世直しの本質

人は自分の体験というものを自分のものだけにする人と、それを自分と同じように苦しむ人のためにとする人というのがある。

前者は自分のことばかりを気にし、自分が世界で一番困っていると被害妄想の中で他を信じず日々を生きれば視野が狭くなりいつも苦しみから脱する方ばかりに逃げていつまでもそれを抜け出すことはできない。

しかし、後者は志が立っているから自分がこんなに苦しいのは必ずこの体験が他の誰かにそれを還元できると信じて今起きていることのすべての世界を肯定し、自他を信じて日々を生き、そこから心にゆとりが生まれ視野は広がり深まり苦しみを受け容れることで向き合うことの意味を感じて様々な困難を乗り越えていくことができる。

そう考えると、仏教でも小乗仏教と大乗仏教の違いでもあるけれど何のために悟るのか、何のために解脱するかということの意義が、自分の小さなものにするのか、世界のために大きなものにするのかではそのプロセスが異なるからどちらに自分がいるのかは当然気を付けることだと思う。

私は、子ども達のための会社と志を立てたときから子ども達の心を感じ、その周辺にいる方々の苦悩を自分のものにし、理想を実現しようとする方々の立場になってこの今もすべての出来事が皆様のためになるはずと信じて歩んでいる。

私のビジネスモデルは、世間のものとは一線を画していてそもそも経済とは多くの人々の真の繁栄のために使われるもの。そして道徳的にそれを行うとは、すべてを自分のものではなく世界のものだとしいつまでも私欲を排し還元することに皆で貢献を尽くしていくことが定義になっている。

世間や一部の人からは、能力があるなしや、経営が下手だ上手いだのいろいろなことは言われることもあるけれどそれもすべて同じように刷り込みから抜け出せぬ方々の真の苦しみの一つだと思えば別につらいことではない。

自分が誰にどう見られたとしても、相手の立場になっていつも心を遣っている人は心のままに世のため人のために、そして自分の誇りであるもっとも大切なことを貫くために苦しみのもつ真の価値や意義を見出していくのだろうと思う。

もともとビジネスで世直しや人助けをしようとしている人たちが、たいした苦しみもせずにそういうことができると思っている人たちが間違っていると私は思う。

よく小さな世界で早く楽になりたい、自分がうまくやっているように見られたい、作業が完璧にこなせて周囲より少しは抜きんでたい、自分を認めさせたいだの思っている人もいるけれど、そんなことをやるために世直しをしようや人々の苦しみを少しでも楽にしたいと思える人には永遠になりはしない。

志や使命とは、自分を越えたところで相手の立場になって少しでもお役にたちたいという謙虚な気持ちから発心するものだと私は思う。そんな私欲が深い人では、なぜ苦しみがこんなにつらいのかで満たされているからいつも自分の殻の中にひきこもるのだろうと思う。

何のために自分を律するのか、厳しい環境の中に自分を置くのかとそういうことも根本から考えずただ自分の一時の感情に流されているような自分本位の苦の解釈は、妄想に近いからやめた方がいい。

私は、この会社は子どもたちを基盤に多くの人たちの幸せと繁栄に貢献するために用意したものである。だからこそ、様々に起きる事件をそして苦しみをたくさん受け取りみんなで協力し、一つ一つの意味を感じながらそこから得られたものを子どもたちのために還元していきたい。

決して単純に良し悪しではなく、人は自分の人生は自分で決めることが大切なのだ。何を決めても自分の意思であれば、それが一番善いことだと私は信じている。

私の願いは、子ども達の心のままに生きられる未来と社会そのものである。