考える力

「一事が万事」という言葉がある。これは一つのことを見れば、他のすべての事が分かってしまうということを意味している。

これは別に疑い深く観察しているわけではなく、本当に空気が読めないようなことをするからすぐに分かる。

言われたからと受け身でやってしまい、本当は何なのかやなぜこれはそんなに大切なことなのかを自分で深めずに動作的に何かを行えば自分で考えることを止めてしまっていることになる。その後に、作業的に行ったことからミスが連発し皆の信頼を次第に失い、自分の信用自体も同時に失ってしまったりもする。

考える力がない人は、いつもこういうことをしてしまい他人に迷惑をかけ続けてしまうようになる。

ではなぜ考える力がないのか、それは当然幼少期より教えてもらっていたからであろうしマニュアル的に物事はやれば評価される中で考えるよりも記憶することや教わる事ばかりに力をいれたのであろうとも思う。もしくは、強烈にスパルタ教育を受けたことで考えたくないから思考を止めてしまったのかもしれない。いずれにせよ嘆いても今が大切なのには変わりはないのだから本人の今の覚悟と決心の問題であることは間違いないからこそ、苦難を自分で乗り越えた経験を積まなければ今までのツケを清算することはできない。

自分の過去の境遇に嘆いて自己憐憫の情に浸ってしまい、いつまでも面倒なものを避けてきたり誰かにいつも取り除いてもらっていたら生きる力は育ちはしない。自分がそういう自分と決別することからがスタートになるのだ。

この「考える」という行為の本質は、心から頭で考えるという手順を踏んで深めていくことで自分がどうしたいのか、どうありたいのか、それは本当は何なのかということをじっくりと取り組んでいくことのことである。

つまりは、最初から心を遣わなければできないはずのものが考えるというものだ。

しかしそうはなっておらず、心はどこかに御座なりにしいつも頭でっかちにやろうとすれば作業と同じく考えていないのと同じことなのだからつい周囲が傷つこうが誰かに迷惑をかけようがそこに気づかなくなっていくものであろうとも思う。

そうなってしまえば考える力も育たないのだから将来自立し本当の意味での幸福や自由は手に入ることはないのであろうとも私は思う。そしてだからこそ本人自身が自己変革をしたいと思えば大変な努力が必要になる。

まずは、先述した「心を遣い考える」ことをしなければならないからだ。しかし、これが今まで正しく考える力を養ってこなかった人たちにはなかなかできないから難しい。

つい考えていますと言って、やはり心は使おうとはしない。いつまでも頭で考えているだけで心は動かない。だから行動に心がついてこないから意志が弱くなりまたやってしまったと思い結局はいつものように負けて諦めて自分を卑下してそこに留まって流されていく日々に親しんでしまう。

自己改革とは、煙草を止めるやお酒を止める、怠惰な自分を改善するということを意味するのだけれどそういうことも考える力がなければやっぱり同じようなことを繰り返す。

マニュアルを用意しなければ、おかしなことをやってしまい周囲を困惑させてしまうのもこういうことが起きているからだ。

常に、考える力というものを養っていくことは大切なことだ。

自分が社会の一員として社会に参画し、お互いが住みよい社会を創造し、共生していくにはそれぞれが自分で考える力を使って協力して形成いくものである。

心と体、頭を合わさったものこそが本当の考える力。

一事を常に万事にするように、考えたものですべて取り組まなければマニュアルのように作業になってしまうから日々強い意志で心を決めて心を遣い続けることだ。

作業になるのは、心を遣い先に考え抜かないからだということに本人自身が気づいた方がいい。周囲に配慮もせず考えなくても惰性で動けてしまうのは、それは習慣を活かすのではなく単に楽な方に意志が弱くて逃げたというだけだ。

人間は、機械でも道具でもないのだからもっと人間らしい力を育むために日々を大切に心から考えて生きてほしいとも願う。子ども達には、記憶をすることよりも考える力を養うことを伝えていきたい。自分の人生は自分がどうにでもできるからこそ考える力を自らが養うことはとても大切なことだ。

将来が、より良い人生になるように社業を通じて示していきたい。