今この瞬間に真心を

何かを判断する際に、今というものをどう解釈しているかで判断が変わってくるものであろうとも思う。

今というものを肯定して受け容れている人と、否定している人ではその判断軸はすべて異なってくる。

今というものに感謝し、充実した生を送る人は起きている出来事の全てに意味を感じて丁寧に前向きに自らの道を歩むことができる。逆に、今というものに満足せず感謝を忘れてしまえば、どの出来事へも不平不満を持ち後ろ向きになってしまうもの。

時というものは、面白いもので流されていく人と流されない人がいる。

流される人はマイナス思考で今に不平を持つ人たち、流されない人は今というものをこれでいいのだと全肯定できる人たちである。

今、この瞬間、今、このすべてに命を懸けて生きる人は人生に絶望したりすることはない。真摯に、今、改善すべき課題に一生懸命になれるからでもある。

そうではない人は愚痴ばかりをこぼし、何かあると自責の念にかられて何を真摯に取り組むべきかという目標についても覚束ないままになる。

人間は、自分がどのような心構えでいるか、今というものをどう捉えるようにするかで、時というものと心というものを感じているのであろうと思う。

以前のブログで、時=心であると書いたけれど今の自分の心の在り方こそが時であるのだから如何に今を大切にしているのかということがすべてである。

今を大事にできない人は、時を大切にすることはできない。時を大切にすることができないのならば、今は大事ではないということである。

この今はいつも最高の今という風に、今を更新していくことこそ時を豊かに充実して更新していくことでもある。

後悔しない人生とは、今というものに感謝して満たされている心で感謝と御蔭様をいつも心に抱き生きていく人生でもある。

自分が今あるのは、一体誰の御蔭であるのか、一体何の御蔭であるのかと考えれば今が観えてくる。その今というものがあるのは、自分が時を大切にしてきたものの集積で成り立っているのである。

だからこそ、今、この一瞬に真心を籠める生き方こそが時を豊かに一期一会にあることでもある。

人を幸せにするには、自分を幸せにする力がいる。自分を幸せにするには、今に満足し感謝して生きていく力を育てていくことでもある。発達というものは普遍性が存在する。

発達を見守っていく中で、真の仁慈の繫がりが新しい時代を築くのであろうとも思う。これからも、今というものを大切に生きていこうと思います。

変化を受け容れる

変化に息詰まるということは、今までのやり方がすべて通用しないと悟る事であると思う。

今までのやり方が通用すると心のどこかで思っているうちは真の意味で学び直しをすることができはしない。

自分がまだやれると思っていたり、今までの頑張りが足りなかったのだと無理に自分を今までの方法で叱咤激励してやろうとするよりももはや一切通用しないと気づき諦めるところから変化を受け容れることができるようになるものであろうと思う。

一つには、頑張ればできるという妄想でもある。

今まで学校などで教わったように必死にやりさえすれば何とかなると思っているのは、努力の仕方は受け容れなくてもいいから真面目にさえやっていればいいという考え方でもある。

しかし、それは根底が間違っているとしたらその方法では一向に辿りつくことも変化に順応していくこともできはしない。

もう一つは、価値観を変えずに何とかしようと思うことである。

今までの自分の価値観でいつまでも物事を評価したりそれを当たり前だと思っているうちは何をやっても新しい方法や発見は訪れることもない。先入観を持たずというのは、今までの価値観を捨てることである。

捨てるというのは、持たないということ削る勇気を持って価値観を変えることを言う。今までの自分の価値観よりも優先するものを持つことであり、自分を曲げたくないと頑固であればあるほどに価値観を刷新することができないでいたらこれも当然変化を理解することも正しくできはしない。

見直しや学び直しとは、根底や根本的なところといった最底辺より行うことであり今いる自分の都合の良い場所から行おうとしてもそれはできはしない。

もしくは、理念というものに自分のすべてをあわせていこうといったまずは自分から変わっていこうとしなければ変化を受け容れることもできはしない。

人間は、何かの有事に出逢ったときまだこのままでもやれるとどこか思ってしまうと変化を受け容れるよりもちょっとやり方が間違っていたと思うものでもある。

しかし本当は、このままでは通用しないとすべてを受け容れ勇気を持って自分を削れるところまで削っていこうとすることではないかと私は思う。その削るというのは、無理をすることではなく無理をしないことでもある。

これからの時代は、如何に無理をせず自然にありのままにいるかというのはとても大事になるのではないかと私は思う。

変化というものに対して、どれだけ柔軟性を持てるかがこういう激変の時代の生き残り方には重要な要素となっている。

大切なものを守る以上に、守るものはないはずである。

如何にいらないものをいつまでも持とうとしないかというのは、今を生きる上で実践し続ける生き方の選択なのであると思う。前向きに未来に希望を感じて歩むとは変化を受け容れる方を取る事であるとまずは自分から示していきたいと思う。

平常心を楽しむ

元来、人はプラス思考のタイプとマイナス思考のタイプとがある。人生をきっと善くなると信じて肯定的に感じている人と、きっとよくないと否定的に感じている人がある。

積極的に生きている人は、楽観的で快活であり平常心があまりブレナイでゆったりと穏やかにしている。消極的に生きている人は、悲観的でつねに心が悩み、悲しみ、苦しみ、迷い、恐れ、怒り、憎しみ、、等々とそういうことばかりに囚われて健康も害している。

平常心、つまり心を強くしていくというのは、別にそういう消極的なものを避けたり否定することではない。そういうものをすべて受け容れてそれを善いことへと転換していこうとすることであろうと私は思う。

例えば、どんなことがあってもこれは自分を成長させてくれているのだや感謝というものを忘れないためにや、自分に天が気づかせてくださっているのだと謙虚に素直に実践していくことが積極的でいることでもある。

そうやって実践を通じてひとつひとつの出来事の本質を極めていくことで、それが実際は大変貴重な体験をさせていただいているのだと心底感動していくことが人生を豊かに玩味していくこともなるのであろうとも思う。

自分の心は相手に鏡のように映り描写するもので、自分の心が日頃からどういう状態なのかで相手に以心伝心に伝わってしまうもの。例えば、人との関わりにおいてこの人と一緒にいることで自分は成長することができるや、感謝を忘れないでいれる、自分を気づかせてくれると思っている人はどんなに御互いが苦労があっても共に協力して乗り越えていくことができるもの。

しかし、そうではなく相手と対話を避け自分の中に閉じこもってしまい自分だけで解決しようとすればその心も相手にすべて映り描写し相手も同じように閉じこもることに引き込んでいくようなもの。

不安や恐れ、怒りや憎しみという感情をこれが自分の弱さだと受け容れ、自分をゆるすことで相手をゆるし、さらに発展する新たな善い関係を構築していこうと思えることが心の強さ、つまりは平常心を磨くことであると思う。

動じないというのは、そういう感情に動じないということ。

事象に左右され囚われるのは、まだ本当の相手を心で観ようとしていないからである。その人の存在を丸ごと受け容れるには自分の弱さも一緒に受け容れる必要があるものである。

明るく前向きに生きていくことを周囲が選択できるように、まず自分自身の心を積極的にしていくことが自らを修養し道を実践をしていくことでもある。

笑い、楽しみ、気づき、歓び、思いやり、愛し、遊び、健やかにと日々を生きていくことがどんな時代でも環境においても常に大切であるのであろうと私は思う。

生き方そのものが幸せを創造し、在り方そのもので周囲を幸せにしていくのである。だからこそ私自身が、平常心を優先できるよう遊び心で実践を楽しんでいきたいと思います。

身近な見直しと実践から

コミュニティを創造していくのに、譲り合い助け合いというのはとても大切なことである。循環というものは、そういう相手を思いやることではじめて次へと繫がりそれが活かされ戻ってくることができる。

今回、原発のことで周囲の人たちのことを思いやり行動したことで同じように信念を持っている人たちと繋がっていく。それは運動ではなく、自分が大変だということはきっと相手も大変なのではないかと思いやるところからはじまっている。

どんなに良いや悪い流れがあったにせよ、それをどのように自分を通過する際に本当に善いものへと転換するかというのは大切なことであると私は思う。

古語に、「禍転じて福となす」がある。

これこそ、もともと良くない出来事があったことを創意工夫で結局は善いことにしてしまうのが人間の持っている本当の力である。

つまりマイナスな観点を、発想を転換してプラスな観点にしていくこと。

そもそも禍福はぐるぐるとその人の視点で巡っているということを知り、どのようにそれを転じてバランスを取るのかというのが本来の私たちの暮らし方であるのだろうと私は思う。

様々な出来事は、その人のバランスを求めてくる。

次第に人間は安定して固まってくると、次第に時代や環境にあわないようにと追い込まれていく、その際にくるっと回転して今の時代や環境にあうようにと変化していくもの。

まるで砂時計の砂が落ちて、また逆さにして砂が落ち直すように行き来していきながらちょうど善いバランスでいようとするもの。

地震もうそうだし、台風もそう、すべての天変地異は偉大なる調和のなかで動いているのではないかといつも自分の心はそれを捉えている。

道としての生き方として、私たちは日々の出来事を少しでも善い方へと転じていこうとする実践こそが中庸であり、バランスの中にいることでもある。

仕事もそうだし、生活もそう、私たちは心を落ち着けるためにも身近なところから見直していこうとする実践が必要なのである。

何かの大きな出来事が起きる程に、私たちはそれに目を奪われてしまうもの。しかしそれを見ていて身近な実践を怠るのは結局は何も善くしていないのに匹敵するのである。

だからこそ、一時的に目を奪われようとも心は自らの信念や道一点を見つめその眼は禍福を一転させるところを捉えていることが大切なのであろうとも私は感じる。

色々な出来事がある中で、もっとも大切なのは自分の方から変えていくこと、自分の身近な実践から取り組んでいくことである。それが世界を易える原動力であり、それこそがバランスを皆で保つ在り方なのであると私は思う。

子どもたちのためにも、様々な身近なところを見直し、身近なところから実践を増やしていこうと思います。時は永遠、そして間は悠久、雄大な自然と溶け込みあいながら学びつつバランスをとっていこうと思います。

自分から自分らしく

自分というものを理解するのに、誰かからの評価を気にして自分というものを無理にでも作ろうとしている人が増えている。

期待され、その期待に応えようと必死になるうちに本当の自分らしく生きていきたいという気持ちよりも、何とか期待に応えたいと思うようになるのであろうとも思う。

幼い時から、自分がやりたいことを認めてもらえるよりも誰かがやりたかったことをやることでその人が認めていくとなるとその子はずっとその期待に応えることが愛してもらえることだと勘違いしてしまうことがある。

愛してもらうことに必死になっても、その人の期待に応えられない自分に出会ったとき絶望とともに自分らしく生きようと決意してその人から離れるか、その人の言うとおりに従って生きようという二択の選択をするのであろうと思う。

しかし、本来、その人は自分ではないし、自分はその人ではない。その人のようになることはできないのであり、その人の期待に応えるために生きているのではないのである。

人は、自分のために生きるのである。自分らしく生きたいと思うほどに、その自分らしく生きることに期待してもらうのならその子は自由を得て自分を愛されることよりも愛するように生きていくことができる。

その人のことを尊重するというのは、その人らしく生きていくことを認めてあげることなのである。

それを否定してしまえば、また期待に応えようとするか期待に反してでも好き勝手なことをして困らせるかになってしまい人間関係はまた傷つけあうように愛憎になったりとしていくのだろうと私は思う。

愛されるよりも、愛したいと思える関係とは、自分が相手の評価や相手の期待に対して無理をすることではなく、あるがままの自分でいることに無理をしないことなのである。

それは、自分らしく生きるということに無理をしないということ。そして自分らしくいることに正直でオープンにしていることである。誰かの顔色を見て、誰かの評価ばかりを気にして、自分を周囲にあわせていけばそのうち無理がきてどうせ長続きせずに壊れてしまう。

そうであれば、自分から周囲へ自分らしくいる人を認めていくことであり、そのままがいいということを自分から率先して行動していくことであり、自分らしくいることで自分を愛し、他人を愛することを実践していくことである。

いつまでも仮初の自分と付き合って人生を終わるのはあまりにももったいないこと。もっとあるがままの自分でいるように無理をしない自分でいるようにとするのは、そういう自分のあるがままを受け容れてしまうことである。

それでいいというよりは、そのままがいいと思うこと。

そのままの善さが引き出されれば、人はその人らしく輝いていくもの。子ども達には、そのままがいいとし見守りの心で自分らしい人生を送ってもらえるようにまずは自分からその実践を楽しみたいと思う。

過去のトラウマや、今までの傷が疼いたとしても自分が無理をしないで生きていくことが人のそういうものを取り除けるのならばと成長を優先する勇気が子どもたちの未来を創るのだと思います。

リブランディング

変化するためには、今までの在り方を刷新する必要がある。

先日、JALの再生で稲盛会長が社員にこの会社は倒産したのだと認識させたとあったけれどこれはとても大切であると私は共感した。

今まであったものをそのままあるものだとし、新しいことをやっている気にはなっているけれどそれは何も新しいことではない。

今までのやり方を踏襲しているのであり、今までやってきた方法を少し変えただけであり完全に刷新したわけではない。

今まではそれで善くないことが続き、時代にあわなくなっているのは会社だけではなく自分自身もそうなのである。それを今までのことの範疇から抜け出さずにその発想から何かをやっても変わるはずはない。

例えば、これはカフェをやっている店舗でもお客さんが少ないからとちょっとサービスメニューを変えましたではそれでは別に変ったとは言わないからである。

変わるには、そのカフェでやってきたことを忘れてもう一度新しくすべての取り組み方を新しいカフェにあわせて学び直すことである。

学び直しとは、今のやり方に限界を感じているからやるものであり、今までやってきたことの学び足しではない。今までのものは使えないのだと認識することであり、今までの社員は一度すべて退職したのだとすることであり、今までやってきたことは区切りがついたのだとすべてを刷新することである。

見た目を少し変えることが、リブランディングすることではない。
中身を全部変えることが、リブランディングなのである。

それは、例えば同じ仕事でも自分の在り方や進め方をまったく新たにするということであったりする。今までは、何かの仕事の進め方を教わったり習ったりしたことがあったのであろうと思う。しかし、それでは使えないということを知り、新しい仕事の進め方を教わり習い、新しい会社だと思って新しい社員になりすべてを一から学び直すことが大切なのである。

そういうものをせず、いつまでも頑固に自分を変えようとはせず昔取った杵柄にしがみ付いている人たちがもっとも変化を阻害しているのである。変化できないや変化しない人はみんな発想がマイナス思考でありネガティブなのである。

自分の会社への愛社精神がもし本物であれば、昔の会社は善かったと何か過去に浸るのではなくこれからも永続していける会社のために今が善い会社にしようと思うことが本当の愛社精神である。

昔の自分、昔の会社から考えれば今の自分は否定されていることになってしまう。そうではなくて、一緒になって新しいことを教わり習い覚えていくことは今の自分、そして今の会社をそして愛しているからである。

前に進むというのは、過去に戻る事ではない。ネガティブな発想よりも、これからどのように会社が変わっていくのかその未来をポジティブに考えることが刷新への第一歩である。

夢と希望に向かうことこそ、リブランディングの本質なのである。復興も復活も、すべては十分頂いたと今までに感謝し、これからの今に感謝できるように脚下の実践を真摯に取り組み楽しむことである。

まず自分たちから変わっていこうというのが示すことである。

実践者の学び

師との話の中で、実践の重要さを感じない日はない。

今の社会は情報が多すぎて、目の前にいる人に心を籠めるよりもそうではない遠くの人たちのことばかりを論じて何も自分を変えようとはしない人が増えてきている。

環境問題をはじめ、世界各国で起きる出来事のことに思い憂いているのに実際は目の前の自然や自分の地域の出来事に対しての繫がりの方はそのままおざなりにしていることもある。

保育で言えば、何かの運動のように方法論だけは広げていくけれど実際に目の前にいる子どもたちのことは放ったらかしにしている場合もある。

まず足元にあることや、周囲に起きる出来事を丁寧に対応していくことができてはじめて遠くのことをやればいいのである。それをせず、思い悩み憂うことでどうにもできないと無力感に苦しむよりも自分のできる範囲でしっかりやっていくということがその実、全体の調和や変化の礎になっていくのであろうとも思う。

すぐに人は数の論理や、力の論理で、さも広がったかどうか影響力がどれくらいあるかということばかりに目を当て、大きいか小さいか、広いか狭いかということばかりを議論する。

しかし真の実践者というものは、そういうものを大事にはしていない。
自分ひとりの影響力の偉大さを現実的に自覚しているのである。

方法論ではなく、それは実践論でなければ意味がないことを知っている。

やり方ばかりを探すのは情報が多いからであり、簡単に入手できる時代になっているからである。しかし、その方法を先に知るから苦しむのであり追い付いていない自分に焦るのであるのだろうとも私は思う。

じっっくり時間をかけて玩味していくことではないけれど、何かを感じようとするには感性を研ぎ澄まし日々に応じて心をあわせていくようなことが必要なのであろうとも思う。

どうしても、答えが先にあるかどうかを知りたくなるのは私たちがそういう教育を受けてきたからなのかもしれない。人生の意味は、味わい尽くすことで得ることができるものなのに本当に時間にあくせくともったいないことをしているなと本来のいのちや心、繋がりを味わうのに必要な穏やかな時間すらもなかなか取れなくなってきているのだろうと思う。

心を落ち着かせることは、自分をいつもの平常心にしていることでもある。感情に巻き込まれるのは、味わう気持ちよりも解決したいという焦りに心が攫われているからである。

平常心とは、必ず心が先に実践し頭が後付けであるということであると私は思う。実践することが前提であることは正道から入る事であり、決して裏道から入らないことである。いつも優先順位からブレず実践していれば頭ではなく心が先に動いているから方法論にも運動論にも陥らないのである。

私たちが学び広げる実践者の語る声はすべて方法論ではなく、実践の在り方そのものを語っているのでありそこを実践しながら学びなさいということなのである。

師は見守る保育というものは方法論ではない、保育とは子どもを見守ることからはじまっているのであるという。

これは、充実した人生というものは方法論ではない、人生とは生き方が充実しているところからはじまっているのであるという意味でもいい。

実践をする人からの学びとは、そのものの実践を深める事である。決して方法論として受け取ってはいけないし知識をただなぞり得るようにやってはいけない。

尊敬する実践の真似をすることであり、まねぶ、つまりは学ぶことなのである。

こういう情報リテラシーが特に必要な時代は、常に自ら主軸の実践のために情報を取捨選択し続ける心の調整を実践していかなければと真摯に感じる。一つひとつの課題に対して、そこから常に取り組んでいきたい。

子ども達には、実践しながら学ぶよう知行合一の豊かさを示していければと思いまず今を受け容れ楽しんでいる自分でいようと努めようと思います。

コスモリテラシー

暮らしを守るとはどういうことかと考えることがある。

山に行けば、様々な動植物や昆虫が棲み分け暮らし、川に行けばそこでも同じく小さな生物から大きなものまで棲み分け暮らしている。土の中では微生物をはじめ、小動物など多種多様な生命がそれぞれに棲家を分けて暮らしている。

人間だけの暮らしを良くしていくことだけが暮らしを守ることではない。本来、暮らしを守るとはこの世に棲家を分けて暮らしているすべての命を守ることが暮らしを守る事なのである。

自分たちだけの暮らしを守っていては、地球上で棲み分けている私たち共生の生命の暮らしが持続して保障されることはない。今の人間は、常に自分の暮らしばかりを守ることに必死になりもっと身近にある様々な命を大切にすることを忘れている。そのツケで原発事故にあるようにもう生命が棲み分けすることすらできないような棲家にし、暮らしが壊されていくのをいよいよはっきりと目の当たりにするようになってきた。

自然の中にあるとても繊細かつダイナミックな繫がりから秩序を学ぼうともせず、いのちよりも欲望を優先していつまでも生きていたらそういった普遍的な秩序の中にある穏やかで平和な心を持つことも失われていくものである。

最近のニュースでは、熊や猪などの野生動物が人里で人を襲ったというニュースがある。また空に鳥がいない海に魚が消えたや、身近に虫が大量発生したり雑菌が人を襲っているともいう。

これはなぜなのかは明確である。

もともとの命の営んでいる領域へ、勝手に人間が私欲を優先し踏み込み奪い去ったことで、以前から棲み分けていた居場所で暮らしくことができなくなったからである。誰だって自分の暮らしができなくなれば新しく暮らせる場所を探そうとするものであるし、暮らせるようにしてくれる仲間や絆を探そうとするものである。

神社では杜というものがある、決して人間だけが生きているわけではないということを学び命を尊重し合うために杜を遺し、自然と共生していくなかで御蔭様であることや他の命がいただくのだからもったいないや、滅多にないような恩恵に感謝する有難いということを自然の秩序から学び暮らしを守ってきた。

幸せで居続ける事は、それぞれの命の暮らしを守る事であることくらい本当は知っていたはずがちょっと目新しいマシーンや科学に目を奪われると、長らく手と手で交わした自然との交流を手放してまでその便利さに心を奪われた。今では、すべてが自分の手を汚さずに便利に楽に生きていこうとすることが暮らしを守ることであると勘違いすらもしている。

自分の生活が裕福になる陰には、様々な暮らしを奪われている優しく穏やかな命が存在していることにも目を向けないくらい忙しくなってしまっては自他含め命は粗末にされるもの。

悲しい苦しいと泣き叫んでいるのは、自他の魂である。

未来を鑑みれば、子ども達にはナチュラルリテラシーを身に着けていくことがこれからの時代大事なっていく。本来の自然から秩序について学び、西洋と東洋の価値観を融合するコスモテラシーを持てる人物として成熟していく必要がある。

これは私の造語だけれど、暮らしを守るには自らがコスモリテラシーを学ぶ必要がある、そしてそれはすべての命が観えている人物に育っていることである。

人間の成熟とは、別に何か超能力を使うことでもなく、何かよほどの徳や人格を持てばいいというものではない。当たり前のことをもっと自然に感じて、様々な秩序を自らに内包し、世界の中で自分らしく自立できることをいうと私は定義する。

これからの子どもたちの未来に思いを馳せると、命の絆の大切さを思わない日はない。刷り込みを取り除けるように、環境保育や自然教育の本質、ナチュラルリテラシーと人間の本質、コスモリテラシーをまだまだ極めていこうと思う。

未来への希望は子どもたちのためにも、今、どう生きるのかを一人一人が考えて主体的に決めることだと自らで示していきたい。

子どもに寄り添う

子どもの気持ちになって考えることは、子どものすべてを肯定することを言う。

よく子どもだからや子どもは分かっていないのだからなどと、子どもという存在が未熟であるということが前提で考えると子どもの気持ちに寄り添うことができなくなる。

今大人になってみてよく分かるのは、本当に未熟なのはどちらの方なのか、それは私たちの方である。

同じことを繰り返し、生き方として当たり前のこともわからず、いつまでも皆で仲良くなることが上手にできない。

子どもたちは、偏見もなく自然にみんなで仲良くし調和しその中であるがままで接し合い学び合っている。あの笑顔も、あの心の姿もすべては完全であるのに、次第に大人になるということはそういうことをできなくすることを言うのではないかとよく思うことがある。

子どもはできないのではなくやらないのであり、子どもは分からないのではなく分かっているからしないのである。

丸ごと包み込むように子どもの存在を受け容れてみると、そこに偉大な心が働いていることに気づくことができる。

それは、子どもがそうするのはとても深い思いやりがあったりするからでありそういう繊細な優しい心は大人側がその心で寄り添わなければ観えるはずもない。

頭で考えた子どもの姿ではなく、子どもの時に自分がまだ失っていない子どもの感性でどれだけ相手のことを共感できるかということが子どもに寄り添うには重要になるのだ。

今は、誰かに共感し寄り添うというよりも自分のことばかりを悩み自分の考えばかりに囚われ周囲を思いやることができなくなってきている。

個人は自分の未来にばかりに躍起になり、みんなで創ろうとする未来やみんなと一緒の未来を未来とはしていない人もいる。

将来への希望とは、全体の未来があってこそであり如何にこの地球や全体を善くしていこうかと思えば子どもの姿をあるがままに見守るのは大人たちの希望であるはずである。

私たちは子どもの心を見失ってまで何を見ているのか、大事なことは子どもがいるのだから子どもを善く観て子どもの心に寄り添い受容し子どもを信じて生きていくことであると私は思う。

自分たちが解決できない問題も、子どもたちと一緒に考えていくことで将来への希望の種を育てていけばいいだけである。

悲観的にならず後ろ向きに考えず、子どもたちは全体に必要かどうかを判断して自分で生き方を決めていると信じてあげる事である。

私は仕事でも自分の生き方としても、子どもの心から世の中の希望を信じる事をいただいている。この世が素晴らしい、この世界はまだまだ大丈夫だと思えるのは子どもの心から感じているからである。

これからも大事なものを優先できるように、子どもを信じて見守ることをライフワークにしていきたい。

自分を思いやる

誰かのことを思いやるには自分のことが思いやることができなければ本質的に相手を自分と同じように大切にすることはできはしない。

自分はいいからというのは、自分のことは思いやらず相手のことを思いやるというのはそれは謙虚だと勘違いしているけれどそれは謙虚ではない。自分が感謝であるから相手へも感謝である、相手に感謝しないのは自分へ感謝が足りないからでもある。

自分を顧みずというのは、当然、自分のことのように相手のことを思えるから何とかしてあげたいと思うもの。それは、結局は相手は自分と思っていることつまり自分のことのように思えるというのは自分を大事にしたいと思う気持ちを相手に見出しているからできるのである。

世間では、自分を大事にするということが誤解されることがある。

それはさも、自分のことばかり考えていることや自分に都合の良いことをすることだと思われてたりするけれどそうではない。

自分を大事にするというのは、自分を好きになることであり、自分のことを大事に思うことであり、それはまず自分を大切にできていることである。自分というものをどれだけ自分がまず信頼することができるか、つまりあるがままの自分を丸ごと愛し受け容れていることであると私は思う。

いつも自分のことを忌み嫌い、自分を叱責し、自分が自己嫌悪になっている人は周囲の人を思いやろうとすることはできない。そうやって自分を大切にしていないのだから結局は深いところで相手を大切にできず、いつも何か失敗をして嫌われてしまいそのせいでまた忌み嫌う、そして忌み嫌われないようにとばかりに気を付けているうちに自分を粗末にするという悪循環に陥ってしまう。

思いやれるかどうかは自分の今の心、つまり生き方の問題なのである。

当然、トラウマをはじめ幼少期から相手から愛されていないと自分で感じてしまったり、自分が誰かを傷つけたと後悔を感じてしまったり、運命に翻弄されて憎んでしまったりと、相手がいるものだからこそ分かり合えないことで様々なことに苦しむこともある。

しかし、それをどう転じてどう自分の生き方を見つめ直して自分を変えるのかというのはその人が、人生の心のモノサシをどこに置いて生きるのかを決める事でもある。

つまり芯の部分で、自分を大切にするという生き方のモノサシでいるのか、それとも自分を忌み嫌い責め乱暴にするという生き方のモノサシで生きるのか。

誰も最初から悪気があって何かをするわけではない、そこにはきっと自分を大切にできていない理由やキッカケがあったものだ。それを責めるのではなく、ゆるすことで転換していけるかどうかが学びの意味でもある。

今は、子どもたちを始め社会が自己肯定感が低く自分を大切にできないでいる。もっと、自分を受け容れ、自分を好きになるために、自己評価のモノサシを自分の良いところを引き出せるようにしそれを貢献で満たしていけるようなマネージメントが必要になる。

生きていることは、誰かのお役にたっていくことであり、お役に立てることは自分が生き甲斐を感じることである、そういう自分が自分を好きになり、その好きになることを周囲へと及ぼしていくことが社会の素晴らしさでもある。

相手のことを本当に好きになるために、自分を好きになることは自分が自分を思いやることではじめてできるようになるのである。

子どもたちがどんな未来があったとしても丸ごと受け容れ自他を愛し癒され幸福に生きられるようにと祈り、誰かのせいでや誰かの人生ばかりに生きるのではなく、もっと自分の人生や自分を大切にして生きよとメッセージを発し続けられるようにこの今に心を籠めて日々の思いやりを実践していきたい。