集団的無責任

集団的無責任について以前このブログで暗黙的な了解という形で書いたことがあったけれどより深めてみることにする。

ある程度、余裕が出てくると人は危機的な状況であろうがそれを何度か何も手を打たずに通過すると痛覚が麻痺してくる。それは自分というもののことでもそうだけれど、大変だと分かっていても一人ではどうしようもないからと自らの責任を放棄し、さもみんなの責任になどとすり替えてしまえばそれでお仕舞いなのである。

皆でやるや皆の責任という言葉は非常に危険を含んでいる。

それは自分が全ての責任を取ることが前提で語っている人か、自分だけが責任を取りたくないから語っている人かでその使い方が異なってくる。保身という自分の感情を押し殺して周囲の顔色を見ながら生きている人ではそういう責任感を正しく自得することはできない。

そうしているうちに自分からまず周囲のことを信じられなくなり、逃げの気持ちが働き、責任感が強い真面目な誰かに依存するか責任感が強すぎる人の下で自分もやっているよと調子よく見せることが仕事なのだと思い込んでしまい麻痺する人になっていくもの。

結局、最期はいつも誰か任せというのは、自分で遣り切ったり遣り抜こうと決心して行動したわけではないから誰かがやるのならば自分は遣るよという自分で考えようとしないという歪んだ決心をしたことになる。

そしてそのまま麻痺し自分が遣ればきっと迷惑がかかるなどという間違った正当性が集団の中で文化として生まれれば、もはやみんなの責任にして何もしないことがもっとも正しいなどと勘違いしてしまうものだ。

そこでなぜこういう集団的無責任が起きるのか?

それは私は、根源的には一人一人が自らの人間修養を怠ることから生まれることであり、やはりどこまでいっても自修自得の精神の欠落であり、頭脳社会と心の世界との関係性が課題になる。

例えば今の時代は「メンドクサイ」という言葉に象徴されている。メンドクサイというのは、心を籠めるのが嫌だと言っているようなもの、便利さを追求していけば心は籠めず、これでは以心伝心もなく集団は機能しない。

ある人に話をしたことがあるけれど、便利な人というのは責任がある人ではない。責任がある人のことを人は便利とはいわないのは緊張感があるからである。その緊張感は、心を遣っているからである。

ここからが本題の要諦だけれど、人は頭が心を管理するのと心が頭を管理するのでは意味が異なってくる。

もしも頭が心を管理すれば、感情を押し殺しても頭で都合が善い方法がどこかないかを必死に探そうとしそこから心を使おうとするけれどそんなことはできるはずもない。なぜなら、心は最初に感じるところからそれを信じて助長していくことで行動と決断に活かせるからである。

しかし逆に心が頭を管理すれば、感情を活かしつつ心で感じたままに正直に動け頭を最良の方法へと導くことができるようになる。そしてその時、はじめて皆の力を結集することができ中庸を得て「正しいこと」ができるようになる。正ことは何をもっとも常に優先すべきか、人としての道を間違わないということ。

まず心ありきなのであり、日頃から心を修練することこそが学問であり、心が醸成されれば次第に人は責任を持てるようになるのである。どこまでいっても人間は氏より育ちなのであるし、育てられ方や育ち方とはつまり心がどのように育んできたのかという生きていく上での見守りの力なのであると私は確信している。

そしてこれにより育った、「素直で正直」つまり自らの至誠を実践する人は自立し周囲の全ての力を借りることができる。

そしてそれはリーダーやマネージャーが持つ、「徳」という形になって顕現してくる。

そういうものを大切にしていこうと思う心が集団にあれば次第にそれぞれは責任を持つのであり、そういうものが大切にされなくなれば次第に集団は無責任になるのである。

こういう時代だからこそ教育すべきなのである。人間は社会と集団を創るものだからこそ決して野放しではいけないのである。

心とは、そもそも周囲を活かすようにできているし、心は最初から正しいことを知っている。心を育て、心を遣い、心を活かすことこそが自分の人生の責任を自覚することでもある。

今のような集団的無責任が往々にして起きているということは、誰も何もしないことがそのまま乗り切れるなどという倫理道徳が危機的な状況に陥っていることが最大の問題なのだ。

こういう時だからこそ、誰も遣らなくても自分は正しいことを遣ると決めることや、そういうことをするのは本当に恥ずかしいことだと自分を戒め、自分は決してそういうことをしないように正直に、思いやりと勇気を持って事に当たっていきたいと思う。

子どもたちに負の遺産を残すわけにはいけない。

どの時代も解決方法とはとてもシンプルなもの、頭ではなく心があるがままに感じる実践、それはすべてへの思いやりを優先すればいいだけのこと。子どもたちに恥じないような生き方をしていきたい。自分の実践が足りないことが嘆かわしい、ここから平和な世界を変革するために立ち上がっていきたい。