人生の持ち時間

先日の震災で、如何に当たり前の日々が当たり前ではないかということを実感する機会になった。ある日、ある時、ある瞬間に今までの生活システムがすっかりと変わってしまうということがある。

自然の驚異を感じることは、人工的な日々を生きる私たちの大きな勘違いを正してくれる出会いになる。そうした中から私たちが当たり前に生活できるということの恵みを知り自分たちから謙虚になるべきではないかと自問できるのである。

よくこの当たり前のことを考えてみると、今の時代は自分都合で人間都合でいるからそういう当たり前だと思い込んでいる時間軸や環境軸は本来の姿から逆転してしまっているけれど、私たちの当たり前の暮らしや命の在り方は本来はそういうものではなかったはずである。

元々は、朝夕と食べていける営みの有難さ、大いなる自然を受け容れ人智を観磨き創意工夫していき持続可能な社会を維持していくための自律や共生など、挙げればきりがないほど当たり前の日々に感謝し日々に勤めてきた歴史があった。

今では人工的に発展させた最先端の科学技術を使い、目先やほんの身近の自然を征服することで人間中心の世界にどっぷり浸っているけれど、そういう日々が本来の当たり前だったものを入れ替え歪んだ人生観念を広げているのであろうとも思う。

本来、生死は自然の中にあり、生き死には自分の分度外にある。そういう自然の一部として活かされている自分の命があるのだからそこから離れて幸せに生きられる方法などはありはしない。

人間は空気も水も光も、そして土も火も雲も風も、そういう自然がなければ誰一人生きてはいけないし、そういう世界に暮らして幸せだと感じるはずもない。

これに通じる「人生の持ち時間」という考え方がある。

私たちの人生、今から死ぬまでの時間を自分の人生の持ち時間と定義する考え方でもある。人はいつ死ぬか分からない、だからこそ実際は死ぬまでの時間など分かりはしない。それこそ天の定めであるから、考えても仕方がないのだけれどしかしそれをあえて当たり前という視点から考えてみる。

よく平均寿命など言われるけれど、実際はその通りに皆と同じになるわけではない。その人その人の生き方や生きざまが存在し、歳もそれぞれにとり方も違う、また死に方も別なのである。

そう考えれば自分の今とこれから死ぬまでが持ち時間ということになる。
この時間こそ、当たり前のものではない最も重要なものである。

今とこれからを生きていくのは残りの人生の持ち時間をどう生きるか、そして何をどこまで遣り切るかという日々を命を大切に生きていくことである。そこから人生の持ち時間を最大限に謳歌して一遍の命の詩を書き記すのである。

当たり前の時間などはない、当たり前の日々とは私たちが生きているだけでも滅多にないような有難い時間を過ごしているのであると素直に自覚することにから感じる事である。

これからも当たり前ではない日々を思いつつ、今を大切に生き切っていきたい。