偉大なエネルギー

大きな海原を見下ろし、広い空を見上げていると広大な大地に自分が存在していることに驚嘆することがある。

どんなに自分が何かを考えていても、あの広大な地球の存在から自分を省みれば自分の思考で知っている範囲はとてもちっぽけなものに感じてしまうことがある。

私たちが存在できるのは、あの包み込んでくれる偉大な海や空があってこそであろうと思うとその狭間の自分は一体何者であるのかと感じることがある。

この美しい地球に生まれて、今、私たちは何処から来て何処へ向かうのか。

そういう果てしないものを考えるのも、この海や空の偉大な間にある命だからこそそれを知ることの意味があるのであろうとも思う。

空と海の境目に心の目を凝らしてもそこには靄がかかったようにぼやけて見えてしまう。私たちは海と空を知識では分けるけれど、どこからが分かれているのかなどは感じているとよく分からなくなる。

これも渾然としていて、切れ目などなく常に相応じるままに繋がりの中で存在しているものであろうとも思う。

そもそも言葉というものを生み出してから、二つ以上に分けてものを考えることを人間は行ってきた。そのことで、道具を使えるようになり、そのことで自他の区別がつくようにもなった。

しかし、そのことで今まで当たり前にあった丸ごと一つに繋がっている存在というものを感じる力が喪失されてきたのであろうとも思う。

エネルギーなどもそうであり、そもそもエネルギーはなくならず形を変えて巡り続けるという定義を私は持っているけれどこれも理解してもらうことが難しい。これは物に限らず、自分の念と呼ばれるものや祈りなどの眼に見えないものでも然り、すべてのものはなくならずに循環するものであるからして、他人からいただいたものは他の人へ送ることや、自分が生きているのは必ず他のエネルギーをいただいているのだから感謝と共にそれを受け取るということができなければ繫がりの中で正しい循環を行うことができない。

こういう物と心の循環というものを正しくすることが、自然の原理を内包する働きを活かすことであり、こういう循環をしなくなればそのうちエネルギーが枯渇してしまい誰か多くエネルギーを持っている人に縋ることになるのであろうとも思う。

大切なことは、自分のものではないと思うことでありそういう偉大なものを循環できるようにと今、自分の持っているエネルギーを御蔭様という感謝の心で他人に与え続けることでさらに良いものが循環するということである。

呼吸と同じく、息を吐き出せば次は吸い込むというふうにどんな息を吐き出せば次にどんな呼吸を吸い込むかはある程度分かるもの。自分が心を籠めて吐き出したものは、そこから長い時間旅をし善いものをひきつれて戻ってくるのであろうと私は思っている。

人間は偉大なエネルギーをお借りして使っていることを忘れ、自分の手元で作り出したものだと勘違いするのがおかしいことであるのだと私は思う。呼吸するのも、水を飲むのも、食べるのも、すべては偉大なエネルギーの一部を使わせていただき生きるという膨大なエネルギーを利用していることを忘れているのだと思う。

だからこそもっとエネルギーへの姿勢を畏敬と感謝に換えて、それを多くの生命と分かち合っていくことの方が善い循環を生むのである。

常に自分の小さな思想で物事を判断してはいけない、偉大なる叡智や直観を磨き本来のあるべき姿を捉えていくことを大切にしていくことだ。

子ども達には自然の叡智を学びそこから偉大なる循環に気づけるような環境を用意していきたい。もともともっている自分の中のエネルギーがより貢献に使われるようにと見守っていきたい。