精進とは

簡単なことやシンプルなことを理解するというのは難しいことである。

幼児期の子どもたちが簡単に話すわかりやすい言葉も、それを実践するとなるとそれは本当に長い時間かかるものである。

禅に下記のような法話がある。

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唐代の詩人白楽天が、ある日、木の上で座禅を組む鳥彙道林和尚に訊ねます。

「和尚、仏教の教えとは一体なんでしょうか?」

すると和尚はこう答えます。

「もろもろの悪を作さず すべての善を行い 自らその意を浄くせよ 是が諸々の仏の教えなり」と。

しかし、白楽天はそれを聞いて

「そんなことは3歳の子供でも知っていますよ」と呆れて言葉を返します。

すると和尚は、

「3歳の子供が知っていることでも、80歳の老人になっても行うことは難しいものだ」と説いています。

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これはとても大切なたとえであり、このように心を遣って行うというすべての所作行動は頭で分かっていてできることではなくすべてに実践をして学んでいくものであることを意味します。

そしてそれを正しく体得するのにかける時間は、人生のすべてが懸かるといってもいいと私は思います。

思いやりや謙虚さ、正直さや素直さ優しさなどというものはすべてにおいて相当な時間を要するものでありそれは知る事と行うことがあまりにも異質なものであることを実感しているからです。

よくテレビやどこぞの場所で有名な知識人が、さも真理を覚ったかのようにそのノウハウを人々へと語っているときがありますが、しかしそんなノウハウは実際に在り得はせず、死ぬ瞬間まで日々の実践という精進を続けていなければそれは道ではなく真理のままでいるとは言い難いのではないかと私は思います。

私も今、日々の実践の中で如何に知る事の意味のないことか行うことの難しいことかを思わない日はありません。

実践しているときが、なんとなく心が真理を身近に感じ、実践から少しでも離れれば遠くに感じてしまう、いや頭が頭で分かってしまう。これが如何に頭が分からないように実践を続けるかというのが精進の本質だと思っている。

学ぶということは、全身全霊の行為なのです。

そう思えばあの幼児期の子どもたちでも知っている正しい行いは実は本当に難しいのだと思います。よく先生が教えている約束を守ることや、嘘をつかないこと、譲り合うことや助け合うことなどもすべてそれはどの子どもでも今では知っているけれど、それができていないのが今の大人たちなのです。

社会人と言われ、貢献をする場にあってもそれができない大人ばかりです。

だからこそ、まずは日々において如何に心を清め、心を澄まし、心を籠めて心から真心で生活するということが第一なのだと思います。特に自分の影響力を正しく自覚し、人に大きな影響を与え、人の人生を左右するような出会いをリードする仕事につく人はその基本の心の姿勢が何よりも肝心なのであると本当に思います。

常に自分の生き方や在り方そのものを見つめることが、他と心を通わせることになるのだとも思います。相手にあわせていちいち反応したり、相手ばかりを意識して自分を顧みないことは傲慢な気持ちが出ているのだと思います。

道林和尚のいうように、謙虚に素直に学んでいくことが大切なのでしょう。

シンプルなものの中にこそ、真の面白味があり思いやりの心があるとし日々の実践を重んじていこうと思います。