不思議さ

35歳の誕生日を迎え、今というものが不思議な組み合わせの上で成り立っていることに改めて省みることができた。

思い返せば、生まれてきてから今まで色々な不思議なことばかりがあった。

はじめてのものばかりに出逢い、そしてそれを愛し、終わらない別れを繰り返し、不思議さにずっと見守られた今が在る。

生きるというのは、不思議さそのものを言うのだと今では思える。

何のために生きるのか?
何のために学ぶのか?
何のために遊ぶのか?

何のために心を強く鍛え、
 何のために優しくなるのか?

 そして再び人は、

何のために死んでいくのか?

答えはいつも同じ場所、そのものの不思議としか言いようがない。

世の中にはわからないことの方がわかることよりも圧倒的に多い。
そして問いは生死を問わず変わらずにこの思想の中に在り続ける。

不思議なことに、毎朝太陽が昇り、毎夕に太陽が沈む。
不思議なことに、春夏が訪れれば、秋冬が過ぎ去っていく。
不思議なことに、新しく生まれれば、古くには死んでいく。

不思議なことばかりが今もこの童心にあるがままに語りかけてくる。

生きていれば本当に不思議さに満ちているからおもしろい。

これからも遊び心満載で、不思議にワクワクドキドキしながら真底からド楽しんでいければいいなと思う!

私が真に愛している自然の中にあるかんながらの心のままに、そのあるがままの無為な自然体の姿で真に人類を愛せるようになる日はいつ訪れるのだろうか。

それは35年経ってもわからないことと同じくいつのことかも一切分からない。

そんな日々を、深く掘り下げ、広く伝道し、相変わらず大切に今を生きていこうと思う。

ないものよりもあるものの方が増えすぎた今日、大切なものに見守れた記憶が悠久の流れの一滴になればそれで世の中が円満であると笑って新たな不思議さとの一期一会に生きていきたい。

不思議な組み合わせと不思議なご縁、透明な光が世界へと広がっています。

いつも本当に有難うございます。

一事が万事

人は自分の生き方を決めるとき、今、一番優先しているものが何かを知ることで自分というものの目指している姿を観ることができる。

何かの出来事がある時に、自分が後悔しない選択ができるかどうかは自分がその時々で優先したものを守れるかどうかということによる。

まだ若いころ、自分の優先順位を10個ほど紙に書き出したものがある。

今読み返してみると、一番が「使命の成就」と書かれていて十番目が「健康」とあるけれど少し笑ってしまうが健康が一番下だったくらい健康だったのだと思える。

一番目は何年経とうが変わらないけれど、二番目以下はどんどん順番は上下しているのが不思議とわかる。そう思うと、人間は一番目だけでも守られれば後は何とかなるものだと私は思える。

一番目を忘れて二番目以外に心が囚われれば、それこそ本末転倒になってしまうのかもしれない。しかし二番目以外の十番目のものもどれも一番目を達成するためにとても大切なもので、正確に言えば一番目を達成するためには残りの九つは全て必要な要素なのであるからこれもまた非常に不可欠なものなのである。

仕事をやるには、家族や周囲の協力が必要になる。
そして長く続けていくにも大切なものをいつまでも維持していく力がいる。

たった一つのことを守るだけでもすべてのことを大切にしないといけない。
そう考えると、私の定義での「一事が万事」なのである。

後悔する判断とは、自分が守る大切なものを決めないことであり、いつまでも繰り返す失敗とは、自分が納得していないことである。

だからこそ人生の順番を決めて、何を大事にするかを定めたら迷わないように日々に納得するほど考え切ることを続けることなのである。

迷っている暇があるのが何よりももったいないことであり、惑っている時間があることが何もしようとしていないことである。これが迷惑である。

「迷ったら行け」ではないけれど、自分が迷っているのは迷いから覚めて覚悟し、自らが納得するために遣り抜いてみよという天の啓示のようなことでもある。

それを遣り抜くためには、全部を大切にするだけの広く深い優しさと芯の強さと心を持つことなのである。

ひとつひとつを丁寧に、そしてひとつひとつを自分で掘り下げることは大切なこと。掘り下げた場所でいつもの本当の自分と対話し、納得するまでとことん考え抜き向き合うことは即ち自分を大切にし周囲を大切にすることでもある。

自分の価値観の優先順位が定まっている人は環境に依存しない。
そして何よりも大切なものを決めている人は迷いがない。

自分がどうありたいか、それが全てなのである。
それを外側のせいにしても、外側とは心の外の話であるから意味がない。

内面の心が外界を形成するのだから、どうありたいかを決めることが後悔しない人生、充実した自分らしい生き方の追及なのであろうとも思う。

子ども達には、選択する厳しさと、それを思いやる優しさを併せ持てるような真の強さを示していきたい。大切なものを守る力をつけたいと、若い時に何度も何度も泣いたことがある。今でもその悔しさはなくならないからこそ、理想論ではなく現実も併せ持った冷静さと情熱が調和する真の人格を練磨していこうと思う。

集団的無責任

集団的無責任について以前このブログで暗黙的な了解という形で書いたことがあったけれどより深めてみることにする。

ある程度、余裕が出てくると人は危機的な状況であろうがそれを何度か何も手を打たずに通過すると痛覚が麻痺してくる。それは自分というもののことでもそうだけれど、大変だと分かっていても一人ではどうしようもないからと自らの責任を放棄し、さもみんなの責任になどとすり替えてしまえばそれでお仕舞いなのである。

皆でやるや皆の責任という言葉は非常に危険を含んでいる。

それは自分が全ての責任を取ることが前提で語っている人か、自分だけが責任を取りたくないから語っている人かでその使い方が異なってくる。保身という自分の感情を押し殺して周囲の顔色を見ながら生きている人ではそういう責任感を正しく自得することはできない。

そうしているうちに自分からまず周囲のことを信じられなくなり、逃げの気持ちが働き、責任感が強い真面目な誰かに依存するか責任感が強すぎる人の下で自分もやっているよと調子よく見せることが仕事なのだと思い込んでしまい麻痺する人になっていくもの。

結局、最期はいつも誰か任せというのは、自分で遣り切ったり遣り抜こうと決心して行動したわけではないから誰かがやるのならば自分は遣るよという自分で考えようとしないという歪んだ決心をしたことになる。

そしてそのまま麻痺し自分が遣ればきっと迷惑がかかるなどという間違った正当性が集団の中で文化として生まれれば、もはやみんなの責任にして何もしないことがもっとも正しいなどと勘違いしてしまうものだ。

そこでなぜこういう集団的無責任が起きるのか?

それは私は、根源的には一人一人が自らの人間修養を怠ることから生まれることであり、やはりどこまでいっても自修自得の精神の欠落であり、頭脳社会と心の世界との関係性が課題になる。

例えば今の時代は「メンドクサイ」という言葉に象徴されている。メンドクサイというのは、心を籠めるのが嫌だと言っているようなもの、便利さを追求していけば心は籠めず、これでは以心伝心もなく集団は機能しない。

ある人に話をしたことがあるけれど、便利な人というのは責任がある人ではない。責任がある人のことを人は便利とはいわないのは緊張感があるからである。その緊張感は、心を遣っているからである。

ここからが本題の要諦だけれど、人は頭が心を管理するのと心が頭を管理するのでは意味が異なってくる。

もしも頭が心を管理すれば、感情を押し殺しても頭で都合が善い方法がどこかないかを必死に探そうとしそこから心を使おうとするけれどそんなことはできるはずもない。なぜなら、心は最初に感じるところからそれを信じて助長していくことで行動と決断に活かせるからである。

しかし逆に心が頭を管理すれば、感情を活かしつつ心で感じたままに正直に動け頭を最良の方法へと導くことができるようになる。そしてその時、はじめて皆の力を結集することができ中庸を得て「正しいこと」ができるようになる。正ことは何をもっとも常に優先すべきか、人としての道を間違わないということ。

まず心ありきなのであり、日頃から心を修練することこそが学問であり、心が醸成されれば次第に人は責任を持てるようになるのである。どこまでいっても人間は氏より育ちなのであるし、育てられ方や育ち方とはつまり心がどのように育んできたのかという生きていく上での見守りの力なのであると私は確信している。

そしてこれにより育った、「素直で正直」つまり自らの至誠を実践する人は自立し周囲の全ての力を借りることができる。

そしてそれはリーダーやマネージャーが持つ、「徳」という形になって顕現してくる。

そういうものを大切にしていこうと思う心が集団にあれば次第にそれぞれは責任を持つのであり、そういうものが大切にされなくなれば次第に集団は無責任になるのである。

こういう時代だからこそ教育すべきなのである。人間は社会と集団を創るものだからこそ決して野放しではいけないのである。

心とは、そもそも周囲を活かすようにできているし、心は最初から正しいことを知っている。心を育て、心を遣い、心を活かすことこそが自分の人生の責任を自覚することでもある。

今のような集団的無責任が往々にして起きているということは、誰も何もしないことがそのまま乗り切れるなどという倫理道徳が危機的な状況に陥っていることが最大の問題なのだ。

こういう時だからこそ、誰も遣らなくても自分は正しいことを遣ると決めることや、そういうことをするのは本当に恥ずかしいことだと自分を戒め、自分は決してそういうことをしないように正直に、思いやりと勇気を持って事に当たっていきたいと思う。

子どもたちに負の遺産を残すわけにはいけない。

どの時代も解決方法とはとてもシンプルなもの、頭ではなく心があるがままに感じる実践、それはすべてへの思いやりを優先すればいいだけのこと。子どもたちに恥じないような生き方をしていきたい。自分の実践が足りないことが嘆かわしい、ここから平和な世界を変革するために立ち上がっていきたい。

ひとつのもの

私たちは一つのものを皆で分け合い使いながら生きてきた、これは不滅の真理であり循環の理を指すものであり生きている以上はこの中で私たちは幸福を味わうようにとできている。

それは最初から今まで私たちは地球の資源である、水や大地や空気やその他様々なものを皆で共有しながら生きてきたからである。

今回の原発事故などにしても、そういう人間の欲望を垣間見ることができる。

一人で買占めをしようとしたり、いくら自分は関係ないからと外から眺める人がいようが地球は繋がっているのだからどうしようもない。そういう社会があるのだからそれをするのは危機管理の一つであろうとも思う。

しかしそんな社会の根幹に疑問を持つ人たちはどれくらいいるのだろうか?

自分だけの地球という視野の狭い世界にして自分だけはといくら思ったとしてもこの地球は一つであるし、もともと私たちは一つの惑星の上で万物を共有し生きているものである。世界は一つであり、対岸の火事などは決して存在はしない。

それをお金で全て手に入るなどと勘違いし傲慢になっているから、いつまでも痛ましい事件は続いているのだろうと歴史を観てはよく思う。

私がもっとも心を痛めている環境問題についても、もともとは動植物など生命が皆で分け合い生きていくための大切な資源を人間の利権を人間社会という狭い世界でだけで搾取し尽くそうとするから様々な生物や生命が失われていくのであろうとも思う。これが今の時代は急速になっているというと、欲望が世界中へ蔓延していることを意味している。

なぜ奪い合うのか、なぜ分け合わないのか、痛みも悲しみも、その心ですら分け合えば一つになるのに他人事のように語る人たちがいる。自分には関係がないと思っていたって、世界は繋がっているし一つであるからいつかは自らの身に降り注ぐことを待つだけである。逃げられるはずもない。

世界の隅で行われた出来事であれ、世界の何処かで隠れて何かをしようが、世界の上で私たちは生活するのだからそんなものはどうせすべて明るみになっていくもの。それを内政干渉しないでや、自分のことだから別にいいだろうなどと開きなっている人がいるけれどこれは矛盾に満ちている。

これは個人単位で例えても、自分の人生だから関係ないだろうや、誰にも迷惑はかけていないつもりだなどと、平気で自分と他人を分けて語る人がいる。しかし、そもそも一つの地球、一つの生活の繫がりの上での出来事であるからそれは他人事ではなく皆で共有している一つの大事な事なのである。

だからこそ、すべて関係があるものだし、すべて迷惑もかかるもの、そして出来事は世界中の皆で共有すべき関心事であるはずである。一人では生きられないというのは、そういう意味を含むのである。

今のように世界が見渡せるようなIT社会、情報が瞬時に駆け巡る時代に私たちが成熟さを求められるのは何だろうか?

それは、真理が私たちが目に見えて耳に聞こえてくるということである。

昔の人間は、動植物と同じようにそれぞれが自分の分限を定めそれに従い慎ましく生きた時代があった。それが人間の欲望が科学により助長され、目にはみえない叡智や偉大な存在を感じることをしなくなり遂にはこういう資源の取り合いという事態になっている。

今は地球46億年でもっとも裕福な大地がある時代だとも言う。大地が海によって世界中に散らばっているからである。つまり多様化された時であるのに、人は裕福さに満たされればこういう風に欲望に走るのであろうと思うと悲しくなってしまう。

心が何のためにあるのかを思えば、欲望を管理し、正しい方へと叡智を活かすためであろうとも私は思う。

地球は一つ、私たち生命も一つのものの上で成り立っている。

子ども達には、自分が周囲と分け合い生かされているからこそ自分だけのことを考えずもっと広い視野で繋がっている感覚を身に着けていってほしいと願う。

まずは、私自身の身の周りから思いやりと感謝という実践を積み上げていきたい。

兼愛

人は鏡という言葉がある。

自分のことを知るには、相手のことを知ればよく、相手の心を観れば、自分の心も観えるというふうに常に相手の中にあるものを通して自分の正確な姿を掴んでいくことができるのであろうとも思う。

特に親子については自分と同じものを持っていて言葉一つをとってもあまりにも似すぎていて自分というものをより深く見つめることができる。似すぎているからこそ嫌気もあり、同質であるからこそ愛するものもある、親子の関係とはとても不思議であると思う。

しかし、親子他人問わず自分が放つ言葉は必ず巡り巡って自分へと戻ってくるものだからその覚悟で語っているかというとそこまで重々しく慎重に使っている人は多くはない。

すでに言葉が口から出てしまえば、鏡である相手を通じて必ずそれは自らで気づき猛省する日もくるのであろうとも思う。傷つければ傷つき、癒せば癒される、循環する中で私たちは人と人の間で生きている。

中国の墨子に下記がある。

「君子は水に鏡せずして人に鏡す。
 水に鏡すれば面の容を見る。
 人に鏡すれば則ち吉と凶とを知る。 」

これは意訳になるけれど、「君子は水を鏡にしようとはしない、人間を鏡にしている。もしも水を鏡にすれば表面上の全容は見ることができる。人間を鏡にすれば今後のすべての吉凶がはっきりとわかってくる。」という意味で反省するときにはどういうものが正しい反省であるのかと教えてくれる。

つい、何か自分がそうではないと思いたい部分や自分の嫌な部分などはその瞬間では気づかず自分が放った言葉で自分の相手への厳しい態度や感情の波などを後で振り返ると猛省することもある。

感情をコントロールできないでいると、やってしまったや、失敗したと思っても後の祭りであり手遅れであることが多い。当然、善いことであれば相手のためを思ったものであればいいけれど、そうではなく悪いことであれば相手のことを思いやらなかったのであればよくないことになる。

相手を観るのに自分だと思えるか、自分と付き合うように相手と付き合うことができるのか、人は自分への信頼の度合いが相手への信頼の度合いであり、自分との関わりの深さが相手との関わりの深さになる。

常にこの世は、繋がりの中に存在し、それは自他を分けない一体となって存在するものであると定義すれば地球上のすべての生命は分け隔てないものであるのではないかとも理解できる。

この墨子に、「兼愛無私」という思想があり万物全てに平等に愛することを説いている。自他の区別をつけず、等しく平らに人を愛するというのは自他というものが一体となってはじめてできるものであろうとも思う。

私はどうしても偏見を持ち、平等に人を感じることができなくなるときがある。子どもたちのように、もっと自然に相手のことを自分のことのように感じるものを思い返していきたい。

変に比べられ大人になったことを今さらどうこういうのではなく、元々の姿で在った方が楽に生きられると感得し、自然体のままで人を平等に愛せるような実践を積みあげていきたい。

禍福一円

先日の天災と人災の組み合わせにいろいろと思うことがある。

何か今、私たちは大切なことを気づかせようとしているのではないか、そしてそれは私たちがなんとなく今まで曖昧にしてやり過ごしてきたことに対して「それではいけない」という警鐘がある時点で頂点に達したのであろうとも洞察することができる。

今まで何かしらと一人一人が立ち上がろうともせず考えずに流されてきた日々の中で、積もりに積もった様々な汚泥が池の底に溜まっていたように思う。

それは社会問題であったり、人間の本能であったり、環境問題、政治経済の問題、道徳倫理の問題から食糧問題、人権尊重のことなど、挙げればキリがないほどに刷り込みによりズレてしまっている問題のこと。

それが今回の天災というものを通じて顕われ、そして人災というものを通して人の目に曝された。悲しく犠牲になった方々がいて、それがなぜ起きたのかなどを受け容れられないほどの悲惨な事故を通して、その方々のためにも私たちは今此処で本当は何を気づき何を学び何を変えるのかということを決めなければいけないのではないか。

この大きな試練に対して、如何に正直に受け止め、思いやりに気づき、勇気を出して変えるのかというのが世界の中での日本人を生きる上で私たちはとても大切なことであるようにも思う。

これからの復興のことを思えば、二宮尊徳の足跡を感じない日はない。
二宮尊徳の思想の根幹に「一円観」がある。

世の中というのは、一見、善いことが起きているようで実はそれは悪因を呼び込むものであったり、また一見、悪いことが起きているようで実はそれは良因を呼び込んでいるものだったりもする。

その禍福や吉凶は表裏一体であり、本当に大切なことというのは「移り変わり続けることに対して如何に怠らずに努めるか」ということなのであると語りかけてくる。

その二宮尊徳が成田山新勝寺での断食による誓願を行う際に、語った言葉がある。

「禍を転じて福となし、凶を転じて吉となし、
 借財を変じて無借となし、荒蕪を変じて開田となし、
 やせ地を変じて肥沃の地となし、衰貧を変じて富栄となし、
 困窮を変じて安楽となし、
 おおよそ人民のにくむところを除いて好むところを
 与えようと、日々夜々に祈願するところなり」

とある。

これはどうしようもない運命に対して、人はいくらでも心の持ち方や心の転換で乗り越えていくことができるものであると自らの艱難辛苦を耐え抜いた人生観からの気づきによって悟ったものであろうとも思う。

しかし一般の人は、運命だからと何かをすることを嫌がりそれを受け容れないためにそういう生き方の人を疑い妬むようになったりもする。

この誓願はその自らの誠を示すためのものであったそうだ。
凄まじいまでの自分との闘いである、私は未だその覚悟が足りないのである。

生きていれば、必ず一生を通してその人に必要な色々な禍や災難が降り注いでくる。その中でどうしようもないこともたくさんあり、それが本当に辛く悲しいことであったりもし、時に運命を呪い、時に自分を責めるような時もある。

しかし人は弱く完璧ではないのだからこそ、そのものに無理をして負けじと意地を張るよりもむしろそれを善いことであると受け容れてそこから新しいものへと転換していくことが人の持つ「本当の力」であるとも私は思う。

人間は心を強く持つことでどのような物事もそれをいくらでも正しいものへと変えようとする意志を抱くことができる。せっかく天からいただいたものを如何にさらに善いものへして世の中へ還元することができるのか。

私は、恩人や師により得た本当に素晴らしい宝物を持っている。この数年は特に本当に有難いほどの愛を降り注いでくださった。この御恩、決して忘れず必ずいただいた以上のものにして子どもたちをはじめ私が触れ合うご縁の方々すべてに伝承し還元していこうと思っています。

いまさらですが当たり前すぎることに慣れ親しみ失念しておりました。
心から深く感謝しています。

「禍を転じれば、それは福である。
 凶を転じれば、それは吉である。」

ここで「転じる」かどうかは、変化に準じる意志の力の醸成であり、日々新たにしていこうとする自らの発奮する覚悟の力である。

機会をチャンスだと受け止め、愛を循環させるためにも、この感謝と真心を大切にこれからのことのために今を正しく刻んでいきたい。

礼儀と敬意

自分のことよりも相手のことを思いやり、自分を犠牲にしてまで相手のために尽くそうとすることは大切なことである。しかし、自分が自立できずに他人のためにというのは難しいことでそれはよく観察すると依存している場合もある。

ではどのように人を判別するかというと、自立している人はまず自分の自由と責任を自覚しどこまでなら人に迷惑をかけないかというものを正しく理解している。しかし依存している人は、自分が不自由であることにも気づかず無責任がどれだけ迷惑をかけるかどうかも理解せずただ相手の言動に一挙一動が受け身になっている。それは別の言い方をすれば話は聞いているのに自分で考えないで決めないという方がわかりやすいかもしれない。

例えば、他人様に迷惑をかけないというのは自分のことができることが前提で何かを行うということだったりする。仕事でもそうだけれど、どれくらい自分が迷惑をかけているのかを自覚することが迷惑をかけないように配慮する力になる。

配慮がない人は、自分がどれくらい迷惑な存在なのかということを自覚せずそれを何とも感じていないし感じようともしない。言われたことはやるけれど、なぜそれが必要なのかやそれがどのような意味があるのかということは考えようとはせず、ただ言われたからとやってしまう習慣が身についてしまっている。

本来、やっていることは全てに大切な意味がありそれは単に言われたことをやればいいという話ではない。それを正しく行えない場合は、必ず他人様にご迷惑がかかるものでそれが会社ではお客様へであり、それが会社へであり、それが仲間や上司で在ったりするものだ。

だからこそ、自らが迷惑というものを自覚することが大切なのだ。言い換えれば、どのように評価されているのかを自得することが大切なのだ。そんなものと開き直っている人もいるけれど、在り方の問題であるのだからそれでは一生この人間社会では信頼関係を築くことはできはしない。

当然、突き詰めれば生きていれば必ず誰かしらに迷惑をかけてしまうもの、だからこそ必要なのは他人への配慮なのである。

そしてそれは世の中にある「礼儀を弁える」ということのことを言う。この礼儀とは、いつも丁寧に相手に敬意を示すような振る舞いを行うことである。

それができない人たちを洞察すると、家族が不和であったり、誰かと紛争していたり、いつも誰かに復讐する気持ちを持っていたり、争っていたりする人ほど、礼儀について一向に無自覚である人が多い特徴がある。

礼儀が守れるというのは自分自身を大切にすることを知っている人であり、だからこそ相手のことを大切にできる人である。正しい自己愛は、自分に敬意を示すことであり、歪んだ自己愛は、自分を責め憐れむことである。

自分を大切にするというのは、何かしらの贅沢をすればいいということではない。自分に素直になることや、正直になる事である、本当の自分の心を大切に信じ扱うことである。その逆で、粗末にするというのは、捻くれることや、嘘をつくこと、自分の心を誤魔化し、信じないことである。

自分を信じてあげるというのは、自他に正直であるからできるもの。
他人の顔色をみてコロコロと変えていたら、そういうことはできはしない。

礼儀というのは、そういうことをしないための実践でもある。
その尊敬や敬意を正しい形で示すのが作法なのである。

社会生活や人間生活の中で、自ら道徳倫理というモラルやマナー、その礼儀作法などを重んじ、相手に敬意を払うことが自分を大切にしていくことにつながっていることを自覚すること。

人間は、常に幸せの循環は人と人との心と心の通じ合いによるもの。そこに歪んだものや汚れたものを乗っけないように常に心を素直に正直になり、その礼儀を弁えることを人間関係の根本に置いていくことだ。

子ども達には、物が溢れて自分勝手に言われたことをやっていれば評価されるのではなく、自分が迷惑をかけないようにと配慮し丁寧に謙虚に生きることは何より自分を大切にし相手も大切にできるということを伝えていきたい。

相手のそういう心配りや配慮、感謝の言葉に幸せを感じない日はありません。
大切にすることが如何に幸せなことなのか、噛み締め生きる歓びを示していきたい。

自己犠牲の心と祈り

何かの出来事が起きるときその心中はなかなか穏やかにならない。特に先が見えないような時や、色々と予断を許さない状況の時は固唾を飲んで見守るような心境でもある。

特に有事の時は、大変な思いをしている人たちのことを思えばより心配になり無事でいてほしいと願うもの。子どもたちの仕事をすればするほどに、未来に残そうとしているものがどのようなものかを考えれば本当に遣るべきことは山のようにある。

人は自分の保身を思えば視野が狭まり、人々のためにと思えば視野が広がる。

仕事も同じくして、自分の責任云々ばかりを思えば視野が狭くなり、会社やお客様のためにと思えば視野が広くなる。

自分というものは、周囲や偉大な眼にはみえないけれど確かにある存在から見守られていると感じるとき人は自由になる。しかし、人は人を信じなくなると周囲を信じず、偉大な存在も感じることができず見守られている感じがなくなり不自由になる、それを自己保身ともいう。

人は自分を守る時よりも、大切なものを守ろうとするとき真の勇気が湧き上がってくるもの。自分のことよりも相手のためにや、自分のことよりも皆のためにと思えば思うほどに自分の力は周囲によってより活かされるという真理も働くであろうとも思う。

感謝や有難うや、御蔭様というものもそういう自己犠牲の心より生まれていくものでもある。そういう体験を自らで積まなければ、そういう自己犠牲の人の気持ちはわかるはずもない。

皆大切なもののために、自分の命を懸ける。それが自分の命が活かされているという実感とともに必要とされることの真の歓びを知るのであろうとも思う。

しかし、世間では自分があまりにも安全で無難なところにいればそういう人たちが自分たちのためにと陰ながら真摯にがんばってくれていることを感じなくなることがもっとも人が心を亡くしていることではないかとも私は思う。

誰一人、事故や犠牲により亡くならないでほしい、どうか無事でいてほしい。
そう切に願う中に、自分の中にも確かにある自己犠牲の心を誇りに思う。
そういう人たちのために、自らの心を祈るのである。

今の時代は、自分のことばかりを考える人ばかりになった。特に間違った個人主義を教育や社会構造により創られ、一番楽な人な方法で集団を管理するやり方が蔓延し、自分で考えることもしなくなり、責任の持つ素晴らしい意義や使命を感じることの価値もわからなくなっている人もいる。

こういう時こそ、平時以上に心を澄まし、心を穏やかに祈る気持ちを優先し、自らを正すことをしていくことが何よりも大切なことだと思う。

それは綺麗ごとを言っているのではなく、一人一人がそうしていかなければ世の中の繋がりの中で周囲を易えていくことができないからだ。自分を易得ることができない人に、他人を易えることはできない。自分を正しくできない人に、人を正しくさせることはできない。

周囲の偏見や周囲の雑念に振り回されないような正しい自分を持ち、人々を平等に公平に思う種を育て、平和な社会の実をつける。

こういう時こそ、悠久の自然に学び、身を慎み修めていきたい。

もしも全てを失っても、まだ子どもと未来が残っているのだ。
あるものを探して、どうあるべきかを正していきたい。

大和の姿

これからの社会を考えていくとき、日本人として何を優先して生きていくのかということを考えることがある。

今までがどう生きたのか、そしてどう生きるのかを思うとき、私たちは先祖の創始理念である天照大御神の遺志から思うことを私は初心であると定義している。

以前、ブログでも書いたけれど三種の神器というものがある。鏡と剣と勾玉であるけれどこれは心の在り方を示しているものであり、正直と勇気、思いやりの3つを実践することを私たちへ伝えたものだと私は思っている。

そして、私たち日本人は心に太陽を抱き、明るく素直に正直に御蔭様で生きていこうと清貧であろうとも錦を掲げ皆で協力し助け合ってやってきた。外国との競争の中で相手の文化を受け容れることで今のように形上は裕福になり、農耕型から狩猟型へと切り替えてきたけれど根本的には島国で育つ私たちは穏やかで静かな民族であるのであろうとも私は思う。

助け合いの中から正しい責任感を身に着け、正直であることから人としての道を学んできた。そしてそこから貧しい中でも清く正しく健やかに、幸福に暮らしてきた私たちの先祖、大和の姿が見えてきます。

私はこの大和の姿であればそれでもう充分幸せではないかと思っている。

神道の心も同じく、かの論語で孔子はこう言っています。

『子曰く、「たとえ粗食をし水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し」(述而)』

私の意訳になるけれど孔子はこういいます。「もしも質素な食事をし、水だけを飲んで暮らし、肘を枕替わりにして寝るというような生活を送る。しかし、私は実は真の楽しい生活とはそういう倹約清貧の境地にこそあるものだと思っているのだ。人としてのどうあるべきかというその人としての筋や道義から外れたことをしてまで、お金を儲け名誉を得て豊かになってしまえばそれは私にとってはまるで浮雲のようにはかないものであるから必要ではない。」

当然、中庸を実践する孔子なのだから貧しいとか裕福とかの比較の場所で語っているわけではない。絶対的な境地に於いて本当の幸福とはどういうことかということに応えているのであろうと私は解釈している。

このままでは経済力が衰えて日本は裕福ではなくなるなどと言う人たちがいて、貧困国になってしまうなどと語っている有識者という人もいる。おかしなことで、何をもって貧しいと定義しているのであろうか、物質的な貧富はただの浮雲であるのに私たちの将来の国の姿とは本当にそういうものから考える事であろうか。

世界が観ている日本とは、世界が期待する日本の姿とは、私は本来の大和の姿を保育し実践し世界の模範になるような正直と勇気、そして思いやりを誇りとその本質的な自由を示すことであるのではないかと思っている。

それを国民が一体となって行うことこそ、私たちの国の本来のあるべき姿なのであろうとも思う。特に今の時代は、それをやることが世界をチェンジするリーダーとしての国の姿にならないだろうか?

大義を掲げられる民族である私たちの誇りは大和の姿を見つめるところから観えてくると思います。

今の日本の社会では身近なことから遠くのことまで人間の不義に対して怒ることや憤ることは正しいことだと私は思います。それを一部の人は極端だとか、潔癖すぎるとか、宗教っぽいと言われることがあるかもしれません。しかし納いかない世の中だからこそ、自分がどうありたいかを気づけるのかもしれませんしだからこそ同じように仁義に生きた孔子も心中は常に複雑だったのかもしれません。

仏陀にせよ、キリストにせよ、ガンジーにせよ、二宮尊徳にせよ、聖人と呼ばれる方が示したものはすべて人が自然に生きるとはどういうことかというシンプルなことを究明し示した模範の人々であると思います。

こういう時こそ、子どもたちに本当の自分の先祖が今まで大切に築き上げてきた国の姿を伝承し自らが示していくことだと思います。

誇り高き民族は、素直にあるがままをきちんと受け容れ、どんな逆境でもそれを力強く勇気と正義で乗り越え、思いやりや慈悲の心で優しく包むものであると思います。

どうか私たちは大和の姿、国家を育てているという自覚を持ちましょう。

新しい扉の鍵

今回の人災のことは、商売をするものとして戒めなければならないということに満ちた出来事であったと私は思う。東京電力の創業者は、九州長崎出身の松永安左エ門という人で私は以前、長崎県壱岐に行ったときにその資料館などでその人のことを少し学んだことがあった。

この方は、福沢諭吉の学問のススメに発奮し事業をはじめ取り組み、ある時を境に自ら理念を「今後の自分の行動は、国家社会にできるだけ奉公することが必要だ」と決心したそうだ。その後の行動を見ても、それを基盤に決断した経緯が読み取れる。そして亡くなる時には、「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と怒り叙勲も自らの遺志で辞退したとのこと。官僚のことを特に嫌い、現場視察などでは官僚たちのように高級宿には泊まらず現場で働く人と同じところに泊まるなど徹底した現場主義を貫く人だったそうだ。(ウィキペディアより)

この創業者は、行く末である今の会社の現状を見て一体どういう心境であろうか。

孟子に有名な言葉がある。

「義を後にして 利を先にすることをなさば、奪わずんば饜かず」

これは私の意訳だけれど、「世のため人のためということを後にして、自分の利益ばかりを優先しようとする人は、すべてを奪っても満足することは決してないだろう」という意味である。

もしも商売を志す者や企業が、自らの利益だけを追求してその志すところを失い理念なき経営を行うならばもはや世の中の益にはならず有害であるのだということを意味している。孔子にも同じく、「利をみては義を思う」という風に本当に自分の利益が世のため人のために使われているかという自分の誠意とまごころをいつも省みる事を説いている。

いつの時代も、どんな企業も、人の道としての大義を見失えば末路はこのように醜態をさらすものだ。そうならないように、如何に理念をしっかりと持つ必要があるのかがよく理解できる。

先人が、回訓を持って私たちに商売を志で貫く企業人としての心構え、その理念と経営についてこう遺してくださっている。

 「人間の本質なり自然の摂理に照らして、経営理念に立脚し何が正しいかということが考えられなければならない。」
 (松下幸之助)

 「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である」
 (本田宗一郎)

これは企業の大小に関わらず、もっとも優先すべき大切なことでありたとえ倒産しようが維持されようがこれがなければ何もはじまらないのである。物事の本質は、人としてどうあるべきかという心感に根ざしたものでなければならない。

常に何かの判断や行動をする際には、まずその経営理念を確かめそれによって自らの決断を正直に行うことが大切なことであると私は思う。

どんなに時間がかかろうとも、利を先にするというのは、儲けばかりを考えてしまいその経営理念の醸成に力を注がなければ結局は末路は悲惨悲哀なことに繋がっているのだ。

「その本、乱れて末治まるものあらず。」

すでに理念なく、利を追及する企業の先に決して治まる未来はない。問題の根幹は如何に同じような過ちを繰り返さないかということが、倫理道徳に根ざした今、行うべきリーダーたちの経営判断であるはずである。

こういうことが二度と起きないためにも、自らの襟を正し粛々と企業文化を継承していく必要がある。眼には見えない哲学や哲理、その人間観から人生観などその人物が放つ生き方や在り方が形になったものが会社であり組織である。

だからこそ、一人一人が自らの生き方に問いを持ち、根本的な理念から経営を行うことがより未来の平和な社会を創造し共生し貢献していく鍵である。そして自然に応じて生きていくことこそが、この世に存在さしめてくださっている意義の本質、「自然の摂理」なのである。

天災人災を通して、私たちは一体何を学ぶべきなのか。

その鍵により新しい時代の扉を開くためにも、こういうことが恥ずかしいことだと肝に命じ自らの実践を決めていきたいと思う。子どもたちの行く末に負の遺産を残さなくてよいような文化を保育を通じて創出していきたい。