正直と生長の本質

人は成長していくとき、はじめて自分の間違いや勘違いに気づくということがある。

間違いや勘違いに気づくというのは、最初の出発点に戻ることを言いよくそれは原点に帰るという言い方をする。

なぜ原点に帰る必要があるのか、それは自分の判断でちょっと間違いを正したりや自分都合で何かを修正しようとすることではそのどこかに我執や私欲が入り混じり自分に偏った固定概念や先入観の中で何かをやろうとしても結局最期まで本質の理解に辿り着くことはないからである。

何でも中途半端にやろうとすれば、いつまでも変わらず同じことを繰り返しているだけになってしまい現実や身の回りの真実が映らず自分の世界に閉じこもることになる。

素直な人や正直な人は、自分の固定概念のメガネを曇らせないため常にありのままを受け容れることができ常に原点や最初からやり直し、見直し、学び直したりすることができるため、自分の本当の今の現実の姿や能力を正しく認識しそこから何度でも成長し直すことができる。

しかし、逆に屈折したり過信している人はいつまでも現実を正しく受け容れようとはせず、どこか自分の歪んだ固定概念によって自分を見ているのだから当然周囲の助言もアドバイスも自分都合の解釈なのだから、間違いや勘違いから抜け出せず素直な力が発揮されず成長のスイッチが入らずに成長している風に満足してしまい停滞しおかしなことになっていたりもする。

正しく成長するというのは、まず何よりも今のありのままの姿を澄んだ鏡に映しだすようにありのままに受け容れることからである。

今までがどうだったかや、自分はこうだということに固執するよりも、これからどうあるべきかこれからどうなるのかという新しい目標や目的のために自らを新しくしていくことが成長するということ。

新しくしていくには、やったことがないことを挑戦したり、新しい環境に身を置くのだから誰でもどんな人でも最初の出発点、つまりは原点からやり直していくことこそがもう一度新しく成長していくということであろうとも思う。

それは今まで変に積んできた変なものが邪魔をして、そのジレンマから正しく伸びることができなくなっているからこそ、大変な方を選んで最初からやり直すことでまた成長を永続して変化そのものの中に溶け込むようなもの。

自然界で例えれば、四季の中で様々な動植物が移り変わる大自然の中で生き抜いていくように、春が来て芽生え夏に活動し、秋に実り、冬に準備するという四季に溶け込むように環境の移り変わりにあわせて正直に生きていくことを言う。

万物は移り変わっていくものであるからして、そのままでいることは自分が変化をしないと決めてしまったことである。そういう生き物は、どこか自然に合わず無理がきて滅んでしまうもの。

そうではなく、無常の世にあり自らを変化の中に置くために原点で居続ける正直な心で素直に学び続けて日々に新たな心で身近な環境の変化を受け容れることこそが生長の本質、命の姿であると私は思う。

自然を信じ、天に任せて、流れに委ねて、自分に従い、周囲の変化を恐れず無常を楽しみ、変不変の流転の中に成長の今を受け容れて命じるままに歩んでいきたい。