人の和

軽度発達障がいの子どもたちがいることで、周囲と違うということに悩んでいる大人はたくさんいる。

特に保育園、幼稚園、小学校などでは周りの子どもができることをできないというのは落ちこぼれであると定義され、大人の力でより過酷に周りの子どもと同じようにしなければという変な責任感で満たされて容赦なくその子ども自身を追いこんでいくこともある。

おかしな話で、変わっている子どもは変わっていればいいのであって社会で生きていくための智慧などは見守りながらその子なりにできるように周囲が援助していけばいいだけであるのに、実際はすぐに必死になり、自分の感情や思いだけに執着をして、言い返せない子どもの立場を利用してその人の刷り込みでその子が平均的な人間になるまでその子に体罰などを与えて無理やりに矯正させようとする傾向もある。

大人の視線や、その周囲の眼差しがその子へ偏見を与えたら当然周囲の子どもたちもその子への視線が偏見になってしまう。

野菜で言えば、茄子にピーマンになれといったり、皆形の違うトマトを同じ形のトマトにしなければ流通できない捨てないといけないからと必死に同じ形を目指すトマトを良しとするような感じである。

醜いあひるの子ではないけれど、あひるではなく白鳥だっただけである。いまだに、あひるに執着してあひる以外は迷惑だから他所へ追いやろうとする人もいる。この国は間違った個人主義と画一された封建的な村社会というような、権力に偏ったおかしな現実が存在している。

そもそも人間社会では、昔から厳しい自然環境の中で循環に添うように集団を形成し協力をしてそれぞれに与えられている天からの個性を活かすというものがある。

その天性はその人の独自の個性ともいっていいものを如何に伸ばしてその性が周囲の貢献や発展、共生のため集団に役立たせてあげようと見守ることが本来の教育者の生き甲斐であるはずだ。

自然界にある姿のように、その場所でそれぞれのいのちが共生し輝きあっているように多様な状態でも調和している姿こそが真善美の世界に生きているいのちの様相である。

それがなぜその天性をわざわざ潰すような行為をすることで、その子だけではなくその周囲の子どもにまで刷り込み、育つ力を奪い、その子の真っ直ぐに自分らしく伸びようとする力を無理に矯正しようとするのか、人間に対する偏見が強い人ほど自分の狭い世界に浸ってしまうのだろうとも思う。

今のニュースや世間の様子を見ていても、誰かひとりを厳しく追い込み、排除すればいいというすぐに世論や集団の意識でいじめのようなことをするのは、大なり小なりこういう大人の中での社会のあり方そのものが子どもたちの集団に反映されているのであるのだと思う。

すぐに排除しようとする前に、どんなことが自然であるのかもう一度考え直すべきであると思う。

役割交代ではないけれど、自分がやられたことは他人にやってしまう、如何にやりたくないと思っても本能的にそれをやるのだからトラウマになってしまい感情に支配されて苦しんでいる人たちもたくさんいる。

感情に支配されれば、もはやそこには暴力的なまでのお互いの排除論争の中でいがみあい協力する環境を自らで失っていくのである。

孟子に、「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」がある。

どんな天変地異があったにせよ、どんなに状況が過酷であったにせよ、人の和があれば乗り越える力に変換できるのであろうとも思う。

人の和がなければ、何をやっても自然に育ち、皆で共生していく社会が環境に顕われないのであろうとも思う。

子どもたちに見せられる大人の社会、子どもたちの模範になる大人の社会を、思いやりと協力の豊かな繫がりの中にある平和な社会を実現させようと強く念じるのは今の大人たちの責任であることを忘れてはいけない。

他人事ではなく、まず自分から排除思考を捨て去り、自分から協力していけるような見守る社会を築いていくことだと私は思う。

身近な問題がすべてである、まず身近なところから見直していきたいと思う。