移り変わりの妙華

時代をさかのぼり、様々な歴史を鑑みてみるとその時々にその時々の解釈というものがある。

これは、宗教でも同じく根源的なものをどうその時代に捉えたかという足跡を観ることでその本質を理解できる。

そもそも時の流れは移り変わるものだから、不変と定めたものがいつまでも同じ形を止めておくことはできはしない。時が止まっているのであれば、不変というものはあったにせよ時は移るのだからその時にあわせてマトからそれないように普遍でいる必要がある。

例えば、仏陀が実践したことを弟子が編纂する、その弟子の言葉というのは深く感じていくことで真理や本質を最終的には理解していくものだと思う。

しかし時代が変わったり、その時代を顕している人が変わっているのだから常に分派し拡散していくのであろうとも思う。それはまるで、子孫が分かれていくように一つのものが分かれていくのに似ているようなものだと思う。

そもそも根源が一つであれば、人類で言えば皆兄弟になる。しかし、そう思えなくなったのは時代の移り変わりの中で根源から離れないようにと新しいものを付け足して帳尻をあわせてきたことで今のように世界が分かれてしまったのであろうとも思う。

同じく、一つの教えをそれぞれの時代の移り変わりの中であわないと気づいたものを付け足してきたことで新しい理解が増えていき仏教でもキリスト教でも様々な教えを真実だというようになったのであろうとも思う。

ただ、付け足したならどう削るのかということを考えないのはなぜだろうか。

そもそもその時代時代に解釈をする人はあっていい。なぜなら解釈の本質は、根源の捉え方が人の価値観や時代形成で変化するのだから当然、根源を同じくしようとすると温故知新である必要がある。

今の環境がどうであれ、元の根源を捉えていればそれは時代を超えたものを存在させているのであろうとも思う。

形あるものに囚われるなというのは、どんな教えの中にも必ず入るものであろうとも推測する。だからこそ、移り変わりの中にある変わらないものでいるような自然の姿にこそ私たちの存在の実相があるのであろうとも思う。

子ども達には、大人が先に真理を刷り込むよりも時代の移り変わりの中で自分なりに真理に気づき温故知新に刷新していくようにと、根源だけを教え、それ以外は自由でいるようにと伝えていきたい。

堅苦しい固定概念と先入観で本来守るべきものを形あるものにしたものに、自然の妙は観えることはない。

自然界にある妙なる華を捉えて、いつの時代も命のままのかんながらの道を咲かせていきたいと思う。