瑞々しい心

人は時折立ち止まり、自分が何のために生まれてきたのかを考える機会を持つことは大切なことだと思う。

目先の問題に追われ、日々を忙しく同じようなペースで過ごしていると自分にとっての生き甲斐や遣り甲斐などを感じることもなくただ繰り返しに流されたように過ごしてしまうようなことにもなる。

幼い時から学校で毎日勉強に明け暮れたように朝早くから学校に行き、帰宅して宿題をし、塾などに通っていたら自分の時間をゆっくり持つことのぜいたくさやそこから発生する無限の興味・関心という偉大な好奇心を呼び起こすこともできにくくなっていく。

一生懸命働くことは大切なことだけれど、その中にゆとりや余裕がなくなるというのはせっかく生まれてきた歓びや生きる意味を感じるために過ごしているのに大変もったいないことだと思えてしまう。

ここでのゆとりと余裕とは心で瑞々しく味わう時間を持つということである。

一生というのは誰にも一定の寿命が決まっていると定義した場合、早いか長いかなどではなく如何に日々を大切に遣い切ったかということにならないだろうか。

もしもそうなら私たちは毎日をどのように過ごすのだろうか。

他人に温かいまなざしや言葉をかけたり、誰かの優しさに心から感謝したり、何もない当たり前の日々に幸せを感じたり、ないものよりもあるものがたくさん増えているようで嬉しい気持ちになったりと、人は正しく生死を理解し今に生き甲斐や遣り甲斐を感じるときこそ人生というものの真の醍醐味を味わっているのであろうとも思う。

如何に今を味わえるかというのは、あまり先を不安がらず、後のことを後悔しないような生き方をしなければそれもできるはずはない。

日々、朝起きて、今日も一体どんな素晴らしいご縁があるのだろうか、または朝起きて深呼吸し、自然はなんて美しいのだろうというような、朝日を浴びて生きていることの躍動に感激したりと、そのような瑞々しい子ども心があってこそ真に楽しい毎日を過ごせるのであろうとも思う。

社会が狭苦しい規格内に固定され、他と比較され競争で優劣を評価され、常識という名の一方的な勘違いの中でこうあるべきという偏見と固定概念に縛られて責任などという言葉を押し付けられ、全体が受け身にならざるを得ないような環境の中で人々はマンネリ化しやすい状況もある。

だからこそ、子ども心を大切にしてそのように毎日を瑞々しく生きていくような活発で好奇心と不思議に満ちた心を優先して生きていくことが生き甲斐になるのであろうとも思う。

また遣り甲斐とは使命であるのだから、自分の役目があることを自覚し、その役目が本当にたくさんの方々、つまりは世界に貢献していることをイメージして理念の方へと向かっていく歓びこそが仕事の真の楽しみになっていくのだと思う。

真面目とは、本気であるということであり、融通がきかない頑固者という意味ではないことは誰でもわかる。

本気は楽しいのだから、子どものように日々を瑞々しく謳歌していきたい。

感謝