していきたいと思う。