心の言葉

人には、それぞれに潜在意識の中に埋められない思いというものがある。

いつも何かに満たされないと思って外側に自分を満たすものを求める人はどうしても心の平安を得られず苦しむことがある。そもそも心の平安とは、内側にあるものを探していくことであり内側にないからと外側に求めるものではない。

人は、そうやって欲望に一喜一憂しているうちに本当の自分の心を粗末にしてくものであろうとも思う。

しかし考え方を変えてみると、トラウマや心の傷というのは外側から埋めることはできないけれど自分の内側から癒すことはできる。自然治癒も道理のように、過去に戻りどうしても受け入れがたいことがあったとしても過去は過去だとそれを冷静にみつめられる機会に人はいつか出会うこともある。

その際、自分の内面にある自然治癒のスイッチが入り、気が付けばそれがゆるしによって自然に癒されていくものであろうとも私は思う。その際、まず順序があり相手にゆるしてもらおうと求めるのではなく、自分が自分をゆるすところからはじまる。

私はある人に昔、「相手はゆるしてくれるか分からないのだから自分のことは自分でゆるしてあげなければ自分が可哀そうだ」という話で諭されたことがある。大なり小なり自分を責めるけれど、その時、自分の心がその心の言葉に揺さぶられて自分をゆるすことができた。

確かに相手の心は相手の中にあり、それを外側からどうアプローチをしても相手が相手の心でゆるしをしない限りこちらが許されたとはならない。だからこそ、お互いがゆるしあえるようにまず自分から自分の心をゆるしていくことが大切なことだと私もその際に気づいたことがある。

人間は、自分を責めるのは相手の心まで自分のものにできるという傲慢な気持ちがあるからである。そうではなく、謙虚に相手を尊重し、自らが謙遜の心で通じ合いを感じたり、信頼しあったりすることで、はじめて互いに満たし合い心の平安を持つことができるのだと思う。

自分のことを信じる事ができない人は、誰も信じる事はできない。そして自分が幸せでない人は相手を幸せにすることはできない。自分の心に素直に正直でない人は、誰にも正直で素直になることはできない。なぜならすべては、自分自身の心の在り方の問題だからである。

心が、すべての物事と渾然一体になったときはじめて自分というものをあるがままに認めることができ、言い換えればもっとも気楽な心のままがみんなにとって最高の生産性を発揮するのだと気づけるものであると私は思う。

人生を自分で生き難くしていくのは、自分のプライドや過去のトラウマ、すべて自分が自分を嫌うからであり、もっと自分のことを心から好きになるような行動と習慣付けによって自らを正すことでより自分の心の方を尊重し、いつも心からを優先する生き方を選ぶことなのであると私は思う。

人は自力を発揮しなければ自分で自分を変えていけないからこそ、自立支援には寛容と受容の心で他人の美点を褒め、他人の長所を尊重していくことが大切で時間がかかるようにみえても人が自力を発揮を促すにはいつも誰かの無償の愛、その思いやりがいるのだと私は思う。

もっとこれからも子どもたちが自分たちをいつまでも心の素直なままであるがままを歩めるように自己肯定感をはじめ、誇りをもって自分をほめられるような素敵な自分に気づける見守るを広げていきたい。

心の作用も心の科学も、これからはますます解明され進むことになるだろう。

成熟した時代に、物質的繁栄と心の繁栄の両輪を社業を通して高めていきたい。