道中信念

天与の道というものがある。

人生を歩む時、その自分の道のことを自分一番信じているかどうかというのはとても大切なことであろうとも思う。

日々は様々な現象に満ちている、その一つ一つを取り組む最中、自分が一体いつもどこを観て取り組んでいるかというのはとても大切なことであろうとも思う。

自分が明確な一点だけを見つめて身近なことに真摯に丁寧に取り組むのと、なんとなく遠くだけをぼんやりと見て目先のことにあくせくするのとではまったく同じではない。

自分の道を見定めているかどうかというのは、信念が左右する。

例えば、「憧れ」というものがある。

自分がどう生きたいか、どうありたいかという部分から誰かの生き方に触れてそうありたいと思うのは、自分自身が自分の道をどう往くのかという心の願いのようなもの。それは別に道から外れたのではなく、自分もそう歩こうと思っているだけである。

しかし、この憧れも他人を見て他人の人生が羨ましく感じ、自分もそうなりたいと見た目や評価をそうされたいと思うのはただ焦って自分の道を歩むことを見失っているだけでこの憧れは単なる欲望である。それは単に自分の道ではない誰かのもの、その横道にそれただけである。

一緒に歩くというのは、誰かの道に依存することではなく自分の道をしっかりと自分が歩むことこそ一緒に歩んでいることである。

そこには常に、自らの道は天から与えられた自分だけの道だと信じているかどうかというのは実践に試されるのである。

私で言えば、自分にしかない道を信じていれば自ずから身近にあるものはすべて探していた答えになる。その身近な点を線にし面にすれば、本来の自分の歩んでいる道を実感し、より強い信念で歩めることに感謝しつつ日々を充実したものにしていくことができている。

しかし、つい誰かの道を見てしまいそっちの道が良いのではないかなどということに迷いが出ればすぐに自分自身に中にある答えや身近な声が聞こえなくなり、何処か外側の遠いところにさも答えがあるように感じてしまい惑い彷徨うことがある。

これは迷信であり、他人は他人、自分は自分なのだから他人はあくまでも答えはもっていず、すべての答えは自分自身の道の中にこそ見出すものだということを意味している。

道は、様々なものがあり、曲がりくねったものもあれば、やや広い直線が続くものもある、細長く脆いものもあれば、太く勾配があるものもある、その道中において如何に自分らしく歩みその旅路を味わい尽くしながら天から与えられた道で真摯に生きていくのか。

それが自らの人生の問いそのものになっていくのであろうとも思う。

どんなに時代の変化があったにせよ、周囲の現象に反応したくなったにせよ、自らは一点だけに夢中になるほどに観続けて渾然一体となり、自分にしかないこの道を、天から与えてもらったこの道を、真剣に歩ませていただくことであると私は思う。

しかし、若さというのは自分のことが分からず、過信があるゆえにどうしても焦ってしまうもの。焦りは禁物である、それは自分が迷子にならないためにである。

私自身、まだまだ道場での学びが足りず自らに過信や慢心があるようである。そしてこれもまた誰しも通る道中の一つ。

さらなる内省を積み重ね、道中の邂逅を味わい、信念を磨き、旅路を味わい、心から道を楽しみたいと思う。

子どもたちの自分にしかない道をこれからも傍で見守っていきたいと思います。