子どもの仕事

ちょっと昔の出来事が今では考えられないことが起きているのが変化でもある。

何処までをやり、何処まではやらないか、その伸縮や出し引きを叡智や哲学を存分に発揮し様々な調和を維持してきたのが私たち人間でもあった。

遠い未来を見通し、そこから逆算し、今の目先は一時的に良くても子孫や将来に善くないと思えることは自律協調してきたものである。

自然界も自律協調の中でとても繊細かつ大胆に見守り、満ちては引き、引いては満ちる波のようである。

私たちは自然の叡智を親とし子として学び仕えることで、感謝の心と知恵を働かせて自らを耐え忍び希望を持ち悠久の流れに身を任せてきたのであろうとも思う。

何かを待つことができない社会というのはその将来の社会に希望を持てないということであり、何かを待てる社会を築くというのは、子どもに希望を持たせるような社会を創造していくことなのである。これは壊れても壊れても、また創ればいいのだと人生に希望を持たせることができる社会でもある。

壊す側もいれば創る側もいる、それでいいのである。
ようは全てを丸ごと受け容れた上で、自分はどちら側で生きるのかを決めればいいだけである。

そして私の定義する子どもの仕事とは、未来の仕事、遠い先のことを逆算して一人でも多くの人たちの人生観を目覚めさせ変えさせる仕事であり、それは少しでも多くの人々を道心に回帰させていくことでもある。

そしてそれはそれぞれの人生において、自分は一体どう学ぶのか、そして一体どう死ぬのかというような死生観を正しく持たせることでもある。子ども自身は自分らしくあるがままに一生懸命味わい深く豊かに自らを生きる事である。

生まれたばかりの子どもたちは毎日、ああやって一生懸命に今を生きている。

そしてこの先、どう生きるのかというのを身近な大人や社会から学んでいるのでありその周囲の大人の生き方や在り方こそがその子の道心に繋がっていくのであると私は思う。

今を生きる大人が、自分の人生を諦めたり、道を志さないでどうするのか、どんな境遇や環境であれ、しかし自分の生き方は選択することができるもの。どちらの人生も自分の人生だからこそ、どうあるか、残りの持ち時間をどう生きるのかは自分でまず決めることがすべてである。

同じくどのような社会にするのか、どういう世の中にするのかも決めるのは一人一人が生き方を決断するように在り方を決める事である。

私の思う子どもの仕事とは、そういう人の生き方や在り方を学ぶ仕事である。

子どもが好きなら、もっと子どもに見せられるような生き方や在り方の実践をしようと志すことであり、あの真摯な子どもに恥ずかしくないような真摯な背中を見せる事である。

ないものを探すよりもあるものを探す方が今は善い、これだけ残された沢山の自然を愛し、聖人や偉人の足跡や、その言霊を受け継ぎ、いつまでも天に恥じないように生きる生き方や在り方w子どもに示していきたいと思う。