夢を語るは大目標

何かをしようと順序を決める際、質と量というものがある。

どれくらい多少の業務量があるのか、どれくらい大小の目標があるのか、それを混濁してしまうとおかしな話になってしまう。

目の前にはやることは山積みであり、それはひとつひとつ真剣に丁寧にすべて取り組んで結果にしていかなければならない。それはただ単に、一生懸命に取り組めばいいだけである。そのうちに、コツを掴み、効果的な方法や順序を覚えていき実力は次第に備わってくる。

しかし、遠くの目標や大きなテーマに対してはその目先の業務とは一緒ではない。それはそれで別の問題であり、毎日その大目標へと向かうために実践を積んでいくことで最終的にはその大目標に近づいていくのであろうとも思う。

よく聴いていると、大目標を観ないまま目先の業務に飛びつくと日々が繰り返されているだけでいつまでも近づいている実感がないという人もいる。

これは、ドラッガー氏が三人の石切職人の話で例えられるので有名である。

三人の石切り工は、ある旅人に、「何をしているのか?」と聞かれたとき、 第一の男は、「これで暮らしを立てているのさ」と答えた。 第二の男は、手を休めず、「国中でいちばん上手な石切りの仕事をしているのさ」と答えた。 第三の男は、その目を輝かせ夢見心地で空を見あげながら「大寺院をつくっているのさ」と答えた。

この一人目の男は、ただ単に日々に受け身に流される人、二人目は、この業務は最高の仕事だと勘違いし思い込んでこれも日々にただ流されている職人気質。三人目は、ビジョンや目標に向かって直向に日々を積み上げている社会的貢献ができる人と私は定義している。

つまりは、一人目も二人目も目標が明確ではなく目先の業務やただ単に仕事ばかりを観て本質を見ない人たちである。こういう人たちは組織にはとても多く、優先順位のことがわからない。

まずよく自分で考えてみると分かるけれど、人生の目標や目的とは目先のことを遣っていればきっと善いではない、どう生きるのか、どうありたいのかというのは人生の大目標であり、それを実現するために夢があり、それに向かって日々を積極的に生きることで叶えていくのであろう。

それを何もせず、日々に流されているだけでは決して社会の中で組織化したチームで目標を達成するということできない、リーダーとは、そういう大きな目標やビジョンを常に大前提で絶対的な場所に置いている価値観があり、そこに対して本質かどうかで日々を積んでいるのである。

三人目とは、夢やビジョン、その偉大な目標に対して本気で取り組んでいるから日々の業務もその仕事も、何かが違うのである。つまりは、そこに命や魂が宿っているかのように生き生きと神々しい何かを発揮するのである。

与えられた仕事ではそういうものはない、自分からその大目標をやるのだと真に決意したものだけが夢を持つことを許され、語ることで実現に向かうのである。いくら表面上をなぞって似たようにあわせたとしても、それは本気でないのだから同じことにはなりはしないのである。

まずは、私の言葉では何よりも優先順位は「夢を持つ」ことなのである。そしてチームでは、夢を語り合い、夢を共有すること、一つの偉大な理念のもとに命を懸けて協力していくことであるのだ。

それを実践しているかどうかで、自分が上記の三人の誰かが分かるし、または自分が何を優先しているのかが明確になるのではないか。

最後に、日々に流されない生き方として千代の富士の名言がある。

「いま強くなる稽古と、3年先に強くなるための稽古と、両方をしなく ちゃならない。」

実力を兼ね備えた夢を語れる人物になることこそ、子どもの模範でもある。

真摯に、一生懸命になる自分を恵まれた環境と恵またご縁、その組織やチームがあるからこそ、今は夢を観ることを楽しんでほしいと思います。

応援しています、ガンバレ。

学び方

分かった気になるや遣った気になるというのは、偏っているということを意味している。

例えば、いくら知識として先に話を聴いたり自分で調べたり何かを発見してわかったとしてもそれが具体的にどのようなシーンでそうなっているのかや、どのようにやることが現場実践なのかということがわからないという人がいる。

これは知識と現場での体験が繋がっていないからであり、頭では理解しているのだけれど実際にはやれないということである。

学識だけや権威だけでそれをやろうとしても、今までの現場での経験や体験による心体一致による気づきや習得がなければ頭でっかちに分かったとなっても実際はそれは分かった気になっているだけでもある。

経験主義ではないけれど、実際にやってみていないことは分かるはずがない、やったことだけが気づくことに繋がり、そこから学んだ本物の体験と経験が知識と重なり智慧と工夫を身に着け偏らない現実の話ができるのだと思う。

また逆もあり、現場でコツは掴んでいるもののそれを一向に言葉にできず語ることもできない人もいる。具体的なシーンだけを伝えても、それがどのような理論で科学的に証明されているのかや、分析したりといった周囲がそれを活用するために必要な知識を語れなかったりする。

どちらにしても、「知行合一」を実践していることこそ正しく学んでいるということであろうとも思う。世間では、学ぶということを勘違いしてどちらかだけで生きようとするから矛盾でバランスが悪くなっているのだろうとも思う。

もっと素直に正直に学ぶことからだと思う。

そしてこの学ぶというのは、真似るという意味だと師に教わったことがある。

簡単に言えば、コピーをすることだけれど、このコピーをすることを自信がない人ほど嫌がりなぜかいつまでも自分流などと真似もせずいつまでたっても一向に上達せず頑なに人の真似をするのを嫌がる人がいる。

礼儀や作法、その他、仕事の仕方などもいつまでもおかしなことをし失敗をするのは、真似をするよりも自分のやり方などという自分勝手な解釈での理解に固執している人もいる。

基本的には自尊感情というか、自分のことを信じる事ができるのならば別に他人の真似をすることは自分を失うことではないことはすぐに理解できる。しかしそういうものがないと、何か誰かの真似をすることは自分ではなくなると個性というものを勘違いしているのだろうとも思う。

子どもたちを見ても、赤ちゃんのときから周囲のやっていることを自らが真似をしできるようになっている。最終的に、それが個性がなくなったとは誰も言わないはずである。

自分できるようになるには、学び方の自立がなければいつまでも自立することはない。社会に出てきて、誰かに教えてもらうまで何もしないや、誰を見ても自分から気づいて真似もしないような状態ではその人が学ぶということを理解していないのだからほとんど本当の意味での上達はしない。

仕事はOJTの中でとあるのは、現場で背中を見ながら真似をしたりという風に仕事は見たものをやってみることや、見たものを聞いてみることなどで、現場の体験を通じで学んでいくのが学ぶことでもある。

そういうことなしに、学んでいますとか学びましたとかいうことはありえないのであり、それがわかった気になるややった気になるという自己都合の自己満足の学んだ気になっているという勘違いを生んでいるのである。

勘違いをしていたら一向に積み上がっていかないので、すぐに改め一つ知り一つを行動し、行動したものから一つを学び、そして真似から繰り返すことで自分なりにあり方とやり方を習得して個性が発揮されるのである。

子どもたちからも自然からも教わり、本来の学ぶ意味を感じ取っていきたい。

瑞々しい心

人は時折立ち止まり、自分が何のために生まれてきたのかを考える機会を持つことは大切なことだと思う。

目先の問題に追われ、日々を忙しく同じようなペースで過ごしていると自分にとっての生き甲斐や遣り甲斐などを感じることもなくただ繰り返しに流されたように過ごしてしまうようなことにもなる。

幼い時から学校で毎日勉強に明け暮れたように朝早くから学校に行き、帰宅して宿題をし、塾などに通っていたら自分の時間をゆっくり持つことのぜいたくさやそこから発生する無限の興味・関心という偉大な好奇心を呼び起こすこともできにくくなっていく。

一生懸命働くことは大切なことだけれど、その中にゆとりや余裕がなくなるというのはせっかく生まれてきた歓びや生きる意味を感じるために過ごしているのに大変もったいないことだと思えてしまう。

ここでのゆとりと余裕とは心で瑞々しく味わう時間を持つということである。

一生というのは誰にも一定の寿命が決まっていると定義した場合、早いか長いかなどではなく如何に日々を大切に遣い切ったかということにならないだろうか。

もしもそうなら私たちは毎日をどのように過ごすのだろうか。

他人に温かいまなざしや言葉をかけたり、誰かの優しさに心から感謝したり、何もない当たり前の日々に幸せを感じたり、ないものよりもあるものがたくさん増えているようで嬉しい気持ちになったりと、人は正しく生死を理解し今に生き甲斐や遣り甲斐を感じるときこそ人生というものの真の醍醐味を味わっているのであろうとも思う。

如何に今を味わえるかというのは、あまり先を不安がらず、後のことを後悔しないような生き方をしなければそれもできるはずはない。

日々、朝起きて、今日も一体どんな素晴らしいご縁があるのだろうか、または朝起きて深呼吸し、自然はなんて美しいのだろうというような、朝日を浴びて生きていることの躍動に感激したりと、そのような瑞々しい子ども心があってこそ真に楽しい毎日を過ごせるのであろうとも思う。

社会が狭苦しい規格内に固定され、他と比較され競争で優劣を評価され、常識という名の一方的な勘違いの中でこうあるべきという偏見と固定概念に縛られて責任などという言葉を押し付けられ、全体が受け身にならざるを得ないような環境の中で人々はマンネリ化しやすい状況もある。

だからこそ、子ども心を大切にしてそのように毎日を瑞々しく生きていくような活発で好奇心と不思議に満ちた心を優先して生きていくことが生き甲斐になるのであろうとも思う。

また遣り甲斐とは使命であるのだから、自分の役目があることを自覚し、その役目が本当にたくさんの方々、つまりは世界に貢献していることをイメージして理念の方へと向かっていく歓びこそが仕事の真の楽しみになっていくのだと思う。

真面目とは、本気であるということであり、融通がきかない頑固者という意味ではないことは誰でもわかる。

本気は楽しいのだから、子どものように日々を瑞々しく謳歌していきたい。

感謝

生物多様性とお役目

生物多様性というものがある。

身近でも、人間に害をなすものと害をなさないものとを決めてそれは虫たちでも菌類でも、その他、動植物、さらには人間にいたるまで都合の悪いものは排除するのは当たり前というような何でも便利でやろうという気風もある。

もともと生物は色々な性質を持って生きている、全体が調和するようにそれぞれに自分のお役目があり、そのお役目通りを果たそうとし自然にあわせて自分を変化させ今も生き続け努力をさせていただいている。

生きものには誰にも使命というものがあり生まれてくる、どんな生き物にも全体のための役割が存在している。それは身近な環境を通して行い、偉大な環境にまで影響を与えながら私たちは自分に与えられた道を真摯に歩むことを与えられ全体に融和しながら存在している。

人間は、人間至上主義の観方から全体がわからなくなる刷り込みや自分たちの勘違いからそういう使命を自分都合で配備してきたから最近はそういう自分の役目が何かということすら考えず、自分にとって単に目先のメリットがあるかないかでのみ選択をし生きている人も増えてきている。

このメリットも、目先しかみないからおかしなことになっていて全体に対して自分がどう使命を果たせばメリットがあるかなどということはあまり考えないからさらに狭い世界で不調和が生まれ常に裏目に出てしまうのであろうとも思う。

自分の物事の観方を変えようとはせず、いつも相手にばかり変わってほしいと願っていても狭い世界での融通でやろうとしてもそこに調和はないのである。

もしも一見、悪いと思っていたとしてもそれが全体にどのような影響を与えるのか、一見、善いと思っていたとしてもそれがまた全体にどのような影響を与えるのか、理念を観つめつつ、自らの道を祈るように歩み、更に善いことにしてみせると根気よく諦めない実践を行うことで最終的には大調和になっていくものである。

これは心が感謝で満たされていないとすぐに陥りがちな境地だけれど、つい相手をどうしようもないものや自分に悪い物だと思ってしまう自分都合の発想はさらなる拒絶と排除を広げていき最終的には自分がそのことでさらに苦しくなっていくものである。

自分から見た相手への一方的な決めつけによる役目の拒絶と隔絶をすればするほどに、この生物多様性は失われていく。

そしてより暮らしにくく住み難い世の中にしてしまう。

いつも私たち生命はどんな環境が過酷でも皆で手を取り合って役割を通じ合い皆で助け合ってきたから多様な生命は育まれてきたのである。

実は居心地の善い自分が安心できる環境とは、多様な生命や多様な個性が全て存在している自然のあるがままの姿に身を委ねているときである。

その人やその生き物が、そうしたいと思うものをそのままに残してあげることである。その時、全体に対してのお役目を果たしているという命の輝き生きる歓びをお役目によって実感できるのである。

多様性は人間が守ればいいというものではない、もっと自然にあるがままであることを思いやりみんなで助け合っていこうとそのままにさせてあげる優しさを皆が持つことである。

きっと相手にも何かのお役目があるのだろうと、思いやりを持てる自分でいることその実践こそが生物多様性であると私は思う。子どもたちにもそれぞれに使命がある、大人が育てやすいように教育したり一方的に改良したりするのはその子らしさを失わせてしまうもの。

あるがままを見守り、あるがままの先にお役目を立派に果たせるような命になってほしいと願います。

気楽で生きる

年齢を重ねていくというのに、善い歳の取り方というものとそうではないものがある。

師からも誕生日の度に今がどれだけ最高かと今に善い歳を取るように更新しているかというのが大切なことだと教わったけれど、これは言い換えれば今がどれだけ充実しているかというものでもある。

つい長生きしていけばいくほど、人間は余計に様々な知識を持つようになる。

特に自分の子どもの頃から今を思うと、周囲の話を聞くと何やら大変で鬱々しいことばかりを知識として増やしてきたものだと感じることがある。世界のあらゆる問題ばかりを悩んだり、まだ起きてもいないことに不安を感じているのもつい目先の事象にさらわれるほど芯を捉えていないからでもある。

特に年齢の節目、例えば青年期や壮年期など、ふとこれからの進路や指針を考えて悩み迷ってしまうのもその時機であるのだろうとも思う。しかしそこまでの知識が溜まってきているとどう生きればいいかや、どんな風にこれから年を重ねるかなども予想がつくのでさらに考えてしまうのであろうとも思う。

自分の人生の巻物は自分でかくしかないのに、他人の人生を生きようとするのは芯からブレてよそ見をしているからでもある。

もし、芯から逸れて今から起きそうなことを心配して不安になり、消極的に日々を送っていたらこの今は充実することはない。今が充実するというのは、日々に人生のあり方を大切にし、流されず精一杯元気に生きていることでありそれは脚下の出来事に丹誠を籠めて丁寧に取り組み実践を行っているということでもある。

それは言い換えれば、どのような人生にできるかできないかということではなく、どのような人生でありたいかどうかということになる。

ある方から、この世は自分のあり方次第でいくらでも棲む世界は変えることができると生死外の世界の存在を教わったことがある、これは仏教で言うところの、十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)のどの界に生きるかということを決めるかということでもある。

もしも自分が餓鬼界にいたとしたら、常に足るを知らずもっともっとと自分のことばかりを気にし欲に心を奪われ、得てもまだ足りないと新たに欲しがり奪いまたそのことで奪われるという餓鬼界が目の前には広がっていく。芯から外れてそのことに無意識に本能や本性がもっていかれたらいつまでも自分が餓鬼道にいることにすら気づかない人もたくさんいる。

しかしもしも自分が菩薩界に生きたいと決めれば、餓鬼界で菩薩道を歩むが如く自分を相手だと思いやり同時に自分のことは相手のことだと苦しみを共感して実践し乗り越え感化していく中で自分の棲む世界をも遂には変えることもできる。

つまり、自分がどうありたいかというのを決めるというのは心が決める事であり周囲の事象がどうであれそれは一切関係ないということを意味している。

もしも人生があっという間に過ぎ去ってしまうと仮定したら、過ごす時間を何よりも味わなければもったいないし、当然、日々を真に楽しまなければ人生が豊かにはならないのである。それは別に快楽主義で刹那主義のことではなく、すべてを意味のあるものとして受け容れて天命に任せて今を生き切ることでありそれこそが気楽でいるということでもある。

気楽に生きるとは、自分の人生を「丸ごとありがとう」にすることでもあろうとも思う。

人生が丸ごとありがとうになれば自然の一部である自分に気づき、周囲の世界が如何にキラキラと美しく輝きに満ちているかを思い、存在しているだけで幸せな気持ちになって生きられるからだと思う。

歳を重ねるのに大切なのは、如何に生きるか、どうあり在りたいか、そういう実践を通して一度しかない自分らしい人生を随所に楽しみながら気楽に生きる事である。

鞍馬でまた教えていただきました、本当に有難うございます。

この命が満ちている輝きに満ちた素晴らしい世界でいつまでも元気よく楽しく生きていきたい。

循環の玄種

東洋思想と西洋思想というものがある。

万物は自然からと自然の一部として人間を捉えている思想と、万物は人間からという自然も人間の一部として自然を捉えている思想がある。

同じ言葉を使っても、その思想の差による言葉の定義は完全に真逆に異なっている。

しかし本人たちは、まったくの真逆であるから会話をしているのにその違いに気づくことができないでいる。人間はちょっとのズレは気づくのだけど真裏や真逆というような完全に逆であることには気づかないものである。

例えば、「自然を大切に」という言葉。

これも人間が自然を大切にするのか、自然が自然を大切にするのかではその主語が違ければ意味が真逆になっている。

人間が自然を大切にするのは、人間の目線で自然を自分都合に切り分けてさも大事にしたと勘違いしその大切にしたのは実際は人間自身、つまり自分のことである。

もしも自然が自然を大切にするとなれば、自然の目線で自然を大切にするのだから全体に調和するのは自分自身であり大切にしたのは自分が自然の一部であることを自覚し行動することである。

これは「子どもを大切に」という言葉でもまったく同じである。

如何に子どもを大切にするといっても、主語が自分か、もしくは子どもかでは同じ大切にするのでも意味は真逆であることに気づくことである。

もしも自分が主語であれば、自分が大切にしたと自己満足であるだけで余計なことをしただけで子ども本来の自然な発達を阻害している場合もある。もしも子どもが主語であれば、子どもが大切にしたいと思っていることに寄り添い見守るのだから自然に発達に応じて従い助長するための環境の一部に自分がなるはずである。

子どもからか自分からかその発想の観点が果たしてどちらが主体かで、意味が違っているのである。 文明からの観方であるのだからその錯覚に気づき、両面から捉えていくことが本質が観えているということでもある。

つまりは、人間は自分が一体どの観方、着眼点でモノゴトを捉えているかで世界は一変するのであろうと私は思う。

そもそも私たちを創りだしたのは私たちなのか、そんなはずはなく、私たちがあるのは周囲の大調和の御蔭で成り立っているわけであり人間が自ら作り出したものではない。自然の一部として私たちは始まっている以上、当然私たちはいつまでも自然の一部でしかない。

だとすれば、今の人間社会のあり方として人間主義の観方は完全に顚倒している話である。言葉のマジックにひっかかり、同じ言葉であることが真逆の意味になっていることに気づくことである、本末顚倒とはそういうことである。

人間主義とは、自分たちが主語になり自分たちが全体だと勘違いしている考え方であり西洋のそういった言語化可視文明だけに偏るのは如何なものか、本来私たちは和合主義や調和主義でいることが命のあり方そのもの無為自然であると私は思う。

そして永劫にこれはすべての生命、すべての動植物がこの宇宙で成り立つための根本原理であろうとも私は思う。

だからこそ、今こそ私たちは最初からの勘違いを取り除く工夫が必要である。

それは、東西南北文明とでも名づけてもいいかもしれないけれど四方八方すべてが自然であることから取り組み直すことであろうとも思う。

原理原則の時機に添って、バランスを取るための巻き返しの準備をしておきたい。私たちは日本人であり、日本人として世界へ貢献させてもらえる使命があるはずである。

循環の玄種からはじめていこうと思う。

気づきに深い感謝いたします。

余計なことをしない

今のように情報過多によるスピーディな時代では人は色々と起きるすぐ目の前の出来事に右往左往しているうちにあっという間に流されて心の余裕をなくしていくものである。

根本的なところは心が掴む直観的な大極であるからして、心のゆとりがなくなればいつまでも目先の解決という対処療法を繰り返してしまい、その中で不安を感じて先回りしてその部分の問題を早く解決したことによって、さらなる新たな問題を増やしていくというものがある。

そもそも問題とは解決するものではない、問題とはそこから気づき学び成長していくものであるのだから単なる課題やテーマということになる。

人生は多種多様なのだから学校で教わったような模範回答もなく、理想的な正解などもない、ただその人らしくあればいいということでろうとも思う。

だからこそ本当に自分の人生をテーマを持って生きているのならば、余計なことをせず向こうから日々訪れる出来事を思いやりを持って丹誠籠めて適切に取り組んでいくことが本物の自分の道である。

無為自然に生きるとは何もしないことではなく、余計なことをせず思いやりを持って自然に溶け込んで生きていくようなものを言うと私は思う。

余計なことをしないというのは、周囲のすべての出来事を感性から受け取りそれをテーマに紐付け、点を繋いで線にし、面にしていくようにと反物を創造するように少しずつ丁寧に編み込んでいくような感じを言う。

なぜなら誰でも知っていると思う当たり前のことだけれど、私たちは生きているのは自分だけの力で生きれるのではない。知らず知らずのうちに、周囲の御力をお借りして周囲に支えられて周囲の御蔭で何かをすることができている。

そういう周囲のことを自然としたら、その自然に溶け込むとは何か。

それはありとあらゆる身の回りのものを大切にし、風や光、土や水、火など様々なものが交わし合い循環し合う縁の中で形を彩りその調和の中の一部に自分がいることを直観的に気づき周囲に優しい生き方をしていることである。

今の時代は心で感じたりして自ら気づいたりするようなことを大切にするよりも先に知識を詰め込み偏った社会環境に刷り込まれ「余計なことばかり」をして苦しんでいる人たちがとても多いように思える。

心が満たされなければ、物で満たそうとする、それが物質文明であり、物がなくても、心が満たされているということこそ無為自然の足るを知り足るに止まる豊かな文明の境地なのであろうとも思う。

心は感じ方次第でいくらでも円満になることができるもの。

ようく耳を澄まし、ようく眼を澄まし、ようく心を清め、鏡の世界のようにあるがままにうつれば何とこの世のは満ち足りてイキイキとキラキラと光ってみえるか観てとれるはずである。

常にこの世には眼にはみえないけれどいつも周囲に自分を見守る何かがあることを実感し、すべてのものに優しく思いやりを持って接する自分で謙虚に生きていきたい。

全部円満に改善

すべての物事を善悪なく包む込むように結ぶ思想に、日本の神道の和の心というものがある。

天津神と国津神というものがあり、どちらの神が優劣があるのではなくそもそも和と力をどう調合するかということが大切だと説き、如何に自然の中で永続的に発展繁栄をしていけるのかということを神々は意識したことであろうとも思う。

この国には、善も必要、悪も必要という風に、善悪を決めずに物事を大局的に捉える道の思想が根付いている。

根本原理として、万物の始祖から宇宙の理のようなものを理解し、それを実践することを徳とし和合が神の御心としその道を歩むことで悠久の流れに身を置くことを重んじている民族が大和の民であるようにも思える。

今の時勢を省みると、政治に始まり身近な周囲の競争隔絶社会にはその和合の心がどれほど実践されているのかと見ると物質的な力ばかりに囚われ不自由と孤独の中で結びや絆といった繫がりが途絶えてきているように感じる。

誰が悪いだの、誰かのせいだや、正義や悪だと騒ぎ立て、結局、太古の昔から日本人が守ってきた和の心も道も見失ってしまっているようにも感じる。

何かが悪いと決めつけたらその時点で、和にはならない。悪きところの善いところ、善きところの善きところ、その善悪の更に包み込む最善というものをどれくらい真剣に皆で取り組めるか、そこに私たちの道があるようにも思う。

身近なところでみても、問題と言われる部分をいくら解決しようとしてもそれは問題なのではなく大きな気づきへのキッカケでしかなく、そのキッカケを活かし道をまた実践することが本来のあるべき大和魂なのではないかと私は思う。

政治でも仕事でも何でも、周囲の目先の問題ばかりを解決しようとしたとしても本筋の国家の理念やビジョンに衆智が集まらなければ皆がまとまっていくはずはない。

誰か共通の敵を作り、一つにまとめようとしたって次の敵を生んでいかなければいつまでも仲良くならないのは今の世界の姿を見れば一目瞭然である。

これからの世界を譲られ創る子ども達の大人の見本として如何に今の社会の姿から和へのキッカケを与えられるかが鍵なのである。

これは、原点回帰し今点融和し、力で全て解決しようとするのではなく、和の理念の本、創始原点の天津神の真心、大和魂を呼び起こし世界へ我々からかんながらの道を示すことであろうとも思う。

この地上で国津神と呼ばれる子どもたちは、これからもずっとたくさん生まれてくる。

天皇制がどうかということではなく、その天皇が示す和の心を私たちは国造りの意義としてルールとしての道徳を自らが守る事で平和を体現することが使命でもあると今を辿れば誰の心にも自然に降りてくるもの。

良いか悪いかではなく、丸ごと善いことにしようと思いやりや譲り合い、助け合い、支え合いという社会になるように身近な環境から改善していこうと思う。

価値を感じることができるかは、結びの真心の復興からである。これは別に理屈ではないし教えではない、ただの当たり前の道の実践、道の心でのみで十分である。

この震災がキッカケになったと言われるような全ても部分も、円ごと満たされるような改善をしてみせることを誓い取り組みたい。

思いやり>正義

世界では正義を振りかざし、こうあるべき論を展開し様々な悲惨な出来事が起きている。

もともと正義というのは、思いやりを実践するための手段であり正義が思いやりよりも優先されるということはない。仁義はあくまで、仁の後の義であろうとも思う。

それが今では、宗教者が戦争をして人を殺めることを正義の名のもとに行ったり、子どもを育てる人たちが正しい教育だのなんだののために思いやりに欠ける行為で深く心を傷つけていたりもする。

まず正しいかどうかを考えるよりも先に、相手を思いやることができたかということが本来の筋道であろうとも思う。

人は、いつも何かに恐れて正しいかどうかに依存する。今の世界で生きていけば、気にしていたらきりがないのが確かに思いやりであろうとも思う。自分では善かれと思ってやっていることが実はどこかに歪を発生させたりすることもある。それを怖がり、無難にやろうとしてまた正しいかどうか、正解かどうかにこだわり思いやりを忘れてしまうようなこともある。

それは本末転倒であることに気づくことが大切なのであろうと思う。

宗教で言えば、一番弱い立場の人たちのことを思いやり許し慈愛で包んだりする実践を行うことが思いやりであり経典が正しいかどうかが思いやりを決めるものではない。

育児であれば、子どものことに共感し受容し尊重し思いやることで育っていくことを見守る実践を行うことが思いやりであり育児書や教育方法が正しいかどうかが思いやりを決めるものでもない。

このように当たり前のこととはまず正しい云々を振りかざす前に、どれだけ相手のことを深く思いやることができているのか、そこから取り組めているかということが正しくありたいという心の姿勢、そしてそこに行動が伴い正義というものになっていくもの。

自分のエゴを優先して正しいと人が人に何かを押し付け従わせるとき、それは自分に都合の良い正義でありそれは必ず争い戦う相手を生み出してしまうものだ。

どんな理由にあったにせよ、その瞬間瞬間に相手を思いやりの心からはじまるということが大切なのであろうと本当に思う。

きっと相手に何か困っている理由があるのであろうという心の余裕も、そこから譲っていこうと決める行動も、まず正しいかよりも先に思いやりであることを忘れないようにしようと思う。

人を育てる仕事とは、自分の思いこんだ身勝手な正義も押し付けもしてはいけない行為である。相手を尊重し寄り添い見守るように間違いを正していきたい。

風と流儀

一流風に見せる事と一流であることは似てはいるけれど同じではない。

あるレストランで、一流風にいくらコース料理や店舗を見ても実際に食べてみるとそれが現実的に本物かどうかというのは分かる人が食べればよく分かるように一流かどうかというのはすぐに見破られてしまうもの。

ここでの分かる人というのは同じようなことを本当に苦労して努力し身に着け本気で取り組むことで実力と見識を兼ね備えた人物のことをいう。

贋者というのは自分の力でやったのではなくどこかの誰かに便利に即席栽培のように本人以外の誰かによって”してもらった”となるとそれは本人の実力ではなく誰かの威力などによって一流風でしかないことがある。

最初から自分から地道に健気に真っ直ぐに道なりに添って丁寧に学び、真剣に取り組み、学んでいたら実力は具わっていくもの。

しかしつい楽をして、一足飛びに見た目をそのようにしようとすると読むべき本も読まず、経験すべき経験もせず、実地すべき実践も積まず、乗り越えるべき困難も乗り越えずとなればやっぱり次第に二流のやり方により二流の実力が身体に沁みついてしまうものだと思う。

そういう見た目風を先に学べば、本筋の流がわからなくなってしまうもの。

もしもそれに気づいて自分のあり方を見直しやり方を学び直し、本気で一から取り組めばもう一度一流への入り口が開いていくのだろうとも思う。

しかしそれがわかっていてもいつまでも一向に生き方や在り方を変えない人もいる、自信がないのか今さらプライドが邪魔をするのか素直に「教えてください」という姿勢と態度がいつまでも取れず本物の人物に習うこともできないでいる人がとても多い。

自分で積極的に体験したり学んだりする機会を得るのだと決意して遣り切れるかどうかということにもよる。黙って消極的にじっとしていても、何も変わらないということなのである。

自力で自立するというのは、文字通り「自分の力で学んで自分で立つ」ことであり誰かによって立ててもらうのではない。その自分の姿勢、自分で立つのだと強い意志で決意を固めることであり、今、この自分がどちら側でいたいか、一流風か一流を目指すのかですべての勝敗が決してしまうものであるのだと思う。

そのまま一流風でも普通通り遜色なく作業は一応はできるもの、しかし仕事の流儀から外れていることを自覚しもしもそれが一流ではないと気づいたらどうするのか、即行動するかいつまでも悩み続けるだけで流されるか、そこにその人の真価が問われるのであろうとも思う。

理念というものを掲げ、本気で取り組み本質であるには当然一流としての流儀というものが要る。

その流儀は、本気で学ぼうとする人でなければ伝授されることもないし切磋琢磨しさらなる一流へと磨きをかけていく同志にもなることもない。

自分の実力でなければ当然自信もつかないし、自分の本当の力でなければ見せかけの贋者だと気づかれるのを恐れて腰を入れて奥へと入っていく勇気も持てる事もない。まさに悪循環になってしまうだけである。打破するにはどこまでいっても一流の根本原理は、本気かどうかということであると私は思う。

その仕事の流儀を学ぶのに、この辺でやここまでやったのだからという二流の一流風の仕事の仕方をすぐに改めることが大切なのであろうとも思う。

本気であるとは、最初の心の姿勢、気持ちが決まっているということである。何が何でも自分の力でやり遂げるという意志のことでもあろうと思う。

発達過程の中で、そういう時期もあるのだろうけれど大切なのは流儀をたくさん学び仕組みを覚え何度も何度も挑戦することであろうとも思う。まだまだコンサルティングの道のあり方もやり方も質を見極めていこうと思う。