価値観の創造

その時代その時代に価値観というものが人間社会の文化として生まれ、人は何かその時にもっとも民衆が謳歌している大多数のモノサシを優先して時代を創っていると思っているものである。

例えば、戦後、戦争に負けて今までの価値観が間違っていたかのように欧米の価値観をそのまま輸入し流行りにまかせて今までの価値観を否定してきた歴史がある。

つい先ごろまでずっと東洋人として大切にしてきた美意識や循環する生き方、また大和の精神も、この数十年でアッという前に払拭され渡来品に埋め尽くされ衣食住すべてがまるでずっとこのままであったかのように自分たちの先人が風土にあわせて築いてきた習慣や文化を誰も思い出そうともしなくなってきた。

人間の順応性というものを逆手にとってとてもわかりやすい植民地化であろうとも思う。別に国を奪わなくてもいい、文化を奪えば自分の国の一部であるかのようにお金をという富を利用し拡大していく世界戦略であろうけれどうまくできていると本当に思う。

しかし人間は、そんなにバカではなく如何に価値観をコントロールしようとしても天の定めた理法や原理原則までは誤魔化せはしない。物を大切にしなければ物によって気づかされるし、生き方を蔑にすれば幸せになることはできはしない。

物と心があり、その両面、いやまず心を優先し豊かになってからの物であることを忘れればいつの時代も空しい結果を招くだけであろうとも思う。

このような時代、価値観をどうするのかというのはとても大切なこと。

私は若い時に、価値観が世の中すべてを決めていると悟ってから目に見えないけれど確かに存在する人々のモノサシにどう影響を与えられるかというのをライフワークにして生きてきた。

先日の震災後、ついにその価値観変動が起きるような予感と共にこれからどう生きるのか、そしてどのような価値観を創造するのかは私のビジネスでも大変重要なポイントになっている。

復讐や反抗心、もしくは無駄な抵抗をする暇はない、自分の人生は子どもたちのために遣おうと決めている以上如何にすべてを大調和しかんながらの道を貫竟するかにかかっている。

それぞれの人が自分らしい価値観で生きる事、個々の主体性とはそういうときにこそ顕われるものである。私自身も、世界の中の日本人としてそして国際人として自分の価値観を練磨し研鑽し、文化を拡散していく援助をしていこうと思う。

子どもたちには、その根が何処にはればいいのかだけは遺してあげたい。

自分の生きざまを養分に換えて、大地に土に、その根を深くおろしていきたい。