恥と柔軟性

人は使っている言葉の定義はそれぞれで異なっていることに気づかない人がとても多い。

例えば、本気の人が語る言葉は必ず裏付けされたものがあるから確信を持ってその言葉を語っている。それを裏付けされたものもなく何となく解釈している人とではその言葉の定義はまるで異なる。

先日の会社の打ち合わせで、ハイキングをする人と、本気でエベレストに登頂しようとする人では使っている言葉も、道具の意味も、その仲間との連携ということも同じ言葉を使ったとしてもその定義は異なるはずだという話をあるクルーがした。

私もまったく同感で、そもそも自分で納得して掴んでもいないことをさもわかった気になりそれを同じように話すことはそもそも無理であり、本来、本気で本物の覚悟で納得してやっている人とは言葉の定義が違うのだからそれはわかるはずもないと自覚することが相手のことを理解するために当たり前のことであると思う。

もしも変にその人にあわせようとして無理にその人のようにと競おうとして同じような言葉を使おうと無理をしたって、どうせ自分にはその人が本気で掴んだものまではわからないのだからそういう場合は謙虚に素直になって本質はどうなっているのかを恥ずかしがらずそのままに本心から尋ねる方が自分が納得をして進めることができるというものだと私は思う。

これはわかりやすくいえば、無理に不自然に相手のようにしようとはせず自分のありのまま思ったことをストレートに伝えて正しいことは何かを確認することがありのままであり本質的であるということになる。

例えば料理のコツをつかんでいる超一流のシェフに何かを尋ねるときにいちいちそのシェフの使っている言葉で語り合おうとはせず、無理にシェフのように語ろうとはせず、あるがままにどうしてこんなに美味しくなるのですかや、自分では分からないのですが順番とかあるのですかなどと、自分が本心から感じることや思ったことをそのまま素直に聞く方が自然であり本質的だということだ。

逆にそのシェフからこんなこともわからないのかと思われたくないと思って聞かなかったり、君のはそうではないと言われたくないからと、本質的に本心で尋ねない方がよほど恥ずかしいことだと私は思う。

「聞くのは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という格言がある。

これは、素直に聞けばいいことを恥ずかしいと思い聞かなければ一生後悔してしまうということを言う。一時的な恥ずかしいや一時的ないまさら聞けないというプライドや自分が傷つきたくないなどを自分を守ることを優先すれば、素直に本心を伝えることを恐れて聞かなくなってしまうのだろうと思う。

しかし、素直で本心で聞くことが恥ずかしいことではないと思えるのはそれ以上に自分が納得して正しくありたいと思うほうが優先されるからでもある。

自分が間違っていると言われたくないからと、間違ったことを遣り続けるより、それよりも自分が間違ったと指摘されてでも正しいことを遣る方が恥ずかしくないではないかと自覚することを言う。

どちらが真に恥ずかしいと言えば、そういうプライドを守ることで素直でないまま人に迷惑をかけてしまってもいいと思っている自分自身のことの方がよほど恥ずかしいというのが大人としての在り方であると私は思う。

大切なものを守るために、本当のことをやりたいや、本当にお役に立ちたいと思えば、素直に間違いを正してもらい、素直にどうすればいいかを教えていただくように謙虚な気持ちでいることが結局は自分を大切にし、他人を大切にすることに繋がっているのだと私は思う。

今の時代は自分が傷つきたくないからと自分を守ろうとする気風がある中、自分が傷つくことを恐れるよりも、思いやりをもって人を傷つけなくてもいいようにとできる限り自分を素直に開き修正して正していこうとする優しさと強さをもった生き方を大切にする方を優先していくことを示すことを伝えていきたい。

自分が本当に納得するために、自分の本心のまま話ができるような恥ずかしくない素直な心のままでいられるようにしていく環境を用意していきたい。柔軟性があるとは、理念や信念という一本通った誇りを守るために自分を素直にして修正するということを言う。

柔軟性を持った組織とは、素直に自分の間違いを認めることができることであり、それよりも大事な信念や理念を守り抜こうとする正しいことをやりたいという真心と思いやりを優先していく自分が誇らしいと思うことを言う。

誇りを持って、素直に聞きいつも正しくあれる自分を大切にすることを示していこうと思う。