君子と志士

今の時代は君子や志士というものが何であるかということがあまり明確に定義されていないように思う。

明治維新の頃もそうだけれど、歴史で顕われる志士とは一体どういうものか。

吉田松陰は、志士ということをこう定義している。

「志士と云うは即ち道に志すの士なり、即ち君子なり」(武教全書講録)

つまりは、道に志す人物こそが即ち君子だという意味になる。私も最初は君子とは、徳が高い人や立派な人だと思い込んでいたけれど維新の時代は君子を目指すということは志士であることをいうことであったのだと自分が思い違いをしていたことに気づいたことがある。

今ではあの西郷隆盛も坂本竜馬も高杉晋作も、有名な志士をはじめ日本全国から出土した志士たちはすべて学問により顕われた君子であったのではないかとも思う。

そして同じくこの君子とは何かということを孔子は弟子とのやり取りの中で下記のように定義している。弟子が君子とは何でしょうかという問いに対して、

「まずその言おうとすることを実行してから、ものを言う人物のことである」

と応えている。

つまりは、まず真心で先に行動しそれを理論化しているのでありその信じる道がまずどれほどのものかということを語っているのだと思う。知行合一の本質は、言葉を先にしないということである。

私の師が、先日の講演で「私は目の前に子どもがいるのに理論から信じない、理論を信じる前に私は子どもを信じます」と話をなさっていたけれどこれも同じく道を志す君子が放つ言霊であると思う。

私はこういう言葉を聴くとすぐに全身が衝撃を受けたように痺れてしまう、道を志す中で顕われる言霊はいつも感動のエネルギーを滾々と湧き出してくれるように思います。

志士とは、何かを語るのではなく実行して世間や社会でその真心を体現させるものだと思います。

私たちの目指す道もまた志の中にあるものであり艱難辛苦や逆境は志士には最高の栄養分となります。

君子と志士の共通点は道を得るかどうかによるということ。

私たちはより大きなもののために命の道を歩むことを真摯に楽しんでいこうと思います。

妙なる境地

昨日のブログに言葉の定義を書いたけれど、その人の使う言葉が自分の知っている言葉ではないということをまず理解することが大切だということである。

例えば、孔子をはじめ過去の聖賢と言われる人たちが語る言葉に、至誠、忠恕、真心、思いやりなどというものがある。

君子というものがどういうものか、それを聖賢は実行したのちに言葉にするもののことであると様々な文献で定義してある。陽明学の知行合一というのもそのことを再三書いていても、それを読み解く人がどれだけの心の場所で聴くのかではその解釈も同じではない。

吉田松陰の言葉に至誠というものがある。

毎年松陰神社に参り、純粋純心な気持ちで自分が学問をしているか、そして学びを世界のために自分を活かし切っているかを問うと、まだまだ私はこの吉田松陰がどこまで至誠というものを語っていたのかが分からないのではないかと思うことばかりでもある。

松陰が語る至誠には、「妙なるもの」という定義がある。

とても神妙な世界、真心を持ってすれば決して動かないものはないという単に国家のことだけを憂い維新をしたかったのではないのではないか。

その妙なる至誠の生き方とはどういうものか、それを人生で試してみたかったのではないか、そういう純心な気持ちが如何に天に通じて奇跡と一体になる感覚を持ち融通無碍の境地を楽しみたかったのではないか。

それを思う場面が所々にある。

私が尊敬する一人の諸葛孔明にしても、同じように学問を静かな境地、つまり神妙な場所で学びそれを理想と現実の中庸にて真実を体現した生き方を示した。

自分自身の生を、自分自身の命をどこまで昇華できるのか。

聖賢はすべてにこの「妙なる境地」を学んでいるように思います。

子ども達には志とは何か、学ぶとは何か、生きるとは何かを、私自身の生き方で示していければと思います。吉田松陰の至誠という言霊の機縁に出会えたこと心から感謝しています。

人生の持ち時間

先日の震災で、如何に当たり前の日々が当たり前ではないかということを実感する機会になった。ある日、ある時、ある瞬間に今までの生活システムがすっかりと変わってしまうということがある。

自然の驚異を感じることは、人工的な日々を生きる私たちの大きな勘違いを正してくれる出会いになる。そうした中から私たちが当たり前に生活できるということの恵みを知り自分たちから謙虚になるべきではないかと自問できるのである。

よくこの当たり前のことを考えてみると、今の時代は自分都合で人間都合でいるからそういう当たり前だと思い込んでいる時間軸や環境軸は本来の姿から逆転してしまっているけれど、私たちの当たり前の暮らしや命の在り方は本来はそういうものではなかったはずである。

元々は、朝夕と食べていける営みの有難さ、大いなる自然を受け容れ人智を観磨き創意工夫していき持続可能な社会を維持していくための自律や共生など、挙げればきりがないほど当たり前の日々に感謝し日々に勤めてきた歴史があった。

今では人工的に発展させた最先端の科学技術を使い、目先やほんの身近の自然を征服することで人間中心の世界にどっぷり浸っているけれど、そういう日々が本来の当たり前だったものを入れ替え歪んだ人生観念を広げているのであろうとも思う。

本来、生死は自然の中にあり、生き死には自分の分度外にある。そういう自然の一部として活かされている自分の命があるのだからそこから離れて幸せに生きられる方法などはありはしない。

人間は空気も水も光も、そして土も火も雲も風も、そういう自然がなければ誰一人生きてはいけないし、そういう世界に暮らして幸せだと感じるはずもない。

これに通じる「人生の持ち時間」という考え方がある。

私たちの人生、今から死ぬまでの時間を自分の人生の持ち時間と定義する考え方でもある。人はいつ死ぬか分からない、だからこそ実際は死ぬまでの時間など分かりはしない。それこそ天の定めであるから、考えても仕方がないのだけれどしかしそれをあえて当たり前という視点から考えてみる。

よく平均寿命など言われるけれど、実際はその通りに皆と同じになるわけではない。その人その人の生き方や生きざまが存在し、歳もそれぞれにとり方も違う、また死に方も別なのである。

そう考えれば自分の今とこれから死ぬまでが持ち時間ということになる。
この時間こそ、当たり前のものではない最も重要なものである。

今とこれからを生きていくのは残りの人生の持ち時間をどう生きるか、そして何をどこまで遣り切るかという日々を命を大切に生きていくことである。そこから人生の持ち時間を最大限に謳歌して一遍の命の詩を書き記すのである。

当たり前の時間などはない、当たり前の日々とは私たちが生きているだけでも滅多にないような有難い時間を過ごしているのであると素直に自覚することにから感じる事である。

これからも当たり前ではない日々を思いつつ、今を大切に生き切っていきたい。

命の弱体化

今の時代は、元々自然にあった命の色々なものが弱体化してきている。

科学技術の進歩にあわせて何かを加工することが良いことなのだと思い込まされ、元々あった精神的な部分から肉体的な部分、その他、命のあらゆるものが弱体化してきているといっていい。

それは人間が何かを付け足せば強くなるという勘違いから、人間の眼に見えるものに囚われその迷信を信じるようになってしまったからである。

何かをすれば必ず強くなるという発想は、すべて人間だけで考えるからそうなるのである。そこに自然を無視した考え方があるから、さらにやればやるほど自然から離れ元々あったものがさらに弱体化していくのである。

これは例えれば、子どもで言えばそのままでは善くないと様々なものを教え込み自然の状態を無視して教育という名のもとに何かしらの強いものにしようとする。しかしそんなことをすれば元々の生きる力が弱体化し環境に順応する力を失わせ本来自然に具わっているものまで失わせてしまうこともある。

似ているところで他のことに例えれば、自然の中で育てるという農法も元を正せば肥料を入れ土を耕し、何かをしなければ作物は育たないと思って色々なことを農家がやるけれど実際はそのことにより作物が弱体化し、そのために農薬から様々なものをさらに付け足していかなければならなくなっているのと同じである。

人間が足せば足すほど、そのものの自然は弱ってくる。

山に人間が入れば山が弱るのと同じように、何かをしようとすればするほど弱くなるのである。そもそもこの人間が何かを付け足すという行為は、自然を無視しているからである。

もともと眼には見えないけど私たちの命というものはすべて自然の中で活かされているというものであり、その中の命の一部としての自分だと思えば自分だけで完全であるなどとは勘違いすることはない。

そうやって自然の中に在る自分が完全であると思えば、人為的に何もしない方が本来の自然の力を活かしていると思えないだろうか。

病気でもそうだけれど、そのままにしていたら治るのに余計な治療をする。そもそもそのままが分からないほどにおかしくなっているからやればやるほど裏目にでる。そもそも根本がどうだったのかを知らないからそういうことになるのである、それは自然を正しく学んでいないからである。

私たちが自然とともに学び生きるというのは、自然を無視しないということである。

かんながらの道とはもともと何もしなくても、私たちは自然に生きているということを覚ることでもある。そういうものが命の道と呼ぶものではないだろうかと最近は身近な出来事を通して思うことが多い。

そして私たちのミッションであるあの子ども達がなぜ今、こんなに大変なことになっているのだろうか。それはすべてにおいて大人たちの勘違いによる肥毒の被害を受けているからである。

今こそ、世界がこういう危機に瀕しているからこそ、最も地球で影響を与えている人間がもう一度、自然を無視しない生き方、自然から考える生き方というものを学び直す必要があるのではないかと真摯に思います。

今まで学んだ刷り込みをどう取り除くために学ぶのか、自然の中にある奇跡を歓び当たり前のことに気づけるような実践を積んで様々な叡智を消化していきたいと思います。

当たり前の日常から自然の真心と一体になる実践を積んでいこうと思います。

命の置所

言葉には言霊と言われるように一つひとつにそのものの定義というものがある。

その人の根本的な命の考え方とも言える、そのベースにある人生観ともいえるものがその人の言葉言霊に宿っている。

そもそも考えるという行為は、すべて自分の言葉を使って行うものであるからその人の考え方自体がその言葉の定義によって形成されているといってもいい。

いくら沢山話をしても言葉の定義が違っているのだから真に理解するというのはとても難しい、そして同じくその使っている言葉によって自他の人生はできているということになっている。

だからその人が常日頃、どのような言葉を用いているか、そしてその言葉がどのように定義されているかというのは、その人の生き方そのものを示しているのだから何よりもそこに意識を止めておく必要がある。

例えば、人生の中であまり恵まれた境遇になくてもその人が自分に誠実に素直に生きてきたのならばその人の使う言葉もまた同じく正直な言葉を使っているのである。

逆にそうではなく、同じような境遇でも自分から卑屈になり、責めて偽り、そして疑い、不安や不信に生きてきた人は使っている言葉がすべて自分を説得したりするために使われることで不誠実になっているからその人の使う言葉もまた定義としての根幹が素直でなくなっている可能性があるのである。

人は誰もが使う言葉は同じ言葉を使っているからこそ、その言葉自体が間違っているとは誰も気づかないのである。

しかし、何かを見直すというのは生き方から変えることであるからまず行うべきはその人の人生観が話す言葉を見つめ直すことからはじめることが肝心なのである。

具体的には、ある人が約束を守ろうと話すとする。

自分に誠実で正直で生きた人は、どんな理由があったにせよ必ず自分に誠実に命懸けで守る。しかし、今まで散々そういう約束を忘れたり反故にしてきた人では同じ約束を守ると言葉で語ったとしてもそれはケースバイケースであったり、すぐに勝手な言い訳や理由を使ってまた平気で破るのである。

其処が間違っているのに、その言葉自体を行動で治せないからいつまでも生き方が改善されていかないのである。

そうやってその人の言葉を深く傾聴するならば、その人の生き方や人生観を垣間見ることができるものである。だからこあそその言葉の定義がどうなっているかということから全てを見つめ直すことが大切なのである。

自分自身がいくら考え抜いたと思っていたとしても、その人の使っている言葉の定義がそもそも不誠実で間違っているならばそれは何をやってもうまくいくはずがないのである。

正直でいるとは、一つずつの自分の言葉にウソ偽らない真心のままに言行一致させていくことが誠実を尽くすことであり言葉の定義を正しくしていくことなのである。

信頼関係も、信用関係も、人と愛し合えるのも、すべては自分の今までの生き方の間違いに気づけるかどうか、そういう根底や根源から見直せるかどうか、其処から学び直せるかは真実の自分の姿を見つめることからなのである。

なぜ生きるのか、なぜ働くのか、なぜ続けるのか、なぜ幸せを求めるのか、そういうものをすべて見つめて刷新することがリブランディングなのである。

人は言葉を使って考える生き物だからこそ、その使う言葉ひとつひとつの定義を常に刷新し、その真心の言葉を学んでいくことを大切にしていきたい。

人生には、とても真摯に誠実に真面目に正直に素直に生きている美しい心の人たちが沢山いる。そういったものをそのままに感じるには、自分の今までの生き方を引きずるのではなく新しい生き方を学び直すことからはじまるのである。

その命の考え方、自分の命の置所をしっかりと捉えてひとつひとつの言霊をこれからも澄ませていこうと思います。

価値を認める

昨日、もう一年間コンサルティングで関わり続けている園の全体研修を行った。

ここは「みんな違ってみんないい」という理念の下、子どもを見守る保育を実践する園でそれぞれが認め合い子どもを信じる環境を長い時間をかけて構築している園でもある。

一つの理念を掲げ、それぞれが実践を積んでいくことで一体感が生まれとても素晴らしい環境ができあがってくる。それぞれが素直に自分から改善し取り組んでいくことで、共に安心して自分を発揮していくことができるようになるというのは如何に組織が大義を優先する事が大事かということを感じることができる。

そういう絶対的な場所で一人一人が認め合うという行為は、まず今の自分のあるがままをどれだけ正しく受け容れることができるかということからはじまっている。

今の時代はとても苦しい生き方を強いられてきた人がとても多い、皆と同じようにできることで標準化されていく中で、周囲に評価されるのは如何にその人が全部できる質が高い完璧な人間であるかということが求められてきた。

学校でも全教科100点を目指され、平均化の中での最高点を取ることが良しとされるなど何が一つができればいいではなく、全部よくてはじめて褒められるといった完璧であることが良いというような緊張感さえも子どもの頃身近に感じていたものだ。落ちこぼれるというのは、こぼれるような教え方をしているからそうなるのだけなのに一向に自らを省みようとしないのは本質を考えるのをやめているかである。

何かのおかしなシステムを変えることは、勇気がいることである。しかしそれを変えなければよくないと思ったらそれを変えるのが大人の使命である。

社会に出ると、個人主義で能力主義での評価が蔓延し、全部できない人はできない人とチームで何かをするという協力を優先するよりも、個々で全部やらせるといった競争を優先する中で大量生産での品質管理といったグローバル経済のマネジメントに人間の育成も合わせてきたことがそういう環境を助長したのであろうとも思う。

しかし、そうやって育つ中でそれが個性だと周囲から勘違させられた人はできないということや完璧でないということを恐れるようになっている。そしてその完璧主義の苦しい生き方をその後もしなければならなくなったのである。

完璧を目指す人は全部良くなければ満足できないというようにどこか一部でも失敗したりどこか一か所でもうまくいかなければそれはダメということになる。いくら90点でも10点取れなかった方がよくなかったというように減点主義で自分を評価する考え方である。

自己肯定感が低いのも、自分を認められなくなるのもすべてにこの完璧を目指すという考え方そのものに間違いがあるからである。

もしもこれが加点主義であれば、今の自分の点数を今はこれで十分だと足るを知り受け容れることができる。そしてそこから、今はこれでいいのだと次への希望やここまでできるのだからといった自分のことを肯定的に捉えることができるようになる。

何でもそうだけれど、完璧などというものはこの世には存在しない。例えば、薄い透明なグラスは繊細で綺麗でも割れやすい、逆に土器などの厚く堅いものは重厚で長持ちするけれど地味であるように、どこかを伸ばせばどこかは引っ込むものであるように完全などはないのである。

そのジレンマは、受け容れるからみんな違ってみんないいになるのである。逆さに観ても、みんなでやるのだからみんなが違った方がいいのである。

自分の個性も同じく、何かが光っているということはそうではない部分もあるのである。その両面をそのままに丸ごと自らが受け容れるとき、自分というものが何のためにあるのか何ができるのか、何をしたいのか、どういう役割があるのかという本来の自分丸ごとの素晴らしさを実感することができるのである。

自分を認めるということは、つまり完璧主義を目指さない生き方をすることである。それは一切の何も否定せず、否定から入らず、すべてのことを全肯定的に観ることからはじまっているのである。

認める生き方とは、今のままでも十分だという自他を丸ごとで思いやり慈しみ受け容れることを大切にしようといった自然の姿が一番美しいと実感して歩む方法である。

それは自分の偏り曇ったメガネを通して美しいものを観ないことなのである。

今の自分を受け容れ、そして周囲を受け容れ、御互いを活かし合っていこうとする中に穏やかで安らかな調和が存在する。

色々な刷り込みも様々な歪も、自らの実践を積んでいくことで刷新されていくことを信じこれからも楽しく取り組んでいきたいと思います。

明徳の一点

自分という感覚に、感情の自分とそうではない本当の自分という感情を挟まない澄んだ自分というものがある。

古来の聖賢は皆、この一点を学び、自ら真心や至誠、明徳といった言葉に換えて自分というものと正対し、本来の姿とは何か、本当の事とは何かということを解釈し、天命を透徹させて生き切っていたのであろうとも思う。

感情の中の自分とは自分の利害を優先し心が曇っている状態であり、そういう色眼鏡で相手を見たり、本質を深掘ることをしなかったり、刷り込みにどっぷり浸かっていたり、自分中心の好悪で決め込んだり、上下の嫉妬や傲慢な慢心などにより、真に正しく素直に物事を観ることができなくなっている状態といってもいい。

そういう人は感情そのものと一体になることで周囲に変なオーラを放ち、同じように自分の禍々しい感情の闇渦の中にブラックホールのように周囲の生気を吸い込んでいくものである。

その自分自身を曇らせている原因に気づかず、根本的な解決をいつも誰かのせいや何かのせいにへと自分と向き合わず外側に求めようとすることがそもそもの完全な間違いの根源になっている。

まず自分自身の心がいつも思いやりで満ち謙虚で素直かどうか、そういうことを省み正していけば物事は自分だけの見方が如何に偏っているかに自然に気づくのである。

学問を正しくしていく中で、智慧を知り、心の在り様に気づくことができれば、次第に周囲を慮ることができるようになる。

きっと相手は自分よりも大変な思いをしているのであろうと思えたり、周囲は自分よりも自分のことをいつも思ってくださっているのだろうと感謝の心が芽生えたり、自分から謙虚にいつも自分の間違いを自ら正していこうという正直な気持ちが育ってくるのであろうと思う。

しかしそういうものは全てに、利よりも義を優先するかどうかによる。

人は自分の都合の良い解釈、自分の利害を何よりも優先するから常に間違いが起こる。そもそも何のためにやるのか、何のためにいるのかと本質から大義を思えば、そこに自ずから忠や礼といった自律・自戒の精神を磨こうとでき日々を勤めあげていくことができてくる。

特に仕事でいえば、一生働いていくのであるから自分がなぜ働くのかが間違えていれば定年退職する際に何を自分はやってきたのだと後悔するだけである。

人生でも仕事でも最期を思い逆算すれば、納得して生きることや働くことは自分の覚悟次第なのだと気づくのである。

迷うのは、自分が何かに囚われているからであり、覚めないのは論語にあるように意必固我に負けるからである。頭で考えてできることではなく、やはり大切なのは思いやりの永続なのであろうとつくづく実感する日々です。

最後に私が尊敬して仰ぐ一人、中江藤樹先生に下記がある。

「学問は、明徳を明らかにするのを主眼とする。明徳は、人間の根本であり、主人である。人間のもたらすすべての苦しみには、その明徳をくもらすところから起こり、世界中の戦争もまた、明徳をくもらすところから起こるのである。聖人は、これをあわれんで明徳を明らかにする教えを立てて、すべての人間に学問をすすめた。四書五経に書かれているおしえは、すべてこの一点にほかならない。」(翁問答より)

明徳とは、そういう心の曇りを取り除いた澄んだ真心でいることを言う。何のために学ぶのか、何のために生きるのか、何のための自分であるのか、そういうものを深めていきたい。

過ちだと気づいても過ちを正さないことが真の過ちであると孔子は言う。

日々は真我に目覚めるための実践道場、常に真心と思いやりで素直に取り組んでいこうと思います。

感謝

平癒

生きていると様々ことから病気になることがある。

病気になるには、何か病気になるような歪のキッカケが過去に在りそういう因縁が表出することでバランスを崩すことで心身ともに体調を崩すこともある。

病気には体に出たりすることや、心に出たりすることもあり、病気になったのならそのどちらにも影響があるのだからそういう時は根本から癒え治るのをじっくり待つことが何よりも肝心でもある。

病気とは、誤解があるけれど過去の何かのキッカケから歪んだしまった心の曇りや日々に曇っている体の解毒、浄化というようなことをする行為でありそれは決して悪いことなどではない。

病気になるのはそういう今までの何か不自然な生き方や、自分に我慢をしたり無理をした何かをすべて受け容れる作用でもあり、それをじっくりと自分自身を見つめてあるがままに認めていくことで平癒していくのであろうとも思う。

病気の時に、急いで焦り感情に囚われてままでわざわざ夢を必死に語ったり心身が疲れているときに目標に向かって命懸けでやろうなどとはそれはおかしな話であり、そういうことをせず無理をせず全てを諦めゆったりと癒えるのを穏やかな心で生き直すことが先人の教えと叡智にもある。

根治するとは、それは次第に心身の曇りが取れ、まるで天気が快復していくように澄み渡っていく空を待つことである。健康とは、素晴らしいもので心が晴れやかになれば空も澄み渡り、身体が元気になれば自然の躍動の中にいることを実感できるのである。

世界の全ては、自分の感じ方や捉え方、その心のままが顕われているのである。

何かに心や感情が囚われると、どうしても人はマイナス思考になってしまうものである。そうなると、なぜ病気なのだと自分を責め立て自分が病気であることを思い悩み焦りいつまでも病気の意義を丸ごと受け容れようとはしなくなる。

これは何の病気でもそうだけれど、生命にはすべからく宿命といった天の絶対的な定めがあり、それは自分中心の考え方ではどうしようもないことばかりなのである。それを如何に静かに受け容れ、それを如何に善いことへと生きるのを転換していくのが自分本来の生き方というものになっていく。

病気の時こそ、自分の生き方を見つめ直す好機だと思うことが大事だと思う。

自分の今までを振り返り、そして今までを許し忘れ、そしてこれからの楽しい未来のためにどのような生きざまを刻んでいくのかを決める事。そういうことから病に向き合うことで、癒していくのが人間が育つということの本意であろうとも私は思います。

しかし病気の時に自分だけでそれを健康的な心で向き合うということ自体が無理があるのが分かります。だからこそ誰かの心の支えや共感がその人を病から解き放っていくのでしょう。

人間は皆誰しもその人にしか分からないようなつらい過去があり何かしら受け容れられないような苦しい体験は持っているものです。しかしそういう体験があるからこそ人に優しくなることができ人は支え合い、助け合い、愛を持って健やかに生きられるのだとも思います。

自分の苦しみを受け容れるのは結局は自分にしかできません。

だからこそ、病が癒える事、そしてまた健康に生きていけることをただ真心に祈ることが私自身のかんながらの道の一つだと信じています。

まずは、自分から祈りの実践を歩み、人々の心の基礎に明徳といった直き心を開花させていくことを継続していこうと思います。

丸ごと認める

人は人と生きていく中で、信頼関係というものを築けるかどうかというのはとても大切な要素になる。

人間の幸せというのは他人がお互いに助け合い、認め合い、許し合うことなど、人と人が丸ごと信じ合える関係が持てるかどうかに懸かっているといってもいい。

よくある勘違いに他人との会話が得意だから人間関係を上手に築けると思っている人がいるけれど誰とでも話せるということと信頼関係があるというのは全く同じではない。

ただ会話が上手にできるのは、表面上でもできるし社交的なものはある程度の慣れと訓練によりできるものである。営業の仕事など接客を長くやっていたり、人慣れしてくれば社交的な能力は開発され誰でも磨かれるのである。

しかし信頼される人になっているかというのは、そういった話が単に上手いのとは別であり、誠実であるかどうかや正直で自分に嘘をつかない人か、自分自身を真にその人自身が信頼しているかどうかというその人の人間性や人格といったものが重要になる。

例えば、友人や仲間、家族やパートナーといった最も身近にいる人たちとの人間関係を積み上げるということは単に日々に会話ができて社交的だからやれるのではない。

ただ会話をしているだけでは信じ合う関係は積み上がっていくことはない、それは単に馴れ合いであったり単にじゃれあっているだけの関係でいざという時に自分がその人を心底から丸ごと信頼できるかどうかとは同じではないのである。

一見、他人との約束を守ったり、他人を思いやったり、他人に配慮したりできるというのは、相手の信頼を壊さないように相手の見ているところを気を付ければいいと勘違いしている人がいる。そういう人は他人からは決して信頼されることはない、なぜなら態度をいつも変える人というのは相手を見て相手から認められ信頼されようとしているのであり自分自身が自分で信頼できうる人になろうとしているのではない。

結局、信じるという行為も頼るという行為も、50パーセントくらいや90パーセントくらい信じられるということではなく、「丸ごと」、つまりそれは100パーセントかどうかということである。

それを相手を見ていてや相手のいる前でだけ取り繕ってもその取り繕っている自分が自分で理解できるようにすでに信頼足りえないのだから信頼は自他と築けるはずはない。

本心や本音というものも、自分から自分を信頼している場所で自分が心底認めている自分の正直な立ち位置で自分を裸にさらけ出せているかということでもある。裸になる勇気がないのは、自分を信頼できていないからである、自分を偽り隠しているから相手を信頼できない自分がいるのである。

信頼関係を人と築くというのは、誰かとではなく自分自身との正直な関係をどれだけ築くかということに他ならないのである。

それは相手から認められているかいないかなどといったことは問題ではなく、要は自分が本心から本気で誠実に自分を深く信頼しその場所で相手のことも深く信じているかといったその信頼の質量なのである。

幼少期に親から認められなかった子どもは大人になってもすぐに認めてもらえているかどうかに過敏に反応し探り不信や疑心暗鬼になっている人が多いけれど、その間違いを正さないことには何も改善することはできない。

間違いの修正とは、相手がいるところでしてはいけない、すべては自分の問題なのであるから自分自身が自分と向き合い正しく律して人格を磨いていくのである。

そのためにも自分に嘘をつかない、自分を否定しない、自分を責めないことは自分を認める事である、そういう自分を丸ごと一度すべてを受け容れることからはじめていくことが最初の一歩である。

そうやって本来の自分に矢印を向け正しく内面的な自分自身と向き合っていくことで、外の世界を改善していくのである。外に求める前に、自分自身を認めていくことからはじめていけばいいのである。

コンサルティングの本質は結局は自分との正対と誠の実践により自らの命の明徳を明らかにしていくことで人間を磨くことがすべてである。

日々をどれだけ謙虚に素直に感じるか、これからも子どもたちの社会のためにもその模範になるように取り組み実践を楽しみ尽くしていこうと思います。

独立自尊と自然

震災後、人間本来の自然の生き方とは何かについてより深く学び生活をしていくために田畑を借りることになった。

旧知の同志である親友も協力してくださることになり、稲を不耕起栽培という哲学と技術で一緒に取り組むことを決めた。

具体的には、私たちが保育で実践して広げている見守るということを自然から学び応用する考え方と共通しており、新たに日本の一つの思想体系として子どもたちの未来へ繋がる原種になると確信してはじめているものである。

昨日はその田畑を観察し、自然の前に立っていろいろな向き合う機会にもなった。

奈良では、実践者である川口由一先生の講義を言葉を通して学ぶという機会にも恵まれた。

昨日は「育つ」ということをテーマにお話ししてくださったけれど、どの世界も共通していることに自立ということの重要性も再認識することができた。

人は何かを学ぶとき、教える側も教わる側もそうだけれど他人が何かを自分に教えるということは根本ではできない。なぜなら、学びの本質とは自分との対話、自分の感じる世界との対話であり、それは本当は何かという真実の実相に自分自らの内面的な自我と正対により一体となって感応しはじめて気づいていくことが学びということの本質であるからでもある。

この自然農についても自ら育つということを念頭に考えたならば。私たちは自分の力で自然の前に一人で立ちあがることができるようになることが何よりも人間らしい自立になっていくということではないかということである。

この一人で立つことを誤解なく言えば、命の中で独立自尊することである。

ここでの一人というのは、一人ぼっちでや孤独に立つなどと勘違いをすぐにする人がいるけれどそうではない。

はじめて、自分というものの本当の存在が渾然一体となることで立つということであり、自然そのもののように自分本来の姿になること、つまりは真我に目覚めて悟ることである。

自分というものを本当に理解するには、その歳年に必要な学びがあり、それを探求し実践を繰り返すことで、長い年月の体験と気づき、本質との取り組みの実践において次第に自らの天命も知るに至るのであろうとも思う。

昨日のお話でも、自然の前に立つ姿勢としてどのような心構えと実践が必要かを学ばせていただきました。

私たちが自然農を営むのは、自然から学び共生と貢献の中で独り立ちするためでもあります。

子ども達のためにも、真我一円の境地に入る実践を豊かに楽しみたいと思います。