本来の自然

自然というとどこまでが自然でどこから不自然かという境目がある。

世間では、自然という言葉が使われていてもその定義が異なり明らかに不自然なことを言っているなという宣伝や広告などからより人々は自然が分からなくなってきているのではないかと思う。

人工的に創られた自然を自然とされたり、もとはそんな形ではなかったものも自然っぽく見せる技術が蔓延している。エコという言葉も、環境という言葉も、人間が都合よく表現したものはすべて自然ではない。

私の思う自然とは、何も人の手でいじってはいないものと定義している。

人工養殖、人工栽培や、人工教育なんでもそうだけれど人が手を施して何かの意図で生成しているものは自然ではない。最近では、植物は種の段階で遺伝子をいじったり、食べ物は今までになかった添加物が最初から入っていたり、そもそも不自然に飼育生成されたおかしく合成されたもので溢れている。

最初をいじられれば、それが自然と勘違いするのが人間である。

例えば、今、見えている景色に存在するはじめからを改変していまっていたとする、土はすべてアスファルトで虫たちの動きも感じれず、夜空はネオンの光でほとんど見えず、街路樹の統一された樹木が緑だと癒され、騒音の金属音が普段の音となっているとする。

その中で如何に自然を語ったとしても、最初から存在しているものはほとんど感じることはできないのだから自然なはずがない。人間はその中で、これはエコだや、これは省エネだやと、おかしなことばかりを言い、仮初の自然を定義し、人をさらに物質的な世界へと誘っていくのであろうとも思う。

本来の自然とは、もともとあったものであり、植物では最初からある姿、種から育ち種に戻る循環であり、昆虫でも周囲とバランスをとり生き合う姿であり、もっと分かりやすく言えば、私たち日本人の主食は玄米であり、日々は太陽と星空を観つづけて感謝で生きるものでありと、最初の姿から考えていくことが自然なのであると定義する。

人間が一方的に語る自然とは、一部に切り取られている支配できる存在としてしか見えておらず、本当は直感的に感じ取る自然の姿、それは循環しているものや命の流れ、永遠の流転であったりに自らをあわせていくときこそ観えるものであると思う。

だからこそ、人間は自然に対してどこまで自分をあわせてどこから人間として関わるかという境目を自然を邪魔しないようにと自分を調整調和させていかなければ自然とは関われないのである。

そうではないものはすべて不自然なのであると私は思う。

子ども達には、自然の中でどれだけ自分側が関われば自然の一部としての自然に近づけるのか、その渾然一体としたものの中で本来の自分ん姿を取り戻せるような機会を作ってあげたいと思う。

それは別に動植物でなくても、子どもたちが子ども本来のあるがままの姿でいられるようにも同じである。今の見守る保育をさらに、具体的な姿にして拡げて刷り込みを少しでもとっていきたいと思う。