大学素読の妙味

昨日、致知出版が開催する新春セミナーにクルーの皆と一緒に参加することができた。毎年、この時期にお誘いをいただき新春に刺激を与え合い励まし合い人間学の価値を共有できることはとても幸せな機会であると改めて思う。

今回、私が以前からどうしても直接お会いしてお話をお聴きしてみたかった伊與田覚氏が講演とあっていつにもまして参加するのが楽しみにしていたセミナーだった。

講演がはじまり、参加者全員で大学の素読を行ったのはとても感動的で不思議と体が声を出して読むことで次第に熱くなったことが印象的だった。

自分の声を出して読む素読というのは、伊與田先生によれば感覚器官を刺激することにより感覚を導引していくことだと仰っていたけれどその体験ができたことが何よりも有難いことだった。

また今回も論語、大学についてわかりやすくご説明ただいた。

大学とは、大人(たいじん)の学問でありそれは人に善い影響を与える人物とはということを目指したものでありどのような生き方がそういうものかということを示唆しているもの。

私はこの大学は座右の書のひとつで、何か判断が雑になる際には素読をし心を鎮めるときによく使っている。自反慎独ではないけれど、ちゃんと矢印が自分に向いているかどうかを確かめる書としては最高のものかもしれないと思っている。

講演の中のお話は全部は書ききれないけれど、とても大切なお話ばかりをお聴きすることができた。

特に見識と雑学の話は、私もよく何が違うのだろうと考えもしなかったけれどその違いがはっきりと分かったのは今後深める意味において有難い機会になった。

これは雑学とは、他人の知識をのべつまかなく学び借用し流用するだけで自分のものになっていないものをいう。知という字に「やまいだれ(疒)」の部首がついて、痴という字になる。この痴とは愚かなことであり、いつまでも無明であるという意味になる。

これを現代で言えば評論といい、確かに評論家も有用ではあるけれど所詮借用した知識では100発100中ではないし、場合によっては多くを惑わすことにもなる。

これは孔子が日々の回訓である三省の一つ、「習わざるものを伝へしか」の一文、己の身にもなってない事を妄りに人に語り周囲を惑わせてはおらぬであろうかのことを言っているのだと私は思う。

自分の実体験を通じて知識を深め、気づきを自分のものにしていくことで人格を陶冶することこそ人間が学ぶということの本質であると私は思う。自分のものにならないような内省は内省ではなく、それは論外省であるということだろう。文字通り、筋違いな省みである。

日々、このブログを綴る心構えとして特に大事にしていきたい。

また、私なりのまとめになるけれど「致知を究めれば、心に達する。心に達すればそこから顕われるのが徳である。徳が顕われてくれば天地の道理と一体になり宇宙の調和の中で安んじていくことができる」という意味に解した。

人間学とは、あくまでも自覚するものであり、大切なのは気づきをすべて自分のものにしていくため日々を大切に今の一瞬にすべてを懸けて生き切ることをいう。

こういう時代だからこそ、本筋や本道を貫く姿勢を子ども達へ示していこうと思う。

以心伝心、一期一会、伊與田先生、本当に有難うございました。