個々の尊重

今の時代は、昔から続いてきた普通にシンプルに生きていくことが以前よりもずっと難しくなっている。例えば、仕事よりも人を大事にすることや、お金よりも親愛の繋がりを優先することや、スケジュールをこなすよりもゆったりと豊かに生きることなど、以前なら当然だった人間らしい静かな生活ができなくなるのは不思議なことだ。

それは幼いときから周囲の過干渉あり、その人の主体的な自分らしさを周囲が尊重しないときからはじまっているようにも思う。

日本人の特徴として「おせっかい」がある、良きにしろ悪きにしろこれはある。良い方で使われるおせっかいは、老婆心から何か困っていたら放っておけないとのでと親切にすることをいい、悪い方のおせっかいはその人のやることなすこと老婆心から口を出してしまいいちいち不安を与えて邪魔をするということになる。

どちらにしてもこの両方は、余計なおせっかいの分はすべて自分の満足を得たいからやったり相手に見返りを期待しているおせっかいだからおかしなことになるのだと思う。過保護や過干渉はは、自分を変えようとはせず相手を変えようとする心からすべて生まれるものであり相手にあわせてお互いが変わっていたらそれは自立と共生をしているということになる。

しかし、身近でもよく見かけるのは自分と他人が違うとすぐに何か不安になるからや、相手が自分の生き方や価値観が理解できないと思ってしまうとすぐに相手を自分と同じように無理にでもなるようにしようとする。

別にその人はその人だとその人らしいのであればそれでいいではないかと尊重するなら別に干渉する必要はないのに、いちいちそれではダメだとなったりそれではいけないと否定するのは自分がそれでは困るからということなのだろう。

知識が先に来て、知識から疑似体験をするような同質の体験をまだやってもいないのにわかった気になるような社会構造の中ではこういうことを理解することも難しくなってきているのだろうとも思う。

私も過去の教育現場や社会、身近な人から過保護過干渉の中で育ってきた。その刷り込みから抜け出すことはとても難しく、どうしても無意識に思考の癖がありそれをしてしまうことがある。そうではないと思うには、まず自分の生き方を自ら責任を持ち、自分らしくいることを尊重することからはじめなければそれもできはしない。

だからこそ、自分が信じられるように人は他人や周囲を信じ見守りそれを存分にやらしてあげるような寛容な精神、つまりは強く優しい心を磨いていかなければ生きる幸せがわからなくなることもある。

どんなやりたいことの根柢も、人権に根ざしておりそれは全てに「自分がされて嫌なことは他人にはしないという」ものからスタートしているものだからこそ、いつのまにか過去に嫌なことをやられたからそれを仕返しするというのでは抜け出せないし本末転倒してしまいそれでは人としての当たり前の人権を保障していこうとしているわけではなくなってしまう。

みんな違ってみんないいのだから、当然、みんなが違うことを何よりもまず自分から見守り尊重しようとすることが本来の意味での個性の尊重であると思う。

皆が生きる幸せを求める心を、その思いやりの実践や謙虚な行為などはカグヤではこれから特に大事にしていきたい。

子ども達のことを思えば、仕事や職業がどうであれまず人として本質的で根源的な人権が保障されるモデルになる会社を目指していきたいと思う。