命の動機づけ

昨日、訪問したところでリスクを取ることについて考える機会があった。

今の学校教育は、子ども達には危険はすべて取り除き、失敗はさせないという環境が善いことだと思っている風潮もある。そんなことをしていたら子どもが大きく育つはずもない。

これは以前私が、ある偉大な方と仕事をする中で「この国は失敗者にとても厳しい、そういう人をも大きく包むような見守りがなければ挑戦することを皆がしなくなってしまう、だから自分は其処から立ち上がる姿を見せたい」という話を聴いて感動したことがある。

大人の都合で、子どものやりたいことまで都合よくするというのはこの先の社会がどうなってしまうのかを予見している。そんなにエリート思想で世の中がまわるはずもなく、当然雑草のような逞しさで困難を跳ね飛ばすリーダーも大変な時代には必要なのだ。

それを子どもの時から危険を取り除き失敗もさせない環境の中で放任していたら、自分の主体性や自分らしくなどと自分を肯定できる機会にも恵まれず自信がつかないということにもなりかねない。

元々、リスクとは何か。

自分やりたいことがあって、それを遣り切る時にはどうしても様々な障害が付きまとう、それでも自分を最期まで信じぬくことで自分自身で人生を溌剌と楽しみ玩味でき竟にはその人としての至高の幸福感は得られるものだ。

それを無難にできそうなことや、まず失敗せずにできることだけを先に考えてそれを基準にやりたいことを探そうという人になってしまっては、本当に遣りたいことに出会おうとしないという自らが自らを疑っていることになってしまっているから竟には受け身になり自分を滅して次第に元気がなくなってくるものだと思う。

自分らしく生きることはやってはいけないと勘違いした大人になれば、迷惑の本当の意味も分からない人になってしまう。本当の迷惑とは、自分らしく遣り切らないことである。共生と貢献の関係ができるのは、自分にしかできないことを遣り切っているときに存在しているものだからだ。

子どもの頃は大人の見守りがあるからこそ、周囲に多少のリスクがあったにせよ子どもを信じて子どものやりたいことを尊重し援助し支援し手伝うことは相手を信じているという見守りの実践になる。

子どもは、環境さえ用意すれば好奇心旺盛に興味津々とやりたいことにのめり込んでいく。

そこには人間が成長したいとする根本的な本能があり、それをやりたいと思うのはどの生命も等しく皆で共生関係の中で生きたいと自然が願っているからでもある。

勘違いを語るとすれば本当の意味でのリスクとは、挑戦させないことである、言い換えれば成長させないようにすることである。今使われている社会のリスクこそがリスクだということに気づき、成長していこうと声をかけあい挑戦していくことを見守る社会を築くことがリスクを取るという意味である。

善い所どりを無難にやろうなどという怠けた精神が、自然の発展と繁栄を押さえつけてしまうのである。

大きく育てるとは、その人の本来の個性が存分に発揮できるように環境を用意して見守るということだと思う。

人が一番、命が輝くとき、それは自分のやりたいことを存分に挑戦して自分で考えて自分で決めて行動するときである。

それは遣りたいことに正直に生き抜くということの実践であり、自分の人生を信じているということである。

つまりリスクとは成長のことである。
成長の歓びは、何よりも命の動機づけである。

自分らしく生きる事ができる人が、そういう人たちが世の中に一人でも増えていくように見守る環境や社会を創りあげることに邁進し、只管に社業に専念していこうと思います。

自然の一部

一つの思いを形にしていくのに、心を一つにしていくというものがある。

それぞれがバラバラに取り組んでいることを、同じ目的の本に心を重ねあわせていく中で次第に輪ができてくるように円熟し、竟にはそのものになっていくというようなものである。

同じ目的と人生の意味を等しく実感し、一つの価値に根ざせば世界は広しと雖もすぐ身近な同志たちに出逢うことができるもの。

一期一会を通して自分たちが一部で全体であることに感動し、一人ではないことを実感するのであろうとも思う。

まさに朋遠方より来るなのである。

そして日々の仕事を通じて、自分の生き方を見つめ、日々を通して、自分の実践を省みる。こういった日々の積み重ねの中にこそ、はじめて答えを生きることができ心豊かに貢献を楽しむことができるのであろうとも思う。

人は自然に出会うことにより、新たなものにいつも目覚めていく。

それは根源的な自分であったり、本源的な真理であったり、ワクワクドキドキと生活を営み繋がりを求めていきながら日々に対話するのは自然の一部であるからでもある。

自然の一部として、自分自身が描く自分の姿が本当に素直なままかどうかというのは世間を信じるということからはじまっている。

自然なのだから世間は正しいことが大前提での素直さや謙虚さである。
今の時代の流れを紐解けば、精神的にも生活的にもすべて熟してきている。

だからこそ自然の一部としての自分ということを再構築・再定義しなおし、心も気持ちも世界の覚者に合わせていき自分の場所で真摯に実践していくことだと私は思う。

自分が与えられた環境は、自分の人生にとってとても重要な意味を持つ。
どんなことをやるかよりも、どんな自分があるからやりきるのである。

私たちが実践する積み重ねの上に、子どもたちの命が生きていることを忘れてはいけない。私たちには、今までそうだったように、様々な体験を真摯に学び消化しつつ信を醸成し、今を生き切り、今を生き抜く使命があるのである。

何よりも怠らず油断せず、そして精進し、日々の営みに命を吹き込み続けていこうと思います。

初心の場所

初心を忘れずという言葉を深めてみたことがある。

この初心とは、最初に自分が信じた心、つまり素直に自分から湧きでた心で感じた言葉といってもいい。自分が素直に何を信じて生きるのかを決めたことが初心ということになる。

しかし人は、すぐに環境や状況に心が流され最初に信じた心よりも信じられなくなる理由ばかりを自分に言い聞かせるようになり、次第になぜ自分はこんなことをしているのだろうかと今さえ分からなくなってしまうということが往々にしてあるものだと思う。

特に、信じるという行為を自分からではなく相手の反応を見たり、相手にあわせることばかりに意識が囚われると余計に自分自身の心よりも表面上の感情で右往左往してしまうことがあるのであろうとも思う。

これはすべての人に起きうることであり、信念を醸成するために必要なことでもある。

そんな中でも最期まで自分自身を信じきれるかどうかで、自分らしい人生の明暗が分かれていくのであろうとも思う。

自分を信じるという行為は、自分が選んだ道だからこそ何よりも自分が必ず善くしてみせるという最善を念じることにより強固になっていくもの。

そしてそれは、自分を疑いたくなる時にこそ初心を取戻し、その信じたままの初心でいれば信念が自分を思い通りの心のままにすべてを導いていくのであろうとも思う。

心の世界とは眼とは違い目先があまり見えないけれどこの世界そのものの存在は心で感じて創られているからこそ、この絶対的な心の場所が明るく積極的でプラス思考でなければ思い通りに体も心も渾然一体にはなりはしない。

私で言えばこの渾然一体とは、「直観的な場所と行動が合わさるタイミングの妙にバランスを見出すことで人生を味わっていること」なのだけれど、人はそれぞれに自分なりのやり方で初心の場所を習慣にし正しく持つことが大切であろうとも思う。

自分がもっとも自分を信じるときが、それがどのような不思議な感覚であるかという体験を通して学び、そのバランス感覚を自分が信じてあるがままに生きることが本来の自分らしい感覚ということであろうとも思う。

初心は決して忘れてはならないものである。

子どもたちが、迷うことがないように実践を通じどんなこともまずは初心を尊重しながら常に心の答える日々を楽しんでいこうと思う。

素直に受け継ぐ

様々なことが起きる中で色々なことに出逢い、そして気づき、経験を通じて学び私たちは生活をしている。

昔起きたことは一つとして無駄だったことはなく、今を生き抜くために全部必要だったと思える中で存在している。これは私の時から始まったのではなく、先祖代々ずっと太古の祖先から今も脈々とをそれを受け継いでいるように思える。

つまりこの今があるのは、様々な経験の御蔭でありそれを見守って下さった周囲の恩徳によってできていると深く感じることができる。

私たちは、それぞれに自分の人生を自分で実感し、その中でどう生きるのかを自分自身と自問自答し最終的には丸ごと善になるように決めているといっても過言ではない。

それを社会の中の役割分担ともいっていい。

それなのに運命を勝手に実感し、周囲の状況や他人を見てはどうしようかと悩むのは人情や感情的なところでの話であって目先でそれを理解しているのだろうけれど、実際にはどのような環境や状況であっても相手がいるいないに関わらず最終的に自分の心は自分がどうするのかは丸ごと自分で決めているのである。

ただそうならないのは単に素直な心が出ていないからである。

自分がなぜこうしたいのか、自分がなぜこうなのか、そんなものは感情から離れた素直なままの心で観ればすべての出来事は自分から起点になっているのはよく分かる。

他人のせいにしたいのは受け容れたくない感情があるからであり、どこまでいっても自分で今を決めているのが人生なのである。

病気一つでも、医師が治せるのではなく自分が治すのであるし、人生でも誰かによって変わるのではなく、自分が変わるのである。

人生とはどこかで他人のせいにしてしまうのは、素直な気持ちにならないからである。素直な気持ちになれば、全部自分次第ということになり、間違っても自分を責めたり相手を責めたりという感情に支配されることはない。

全部必ず善くなると信じる心もまた素直なところから訪れるものである。

人生は色々なことがあるからこそ感謝でき、様々な出会いの御蔭を感じることで幸せを感じているのである。

子ども達には、周囲の見守りの中で自分の人生を無駄がないものだと信じられるような見守りの眼差しを大人の代表になった気持ちで実践していきたい。

お盆も近づき先祖のお墓の掃除をしているとどんな体験もすべては今の私たちが生きるためには丸ごと必要であったのだと静かに語りかけてくるもの。

自分にとっても同じく、子どもたちのための大切なお役目が具わっていることに丸ごと感謝し、人生の素晴らしさを素直な心で味わっていきたいと思います。

自然の浄化

一昨年前、私が生まれ育ってきた故郷の神社の裏に流れる小川が山崩れによって破壊された。

鉄砲水と土砂が、上流から下流まで流れてそれまでの水路には大きな石がたくさん転がり崩落した後がたくさん残った。

それまでにその神社裏には、杜がありたくさんの植生が存在し木々も樹齢が長いものが多かったけれどそれもまた土砂により折れたり流されたりして原型をとどめないほどに壊されていた。

最近の集中豪雨で、このように破壊されているところはたくさんあるだろう。

この2年間、この杜の破壊を観続けている中で気づいたことがある。

最初は、生まれ育ったころの様相がなくなり大変心を痛めていた。これを手作業で復活させたいと思っていたところ、公共工事が入りその場所を戻すという。

そのまま観察し続けているとダム工事をし、コンクリートで水路を舗装して壊れないように整備した。

元々あった形になるのではなく、人工的に造られ小川だけが残ることになった。

そしてまた訪れた時、2年間の観察の意味が自分に明確に降りてきた。

自然は破壊したのではなく、治したのであり、人間は治したのではなく、破壊をしたのだと。

それまでにあった元の水の冷涼で透明で繊細な流れはそこにはない、そしてたくさんの土の浄化力で癒された霊気もそこにない、様々な山の力や共生の香りが失われていた。

今ではそこは藻が流れ、水温は上がり、水の流れは不自然になり、今までにあった自然の様相はそこには失われていた。

自然のやっていることを人間の感情で判断するというのは、まったくの勘違いであり本来の自然から学び私たちは自然でいることのなかで豊かであるのだということを気づくのである。

つまり自然は常に自浄するのであり、破壊ではなくそれは治癒であるということなのである。

その治癒力に感謝し、その治癒力を活かすことが本来の自然でいることである。

それを破壊と勘違いがあることこそ人間の傲慢さであり、人間世界の感情に支配されている証拠なのである。

私はこれからも何が真実なのかを見極めていきたい。今回の一連のことは、身をもって教えて下さった啓示でなのである。

故郷の自然から学んだことを一生忘れはしない、これからは決して間違いをしないよう心の懐に刻み生きていこうと思います。

心の旅

挑戦をするということに、思い立ったら即行動というものがある。

何も分からないものややってみてもないことを遣る場合は、あまり考えてからやろうとするとできない証拠ばかりを探してついには怖がってやれなくなるということでもある。

先に知識を得て、何かしらの情報を掴んでから取り組もうとしリスクを取らないでいるといつまでも前進せずにその場にとどまってしまって足がすくんでしまうことがある。

同時にやりながら知識もつけていくのが体験や経験なのだろうけれど、そこには当然、失敗も成功も感情で判断するものが発生する。しかし、どの失敗もどの成功も、最終的には答えになる。答えを生きるように人は、人生を生きるのが本物の豊かな生き方なのであろうとも思う。

もしも早くやってしまいたいや、たくさん全部やってしまいたいなどの気持ちが生まれれば楽して早く辿りつこうとするから楽しむ豊かな心よりも楽をして便利に合理的にやろうとする気持ちが先行しその挑戦の醍醐味を味わうことがなくなってしまってくる。

そうなるとまた楽しくなくなり、苦しくなるという悪循環に入るものだ。

そうではなく、今、起きている出来事やこれから起きる様々な事件はすべてが自分の夢である、自分の人生の答えなのであると今を生きていくことが本当に自分の人生のままに味わい尽くしていることになっているのだと私は思う。

本当は何も急がなくてもいい、何が足りなくてもいい、その経験や体験こそが自分らしい自分の生きざまであるのだと全肯定全受容するとき、はじめて豊かに楽しんで幸せを噛み締めている安穏とした心に満たされるのであろうとも思う。

眼に見えるものだけを追ってはならず、心で観えるものを大切に味わって生きることが本来の素直な生き方なのである。

挑戦することも、人生の楽しみであり醍醐味である。

分からないことばかりなのは、これからも楽しくなっていくと明るく素直に元気に前向きに思うことが自分の人生のままに生き抜くことになるのである。

思い立ったら即行動、1割程度でもわかけばやってみることである。

それを楽しめれば即ち、心の旅の一歩である。

子どもたちのためにも、まずその心の旅を楽しみながら豊かな社会を形成していきたいと思う。理念を優先して、何でも自由に生きていこうと思う。

心の努力

人は自分のことをどれだけ信じるかというのは、自分の人生を生きる上で何よりも大切なことであると思う。

自分で自分を信じる事ができなければ、身の回りに起きるどんな現象も出来事もマイナスにしか観えず、どんなモノゴトも前向きになれないからどうやって楽をできるかしか考えないようになってくる。

そうしていると何をするにも面倒だと思えるようになり次第に怠慢になっていくようになる。

何でも自分が楽をするというのは、常に自分の方が苦を呼び込むことである。
それは決して楽しむということと同じではない、楽と楽しむは同じではない。

楽しむというのは、苦も楽しめるということであり、それは自分を信じているということであると私は思う。

人生を楽しめるのは自分自身が人生で経験する一切はすべて善いことなのであると自分自身を常に信じているからできるのである。

誰かによって信じられたり、信じさせようといちいち毎回自分に言い聞かせるのは、信じるという自分自身の心の努力を怠る行為になる。周りを見ては、信じてもらおうと振る舞い、周りにあわせて信じているように自分を見せるのは自分を疑っている証拠なのである。

そのうちそういう心の努力ではなく表面上の感情の処理の連続が偽や欺、疑や擬を沢山積み上げ、同時に自分の心にも信じられない証拠が沢山集まっていきいつも不安や恐怖などが付きまとうようになっていく。

そうなればいつもビクビクと現象を見ては反応するようになってしまう。そうなればもはや感情の渦の中や感情の殻の中でもがくだけである。

そうならないためにいつも素直に心の努力を怠らないことである。

自分の心が素直に自分を信じるように、いつも前向きにすべての困難や苦を体験することを厭わないようになることである。例えば仕事では、自分が楽をするための仕事を避け自分から大変な方や問題の方に自分を信じて突き進んでいくことである。お役に立つ方、大変な方、貢献する方を選択するのである。

そしてそれを最期まで遣り切ったとき、つまりは最期まで自分を信じきったときに心を籠めて取り組んだという心から感じたままの世界が観えて広がっているのだろうと私は思う。

夢を叶えていく人生とは、心の努力を怠らない人生なのである。

だからこそ、自分が自分を信じるという心の実践を積み上げていくことで自信を着けていくことを日々に大切にしていくことである。

常に相手は自分自身の心。

心を相手に努力を怠らず、自信を持って楽しみ抜いていきたい。自分を修めて、たくさんの命に貢献できるように心を練り上げていきたい。

自然の心

日々に太陽が照りつけ、日々に水が流れ、日々に草木の中で虫たちが営む、生き物たちの命の循環、自然は素のままであるがままに移ってゆく。

心にわだかまりもなく、思い思いに命の華を咲かせそして実をつけまた枯れはじまりとおわりの中に生きている。

形があるのもののなかに形にならない心があり、その心が純粋に素直であれば自然体の自分に出逢うのであろうと思う。

人は自分のことを一番知っているのが自分のようで、それは感情を通しての自分であるから本当の自分を知り尽くしているのではない。

日々に色々な感情が左右し、不自然な自分を形成し本来の素直な自分というものを見失っていくもの。

自然に生きていた時と違い、何かを人工的に感知するようになれば人工的で形どられた自然という名の不自然の中での調和を維持するために様々な苦しみを味わうようになった。

何かを自分の分別で解釈し、そのことからより感情が波打つようになる。

もともとの姿、心のままに生きるということはそれだけで人々の調和を生み出していくものであると私は思う。

そうではない生き方をすれば、常に自分が不自然を振る舞うことになるのだから周りが素直になれないような環境を作り出す手助けをしてしまっていることになる。

自分が素直になるというのは、それだけで人々との調和に貢献するということである。

皆にあわせて無理をすることが素直ではなく、本来の素直さというのは自分自身が素直になりたいと強く願い日々に素直にいるように心がけることで世の中はより善くなっていくのであると思う。

自然の生き物に習い、自然の心でいるというのは素直になるということである。

そういう生き方ができるよう、自分自身との感情とうまく付き合いながら素直の実践を楽しんでいきたい。

素晴らしい人々との出会いがあるから世の中はより素晴らしいものになっていくもの。人生の醍醐味と知り、今の心を楽しんでいこうと思います。

楽しく生きる

昨日、自然農を実践なさっている川口由一先生とお会いすることができた。

ずっとかねてから著書などを拝見し、その自然の前に立っている時の素直な姿勢に感動し、人生の中で一度はお会いしたいと思っていてはじめてそのお話をお聴きし川口先生の自然農園を拝見することができた。

私は師の見守る保育を信じ、子どもの姿が自然そのものの中で命が輝いている姿にはじめて感動を覚えてからこの実践を広げたいと志すようになってはや9年目になっている。

今回は、その初心の感動を思い出すような素晴らしい一期一会をいただくことができました。

拝見した田畑も、すべての生き物がイキイキと楽しそうに営んでいる姿に私たちが勘違いしている生き方を気づくことができました。草や虫を敵にしない、その真心の体現に、もともと渾然一体となって我々生命体はいつも一緒に生きてきたことを思い出すこともできました。

屍の層と呼んでいる、不耕起による循環の環境を通して営みが永遠に続いていることも実感でき、お互いに貢献していくことの真意も伝わりました。

私たちはあまりにも知識の中で澄んだ心を見失い、素直で純粋な心でいるということを忘れている気がします。とても優しい眼差しと、融通無碍なその立ち御振舞いに見守るということの信の姿を改めて実感できた気がします。

川口先生の仰っていたお言葉の中で特に印象的だったのは、

「手作業でなければ楽しくない、機械などを使えば楽だけどそれでは観えない。」

「屍の層ができる、そこからすべてははじまっている、歴史もそう、途切れさせないこと。」

「身近なところから丁寧にやっていたらそのうち行き着くのが農業、身近から。」

「稲が自分で育つことができるようにする」

「すべてに信が入っている、技術に信が入っている」

「自然農だから小ぶりなのではなく、最初からこの大きさである。」

あまりにもシンプルな言葉ばかりで、手元に残ったものは温かな柔らかい融通無碍な姿形が今でも眼に焼き付いています。

自然の姿の本質を真に理解するには、日々の丹誠籠めた生き方と現場の実践等を通してものにつつ渾然一体に学んでいかなければ分からないことだと思っています。

ちょうど人生の大きな変換点で、このタイミングでお会いできたこと、私の大好きで尊敬している大自然体に心から深く感謝しています。

これからも私は子どもの心で純粋で素直な心のままに、自然の前に立てる自分でいたいと思っています。

世の中は、一度自分がやると決めたら奇跡と不思議なことばかり。
気が付いたらもう何もかもがすっかりと変わっていました。

いつも楽しく夢に向かってみんなで一緒にまっしぐらに生きる。

この今を、何よりも心から楽しんで生きたいと思います。

自分の舞台

自分が生きている世界というのは、自分で生きるかどうかということによる。

誰かのためにをしては自分をなくそうとし、自分のためにとしては自分を出そうとしても、それでは決して周囲に本当の自分で生きているとは理解されることはない。

自分を出すや自分をなくすなどといった中での自分では決して本当の意味で自分が理解されることはない。自分の役割を自分で決めてしまうことはできず、本来の役割とは皆で自立してやっている中で自然に分かれるのが役割なのだから役割による貢献や共生もそこからは生まれにくい。

そこで大事なのは、その自か他かを超えた真の自分であるかどうかということになる。言い換えれば真の自分であるかは、自分の人生を信じているかどうかということでもある。

つまりは、自分で自分の人生を丸ごとを生きているということである。

いつも自分のことを誰かのせいにしたり、何かのせいにするのは、自分の人生をどこかで自分が疑ってしまっているからであり、そういう自分目線で他人を見るからまた自他を信じきれないのである。

本当に自分を生きるというのは、自分の人生なのだからこう生きると決めることなのである。それは自分を信じる事である。

そう決めてしまえば、諦めなくなる、つまりは諦める必要がなくなるという意味で自分ですべてを遣り切ればいいだけなのである。それが自分の人生なのである。それをそうやって遣り切らないから生き方が自分の人生にならないのであろうとも思う。

吉田松陰先生も、最期の最期、その処刑されて命を絶たれるまで自分の人生を遣り切り、その生き方を貫き、自分で示した。その生き方に私たちは感動し、命を燦然と輝かせた光がなお、この今、この世にのこっている。

そういう命の灯からまた灯を貰い、志の燈を継承しているのも私たちの生きざまなのであろうとも思う。

自分で決めたことを自分で遣り切るということは、其処で生き方を示すことでありそうやって導くのが真のコンサルタントなのであると私は信じている。

そして大和魂とは、そういう実践の中にこそはじめて言霊として人生を彩るのであろうとも私は思う。

どう生きるかは、そういうものになりたいかはすべて自分が決めること。

今のような時代、自分のことを人任せにして自分は何も変えようとしない人ばかりが沢山いる中で本人たちも刷り込みによって苦しんでいる。

自分らしく生き、そして調和していく中で貢献できる真の幸福を模索していきたい。

自分らしく生きていい、だからこそ自分らしくいることだとその人のことを丸ごとで包みこめるような応援を真心のままで素直に感じ取っていたい。自然の心そのままの信じる真我を味わい、豊かさを感じてはじまりからおわりをまた楽しんでいきたい。

自分の舞台で、自分らしく命を輝かせて生きていこうと思います。