道の入口

今年のGT保育環境セミナーが昨日から開催された。全国各地から、同じ志で保育を実践する方々との学び合い。熱気に包まれて、充実した楽しさを味わえる豊かな時間を過ごすことができている。

毎年、このセミナーを開催する中で保育の道というものを考えることがある。

もともと保育や教育のメソッドのようなものは、探せば山のようにある。例えば、世界を見ただけでも数百通りの方法が存在するし、日本国内を見てもそれぞれがそれぞれに個性ある独自の教育や保育を実施している。

私はそれが優劣があるなどとは思ってもいないし、その方法がどれが最善だとも思えはしない。いろいろなものはいろいろに合っても善いと思う、それが自然であるからだ。

ただ、話をよく聴いてみれば自分の方法が一番だとそれぞれが表現し一長一短あるところに勘違いし囚われている人たちもいる。

そもそも長短はセットであるのだから、方法をいくら変えてもそれは状況に応じて変化するのだからこのやり方が一番というものは決してない。

一つの答えというものもないのだから、自分の生き方というものから答えそのものにしていかなければ何も始まらないということでもある。

つまり道とはそのはじまりの出発点としてどこから入るかといえばそれは方法からではなく子どもに対してどうありたいかということである。

道は、出発する際にどの入り口からかというのは大事なことであると思う。

その道の示す先が、どこを目指しているのか、どの目印に向かおうとするのか、それはすべてにご縁というもので導かれている。

誰に出逢い、何のために歩み、どの方向へと進むのか、その道の行末は最初の出発点で決まってしまうといっても過言ではない。

探しているものに出逢えるかどうかというのは、摩訶不思議な糸により導かれているようにも感じる。無意識でも、素直に正直に生きるものはその信じる先に入口の誠が観えるのではないか。

それはまるで山の麓にあるあのお地蔵さんのように、見守り、道行くすがらにて旅の安全を願う姿がはっきりと観え、そこでお参りする中で、自らがどう生きるかという世界、その六道輪廻の道に出逢うようでもある。

この世の中に、色々な道しるべは存在し、私たちの道の道しるべとして子どもたちの世界をどう創造するかは道の入り口にすでに決まっているものである。

私たちの入り口は、見守りという世界、子どもが安心して自然に育ち信じ合う真心の世界を広げていくようなものであると私は思う。

それも長い時間実践を続けていくことではじめて観得てくる新たな世界もある。

共生と貢献の理念の一役を担えるように、これからも精進していきたい。