禍福一円

先日の天災と人災の組み合わせにいろいろと思うことがある。

何か今、私たちは大切なことを気づかせようとしているのではないか、そしてそれは私たちがなんとなく今まで曖昧にしてやり過ごしてきたことに対して「それではいけない」という警鐘がある時点で頂点に達したのであろうとも洞察することができる。

今まで何かしらと一人一人が立ち上がろうともせず考えずに流されてきた日々の中で、積もりに積もった様々な汚泥が池の底に溜まっていたように思う。

それは社会問題であったり、人間の本能であったり、環境問題、政治経済の問題、道徳倫理の問題から食糧問題、人権尊重のことなど、挙げればキリがないほどに刷り込みによりズレてしまっている問題のこと。

それが今回の天災というものを通じて顕われ、そして人災というものを通して人の目に曝された。悲しく犠牲になった方々がいて、それがなぜ起きたのかなどを受け容れられないほどの悲惨な事故を通して、その方々のためにも私たちは今此処で本当は何を気づき何を学び何を変えるのかということを決めなければいけないのではないか。

この大きな試練に対して、如何に正直に受け止め、思いやりに気づき、勇気を出して変えるのかというのが世界の中での日本人を生きる上で私たちはとても大切なことであるようにも思う。

これからの復興のことを思えば、二宮尊徳の足跡を感じない日はない。
二宮尊徳の思想の根幹に「一円観」がある。

世の中というのは、一見、善いことが起きているようで実はそれは悪因を呼び込むものであったり、また一見、悪いことが起きているようで実はそれは良因を呼び込んでいるものだったりもする。

その禍福や吉凶は表裏一体であり、本当に大切なことというのは「移り変わり続けることに対して如何に怠らずに努めるか」ということなのであると語りかけてくる。

その二宮尊徳が成田山新勝寺での断食による誓願を行う際に、語った言葉がある。

「禍を転じて福となし、凶を転じて吉となし、
 借財を変じて無借となし、荒蕪を変じて開田となし、
 やせ地を変じて肥沃の地となし、衰貧を変じて富栄となし、
 困窮を変じて安楽となし、
 おおよそ人民のにくむところを除いて好むところを
 与えようと、日々夜々に祈願するところなり」

とある。

これはどうしようもない運命に対して、人はいくらでも心の持ち方や心の転換で乗り越えていくことができるものであると自らの艱難辛苦を耐え抜いた人生観からの気づきによって悟ったものであろうとも思う。

しかし一般の人は、運命だからと何かをすることを嫌がりそれを受け容れないためにそういう生き方の人を疑い妬むようになったりもする。

この誓願はその自らの誠を示すためのものであったそうだ。
凄まじいまでの自分との闘いである、私は未だその覚悟が足りないのである。

生きていれば、必ず一生を通してその人に必要な色々な禍や災難が降り注いでくる。その中でどうしようもないこともたくさんあり、それが本当に辛く悲しいことであったりもし、時に運命を呪い、時に自分を責めるような時もある。

しかし人は弱く完璧ではないのだからこそ、そのものに無理をして負けじと意地を張るよりもむしろそれを善いことであると受け容れてそこから新しいものへと転換していくことが人の持つ「本当の力」であるとも私は思う。

人間は心を強く持つことでどのような物事もそれをいくらでも正しいものへと変えようとする意志を抱くことができる。せっかく天からいただいたものを如何にさらに善いものへして世の中へ還元することができるのか。

私は、恩人や師により得た本当に素晴らしい宝物を持っている。この数年は特に本当に有難いほどの愛を降り注いでくださった。この御恩、決して忘れず必ずいただいた以上のものにして子どもたちをはじめ私が触れ合うご縁の方々すべてに伝承し還元していこうと思っています。

いまさらですが当たり前すぎることに慣れ親しみ失念しておりました。
心から深く感謝しています。

「禍を転じれば、それは福である。
 凶を転じれば、それは吉である。」

ここで「転じる」かどうかは、変化に準じる意志の力の醸成であり、日々新たにしていこうとする自らの発奮する覚悟の力である。

機会をチャンスだと受け止め、愛を循環させるためにも、この感謝と真心を大切にこれからのことのために今を正しく刻んでいきたい。