納得と責任

身近な学校教育の弊害に、一斉画一に言うことを聞かせて何かをやらせるというものがある。一つの価値観で人を抑え込もうとすれば、当然反発はある。その反発を抑えるためにいじめを遣ったり、恐怖や圧力をかけようとするのは軍隊を観ていてもよく分かる。

人にはそれぞれ意志というものがある。それは自分がどうしたいのかと十分に考える時間が必要であり、それで納得ができるようにならなければ当然自発的に主体的に自らが責任を持って取り組もうとはしない。

勉強でもそうだけれど、最初から本質的になぜ学ぶのかやなぜ学校に行くのかなどを考え抜いて登校するのとしないのとではその学びの成果に差がついてくるのもよく分かる。

もちろん人には向き不向きもあるので、記憶が得意や、手先が器用などの能力差があったとしても納得をしているかどうかというのはまた別物であると私は思っている。

社会人になり、この自分で納得しているかどうかということを自分で考える力がある人が年々減ってきているようにも感じる。それに責任というものを考えるとき、自ら主体的にどうしたいかということを考え抜かず、ただ指示待ちをし如何に言われたことを必死にやろうかということばかりに躍起になっている人もいる。

人は、納得しているかどうかというのはとても大事なことで本当は何か、本質はどうなのかとまず自分で考え抜かなければ納得するということはない。人がなぜ働くのか、仕事とは何かということもそうだけれど、そういうあたり前のことを考え抜かずに、すぐに動くことばかりに頭がいくのは今までずっとそうやって指示待ち人間で受け身に言われたことをやることばかりで生きてきたから責任を取ることや任されるということが分からなくなるのだろうと思う。

昔、私の通った学校でも子ども達に責任を取らせようとはせずいつも過保護過干渉に学校のルールを押し付けそれを守るようにと教えられてきた。

それを破れば問題児で不良として、別の扱いをうけ、それを守り学校の望んだ生徒であれば優秀な人物として特別の扱いをしていた。進学率や偏差値というものでその人が立派がどうかなどを判断するてらいをもあった。

いざ、社会はどうかというとそれぞれの場所やそれぞれの組織で自分の強みを活かし、自分らしく生きていくことで、善い影響を与え周囲を幸せに導ける人物が活躍していくような環境がある。

その中で、そういう自立した人物はやはりまず自分が納得いくまで考え抜き、自分なりの答えを持ち、自分から事物に参画するという強い意志を持っているものだ。優秀かどうかというよりも、優等生かどうかというよりも、自分はどうあるべきか、自分は何の責任を担っているのかということを正しく考えて行動していくことができるかどうかが大切になっている。

そういうことをしない人は、いつまでも仕事が自分勝手であり納得してもいないから好き勝手に自分流で周囲を混乱させ、会社の将来や、お客様の未来、自社商品やサービスに自分が責任を持とうとしないから単に個人主義の傭兵部隊のようになっていくのだろうと思う。

学校も同じく、そこまで責任を持って学校に来ていた生徒は何人いただろうか?

それぞれが誤った個人主義を教え込まれ、自分さえよければいいという考えでは、責任ということの素晴らしい価値や、生きがいや遣り甲斐、周囲を活かし活かされるという繫がりの中での幸福感や貢献の心など、何も気づくことはないのではないか。

今は、裕福でお金さえあれば何でもできると勘違いし、一人で生きた方が楽ちんだからとあまり人との影響を考えない人が増えている。だからこそ、みんなが同意し、みんなが納得するために、一人一人がちゃんと考え抜き納得し、参画し責任を持つという対話をしていくことを大事にしていきたい。

子ども達にも、一円対話を通して、他人のせいにはしない、自分本位に好き勝手して迷惑をかけないなどという、天地自然の当然の原理を学べる機会を用意していきたいと思う。

人が人を尊重し、認め合い、豊かに信じ合う組織を創造していきたい。