自分の心

人間は、自分の心そのままを見つめていくことで本当の自分というものを理解していくことができる。何かの問題や課題があったとき、その心がどのように動いているのか、その心に何を感じているのかを客観的につかむことで自分というものをはじめて深く感知することができるのだと思う。

しかし、ほとんどすべての人はその心までは辿り着くことがなくその前に自分の感情という壁に阻まれ自らの心を感知することはできなくなっている人が多い。

感情というものは、非常に主観的でありその主観的なメガネがかかれば曇ってしまい真実や本当のことを知ることができなくなるのであろうと思う。

どれだけ日々の生活に心を込めて、平凡なことを非凡に行い、丹誠を込めて丁寧に澄んだ眼差しで等身大で生きるかということが大事であり、それは心のままに生きていこうとすることでもある。

心根が素直でなければ、どんな知識や出逢いを得てもそれを本当の意味で心から感知することはできない。

何を学ぶにしても、読書にしても、旺盛な知識欲で真理を知ったとしても、その自分の心が澄んだ清らかなものでなければそれは誠を得たとは言い難いと私は思う。

中国の「菜根譚」にこういう言葉がある。

「心地乾浄にして、方めて書を読み古えを学ぶべし。然らずば、一の善行を見ては、竊かに以て私を済し、一の善言を聞きては、仮りて以て短を覆う。是れ又、寇に兵を藉して、盗に粮を齎すなり。」

これは、意訳すると「心を素直にして清らかに先人たちの書を読みその実践を学ぶべきである。もしも捻くれた曲がった心で学ぶと、先人たちの本当に積んだ善行や真心の言葉を、自分の言い訳の口実にしたりして利用するだけになってしまう。これでは、敵に武器を与え、盗人に追い銭を与えるようなものだ。」ということだろう。

よく師の言葉や、本質を語る人の言葉を聞いても一向に素直に受け取ることができない人と、あっという間に理解し素直に気づき実践により変化できる人がある。

前者は、やはりどんなに頭で知識をぱっと理解してもその自分の心が本当の意味で素直ではないためどこか師の意見や聖人の実践をわかった気になって本当の自分の心で感知しようとはしない。

しかし後者は、いつも師の言葉、一言一句に心底感動し、その学びや教え、実践を丸ごとを素直な澄んだ心で受け取るからその真意を正しく理解することができ自分をより王道や中庸へと導いていけるのだと思う。

その両方の違いは、自分の心をどれだけ正しく見つめることができているかによるものであると私は思う。もともと私欲が深い人は感情的であるから、正しくというのはより難しいのであろうと思う。

もともと何のために学ぶのかといえば、知識を沢山得て自分を立派にしたいと思っている人がたくさんいるけれどそうではなく、本来、学問とは、心でするものであるのだからその心の感応力を高め、余計な知識や壁を捨て去るためにするものであると私は思う。

生きるということ、学ぶということは、すべてに合理的なことであり、それはあるものは活かしないものは諦めるということをやるようなもの。言い換えれば、足るを知り、足らずも知り、それでもすべては満ちているという生き方をしいつも心のままに自然体でいるようなものであると私は信じている。

つまり私たちが生き活かされるのは、一体なんの御蔭か。

そういう偉大な無償の慈愛や無限の恩恵、畏敬の念も、自分の心に素直になっていれば学ばずとも覚知感応し必ずや道に至るのだと思う。

素直でなければ、本当の意味で生きれない。正しく生きるには、素直であれば十分だということを自分の心を見つめることで感知していくようなことを伝えていきたい。

今の人たちは、すぐに特別なことや特殊なことをできる人ばかりをすごい人だと勘違いし、すぐにそういう能力に魅せられ派手な技術ばっかり見た目ばっかりを取り繕おうとする方へとすべての学問そういう風に私物化する傾向がある。

しかし人間学というものは、もっと平凡で地味であること、天に恥じないような心と体で統一し生きるようなものが何より大切なのだと気づくような素直な心の実践が必要であることを自ら示していきたい。

こういう時代だからこそ、子どもたちの方がよほど心が満ち溢れて素直に輝いていると子ども心に学び、社業を高めていきたいと思う。

感謝