感謝に帰る

過去に何らかのことで傷ついたりすることで心的トラウマを持つことがある。

一番苦しい時や、もっとも余裕がない時、心が折れそうな時に、まさかといった出来事や、信じられないような言葉に遭遇したりすることで受け容れ難い記憶としてその人に残るのであろうとも思う。

実際は、そういう事件に遭遇する際にはどちらにも余裕がないことがあったり何かしら悪意があったわけではなくそんなつもりで言ったのではないのだけれど相手にとってはそんな余裕もなかったということだったりもする。

心のゆとりや余裕を失わないというのは、変に自他に傷をつけないや傷を負わないようにするためにも大切な自己管理であろうとも思う。競争や分断で忙しくさせる社会の中では特に気を付けていかないといけない大切な配慮事項でもある。

そうやって日々の生活の中で相手のことを思いやり、周囲のことに感謝できている配慮をいつも忘れない自分でいるかどうかというのは習慣の中でチームで協力をしたり御礼をしたりマナーを守ることで維持していくのが処世術でもあり今は最適であろうとも思う。

どんなに自分を慰めるためにその瞬間は自分を感謝だとか言い聞かせても、日々の実践で行動が感謝を顕している姿に自らが変わっていなければあくまでそれは単にその場しのぎで言い聞かせているだけの行為にしかならないこともある。

そういう時は、一度その相手に向いている矢印を自分にすべて向けて本当に自分はまず相手を責める前に自らの心が誠意がある対応であるか、真心で話をしているかなどを自らの行動を客観的に鏡に照らして反省することが感情から抜け出す方法でもあろうとも思う。

そうやって冷静になったあと、事象に振り回されないようにするために感謝が足りないと内省し、さらなる感謝に置き換えてすぐに言葉や行動にしていくことが大事であると私は思う。

よく考えてみればすぐに分かる事だけれど、その人がいなければ自分は存在することができない。会社でもそうだけれど、会社がなければ自分は存在できない、上司や仲間がいなければ自分は存在しない、お客様がいなければ自分は何もできないと思えば如何に感謝を忘れている自分がいるのかがすぐに分かる。

もちろん様々なエゴから自分の悩みも苦しみもあるのだけれど、それ以上にその人の存在やその人が心が素晴らしいと心底感謝していくことが大切なことなのでもあろうとも思う。

自分に気づきを与えてくれる存在、自分の至らなさを気づかせてくれる存在、自分に感謝というものを教えて下さる存在、自分に当たり前であることなどないと悟らせてくれる存在、そういう相手がいなければひょっとすると出会うことすらなかったかもしれない学びを与えてくださるのである。

その方々に「本当に有難うございます」と心から感謝することである。
当たり前に思わないためにも、すぐに行動から感謝に換えていくことである。

すると、何かお返しできるものはないかと思うほどに自分を変えていこうという勇気が湧いてくるのだと私は思う。

自分に都合悪いことを排除しようとするのは心の弱さである。心を鍛錬し、魂を育て、人間としての徳性や叡智を学び自立して貢献していこうとするのが人の道でもある。

自分を修養していくというのは、心をいつも素直に感謝へ向けることである。

この感謝の心を大切にして、当たり前などないことを心に刻み、真のゆとりや余裕を持ち互いの成長を見守るを実践を日々に感謝とともに歩んでいく。

いつも本当に有難うございます。