心の友

昨日、韓国の友人が久々に訪ねてきたので会社のクルーと一緒に会食と節分行事を楽しむことができた。アジア圏の国々の人々は、同じような文化や似たような価値観がありすぐに気持ちを溶け込ませていくことができる。

そう考えると、見た目が似ているというだけではなく長い歴史の中でお互いが文化交流したことの積み上げに自分たちが存在していることを思うと、私たちがこの先のためにも築き上げていく良好な関係とは、そういったお互いを大切に認め合う中にこそ存在しているのだと改めて感じることができる。

昨日、会食の中でもう15年前からのご縁でいつまでも友人としての絆が深まっていくのを他のクルーからなぜなのかと質問を韓国人にしていたのがとても印象的だった。

その際その友人は、「私たちは違う国民、違う仕事、違う年齢です、同じところは少しもない。しかし、以前、留学していた際、一緒に暮らしたことがある。そこでお互いの生活体験を通して絆ができた。彼は最高の人です。」と言っていた。

私は、人が人と本心から付き合うのにお互いの心をあるがままにさらけ出して葛藤したり摩擦することを大切な心の通じ合いだと思っている。同体験や同生活を通してみると、お互いの価値観の相違やお互いの個性など見なくてもよかったところまではっきりと顕われてくる。

そのお互いの違いを乗り越えてでも、さらに大きなものを掴み取っていくというのはそういうものを越えた信頼・友情・尊敬などといったものがはっきりとその葛藤や摩擦の中で浮き上がってくるからだろうとも思う。

お互いがそういった同体験を通じて、何よりも自分が大切にしていることをわかり合えば距離が離れても、時間が過ぎても、いつも変わらずにある真心を実感しいつでも昔のように語り合うことができるのであろうと私は思う。

古い友人とは、そういう心の絆をいつまでも暖めあうことができる人のことを言う。不器用なまでに人は人との関係をうまく築けず、それぞれに葛藤があり新しい絆を紡いでいくものでもある。

相手を大切にしたいという思いや、相手が大切に思ってくれていると実感している思いこそ、目には見えないけれど確かに心の中にある友情の証であると思う。

尊重し合い、認め合い、信じ合う。

これからも友人とは、そういう関係を末永く築いていければと思っている。

今は、他人との付き合いに本音や本心をさらけ出そうとする人はとても少ない。お酒の席や、何か偏った場合だけを使ってちょっと小出しにするような人との繫がりに臆病になっている人もたくさんいる。裕福な時代だからこそ、不足することがなくなりいつも満たされることで些末な不平不安ばかりに囚われて本気で生きようとしなくなるのは残念なことだ。

だからこそ、常に本気で生きることや、覚悟を持って歩むことや、他人との関わりに本心で通わせ合うというような人間味のある自分を強く持っていたい。人に熱いだの、真剣すぎるだの言われても、それが生涯の友や真の友との一期一会の絆になることを信じてこれからも自分らしくいようと思う。

どんなに外界でのものはなくなり、すべてを失ったとしても、失わないものがある。それが愛や友情、そして絆なのだと何よりも普遍的に大切に昔からあるものをいつまでも感じている心を基盤に人生を謳歌していきたい。

心の友とは、そういういつまでも変わらない心をもって友としていきたい。

感謝。