やり直し

変化というものを思うとき、感じ方は色々とある。

何かから変わろうとするのに、苦しむことで抜けられると思っている人がいたり、その反対に楽しめば抜けられると思っている人もいる。

変化というものは、そのまま受け容れるといっても人間には執着があるからそれを原理原則に沿って抜けることはとても難しいのでもある。

その執着は、過去の自分、未来への自分、何かの中で居心地が良い自分、必要とされていたい自分など、様々な空間や時間、その中での自分への執着観念があるから人は変化というものそのものでいることができないのである。

例えば、自分に厳しすぎるというのがある。

こんな自分ではいけないといくら思ってもその自分があるからいつもその今がその自分に囚われてしまうのだからいつまでも新しい自分へと時空の今にも向かわないのである。

新しい自分とは、決して昔の自分に厳しくすれば変わる事はなく今までをすべて忘れてしまうこと、新しい今、つまり新しい自分に日々に出会い感動する歓びの中にいることなのでもある。

それは今までの在り方を変えることを意味するのでもある。

例えば、今まで自分を一番信じてくれていた人に対して甘えて利用してしまっていたと気づいて、そこから大きく転換し、その人のために命懸けで誠実に尽くそうと行動すればそれで在り方がガラッと変わってしまう。

他には、愛する人から奪うことばかりしかやっていなかった自分に恥じて、ここれからは愛を循環させようと自分から愛する人になれば同じく在り方がガラッと変わってしまうのである。

この今というものの正しい処理、つまりは生き方や在り方を変換することを変化ともいい、その変化を受け容れるということは自分の身体も形もそのままだけれど中身だけが入れ替わってしまうということである。

ニュートラルやゼロベースになるというのは、パソコンで例えれば今まで溜まりに溜まったデータやメモリーがパンク寸前から再セットアップをしてもう一度最初の状態に戻すような感じであろうか。

元々最初の状態にできるということが変化を受け容れるということである。

今の自分がどうありたいか、今の自分の変化にこそ興味が湧けばそれが感動を呼んでくるし、感謝を連れてくるのである。いつまでも悔い自分を痛めつけることが変化と勘違いする人もいるけれどそうではないのである。

やり直しとは何か。

それは、もう一度最初から学び直したい、もう一度最初からはじめたいと思って新しい自分の在り方に自分を転じていくことなのである。

そのためには、そういう自分がそう在りたいという人、そういう自分のことを真底真心で見守ってくださる人の意見を聴くことからであったり、素直に自分のその心を信じてくださっている人の生き方を身近で感じて陶冶していくことなのである。

人は出会っていても出会わない人がいる。
しかし出会いが一期一会だからこそその人の出会いから新しくはじめるのである。

自分の生き方からガラッと変えるという意味は、いつも新しくそうありたいと思う自分、新しくはじめたいと思うこの今こそに照準を合わせて生きていくことをいうのである。

私の子ども心は、好奇心に満ちていて新しい境地があることを観ると心揺さぶられ楽しくなってきます。まだまだ日々のやり直し学び直しを味わっていこうと思います。

生まれ変わるということ

人は生きてきた養育環境の中で自分の価値観が出来上がってくるもの。

素直に正直に生きてくれば、刷り込まれないものの周りと比較し建前をみんな使い分けているのだと感じて同じように振る舞えばもうそこに素直で正直だった自分がいなくなっていく。

今がどうかということよりも、以前の養育の中で刷り込まれた価値観に囚われ、今までの自分のことばかりやこれからの自分のことばかりを比較対象の中で考えていくことで次第に変化から取り残されていく。

苦しみは比較の中にあり、自分らしく生きることができるのは自分のままに生きているからである。

それが分かっていてもできないのは自分を偽り、自分を欺いてきた歴史が今の自分というものを素直に受け容れることをさせないのであろうとも思う。

人間は、感謝というものを忘れるときに何かと比較した感謝に陥っている自分の刷り込みには気づかないものである。何かと比べての感謝ではなく、今の自分が感じる感謝を優先できる人が真心の人である。

自分の今を形成したものを受け容れることこそが、新しい自分との出会いである。

この変化の本質に、今までの生き方を変えるというものがある。
人は誰しも生まれてから今まで生きてきた「自分」という人生がある。

生き方を変えるとは一度今までの自分が死んで、もう一度最初から生まれ変わることをいい、それは「新しい自分」はこうするのだと決めて生きるということを言う。

心がそうしないと決めて、昔の自分があろうとも今の自分の在り方を見つめればそれが生き直しなのであろうとも思う。

今までの自分の過去の生き方を見直し、一からやり直し生まれ変わるということが生き方を変えるということである。

それをするとき、自分の今までの人生が一度死に、そして新しい自分の今からの人生がはじまるということである。

今までを引きずりながら新しくなるということは難しいのである。

だからこそどんな仕事をしていようと、どんな環境にあろうと、どんな境遇であろうとも、今この瞬間からの「生き方」は自分が決めるもの。

人生の定義とは、肉体的な生き死にではなく、心の生き死にがあり、心が今までに囚われず、今の自分の心に正直に生きる道を選ぶ事で人は何度でも生まれ変わっていけるのだとも思います。

日々に新たというのは、日々に生まれ変わるということ、そしてそれが命を育むことなのだとも思います。

感動するとは、私には好奇心と発見にワクワクしながら歩んで往く途上で澄んだ無邪気な子ども心に見出しています。

毎日を明るく元気に生き生きと刷新していくあの子ども達と同じように、子どものままに無邪気なままに今を新たに心に決めて生きて生きたいと思います。

継育

人は自分だけのことを考えていると育つということも育てるということもわからなくなる。それでは本当の意味で成長するということにはならない、そして、いつも成長が停滞する人というのは、このその「育つ」という境地が分かっていないのである。

自分が成長するのは何のためか、それは明確に次の命のためである。
自分の成長を諦めるのは、次の命を絶つ行為であり種が保存されないことをいう。

そしてこの育とは、今を日々をこの一瞬一瞬をどう私たちが大切に生き切るかによって如何に次の命の役に立とうとするか、それが「育つ」ことの本質であり命の道の真意であろうとも思う。

命とは、自らが育つことではじめて生きるのでありはじめて活かされるのである。

他との共生とは、今を真摯に大切に生きることである。

今をいい加減にしたり、過去や未来のことばかりで思い悩んでいたらそれは成長をしていないことを意味しているのである。

そして私たちは何のために学ぶのかといえば当然自分のことのためではない。

これからの人たち、これから来ることになる次世代の者たちのために何を譲り渡すか、そのために自らの道を自らの手で切り開き続けていくのである。

育つとは、自分が育つのではなく次を育てていることを「育つ」と言うのである。

この継いでいくこと、「育」は継育なのだと私は思う。

それがいつまでも分かっていない人が増えたから刹那的な物の観方しかできないで自分を真に活かせないで自分のことばかりに苦しんでいるのである。

ちゃんと命は育つ間に、次の命を育てているということなのである。

子ども第一主義の生き方とは何か。
それは次のために自ら育つことである。

より善い社会、より善い人の在り方、より善い仕事、より善い実践、そういうものを少しでも自分たち一人一人が遺していくことが保育することであるという確信。

ここ数年で得た気づきの境地でもある。

これからも子どもたちのために自分を変えていくことで「育つ」ことでよりよい次世代へ貢献していきたいと思っています。

理想の実現

人は答えが分からないから不安になるけれど、それは最後まで遣り抜いていないからだったりもする。

本気とは何か、それは続くことである。
そして続くとは何か、それは遣り抜く意志であろうとも思う。

人生も等しく、途中では分からないから謎であり不思議なのである。

人生の最期に、遣り抜いたときこそ「ああ、あれはこういうことだったのか」と分かるのではないかとも思う。

しかし今の時代は、先に分かってしまい何でも中途半端にする人たちが多い。

先日、自宅の玄関アプローチを創造した。

時間が経つと、木も傷んでくるから新しいものへ変えたりペンキを塗り直したりもする。今までのものを修理するのもいいけれど、今の自分がどういうものかそれを上書きする方が私にとっては面白い。

それを創るのだけれど、枕木を買ってきては配置し、石を持ってきては配置しと、周りは何をやっているのかは分からないのである。

しかしそれが次第に姿を顕してくる。

最期には、どのようなイメージだったのかというのをはっきりと明確に理解でき感動をするのである。何かを建てるというものも、自分の理想を実現するというものもこれと似ていて同じように取り組むのである。

途中では分からないからこそ、イメージをあわせてどのようなものをしようとしているのかということを理解する価値があるのでもある。もっとも大事なことは、その理想形を自分も観て感動するには最期まで遣り抜かなければ観えないのである。

そしてこれは道も同じく、遣ると決めた以上は途中では投げ出せないのである。

その道の先に広がっている世界が観たいのならば、最期まで遣り抜いていかなければ実現しない。それが壮大であればあるほど、何代もの意志を貫き、「ああ、これだったのか」とはじめて感動し理解できるものである。

志とは何か。

最期まで遣り抜く強烈な信念のことでもある。

すぐに何かと比較してわかってしまい諦めるというのは、信念の問題である。

常に自分らしく、理想を追って生きる姿を子ども達には見せていきたい。

真価

人は自分の持っている自分のイメージと、人がその人を観ているイメージが同じであることは少ない。

自分のイメージにも、今まで自分が育ってきた固定概念ともいえる価値観が入り混じっており自分自身の本来の姿に気づかないものである。

先日、自分の一番好きなところを一番身近な人に聴いて当ててみるということをやってみたけれど実際は自分がこうだろうと思っていたところは違うことが多い。

これも自分の一方的な思い込みであり、本人が自分の思っている通りには思っていないということなのである。

人間関係がオープンであれば聴けるようなことも自分から価値観の中に引き籠ったり、感情を主軸に行き来したりしていたら本当の話ができることはない。

恐れも不安もすべては自分の感情が邪魔をして、本来の姿を映さないのである。

例えば、批判と批評というものがある。

批判というのは否定をすることをいうのだけれど、批評というのは客観的に意見を述べているだけである。しかし、きっと相手が自分を批判しているのだろうと先に相手を思い込んでいる人は何を言ってもその意見を批判にしか捉えられずいつも自分は否定されていると信じ込んでいるものである。

よく批判されたと勘違いする人は、感情的な思い込みや先入観が強い人に多い。

いつも主観的な狭い思い込みの範囲の視野では実は危険なことになっていることにも気づけず自暴自棄になってしまうことすらもある。だから、人間は自分のことを他人から客観的に批評されることで人は本来の自分に気づけるのでもある。

そういう友人や上司部下、パートナーがいるから本当の自分に気づけるのである。そういう姿勢でいることは、自らを自らで欺かないにようにしているともいう。

それはつまり世間は正しい、周りは正しいと、すべての意見は自分のために思いやりを持って言ってくださっているのだと教えてくださったのだと謙虚になれるかということでもある。

そもそも人の問題は自分一人で学べることはできない、どんなに本を読んだにせよ、何かの講演を聴いたにせよ、人は身近な人との関係性の中の実体験からでしか本来の人間関係である自他共生の原理を学んでいくことはできない。

仕事でも家庭でもその距離感がどうなのかというのは、御互いが心地よいかどうかというものにも左右されているもの。人はその人といて心地よいかというのが人間関係のモノサシの基準になっている。

それを共通の価値観とも言う。

御互いが心地よいかというのは、共通の価値観が優先できるかということでもある。カグヤでいえば、会社の玄関に張り出している共通の方針のことでありそれを自分の感情よりも優先できるかということでもある。

その共通の価値観を優先できず、自分の価値観ばかりを当然だとし自分の都合ばかりを優先するならばそのチームの環境に馴染めないということになる。

そしてそこから人間関係を破壊し無駄な軋轢をつくっていくのでもある。
もちろんこれは家庭でもそう、友人関係でもそう、人が集団を創るということはその中にある共通の価値観、理念ともいうべきものを優先できるかということが皆と一緒に活きるという選択でもある。

素直さというものは、すべてのものに共通する学びの真価でもある。

ちょっと知識を得たからと偉くなってしまうのではなく、謙虚に自分に教えてくださっていると未熟さを味わうゆとりと余裕を持っていたいものである。自分の偏見を学び直し、あるがままの境地を楽しんで生きたい。

心の叡智

身近なテレビの議論を眺めていると、人間はさももっとも知識があるかのように評論しすべての出来事を狭い世界に切り取りすぐに善悪を決めようとする。

その善悪の基準がすべて人間中心なのだから、どちらかに偏ればどちらかに偏るのは当然であろうとも思う。

この世は、陰陽渾然と一体になっていてどちらかに偏れば必ず反対側に偏ろうとし、真ん中の場所を探してバランスを取ろうとするものであろうとも思う。

それは自分の内面にも同じものがあり、自分の中で何かのためにと思ってもそこに私が入るのならばその反対が生まれてその葛藤の中で苦しみが生まれたり迷いが発生したりするものである。

そういう私を中心にしない、全体の中に在るあるがままの場所こそが、王道というものであり、中庸と言われるものである。しかしこれは自分のちっぽけな頭で考えてそのバランスを取ることはできないのだからそうならないように心の実践がいるのであろうとも思う。

過去の聖人もすべて、心の中にある聖なるところで居ようとし様々な修行を通して真の自分を修養していったのであろうとも思う。孔子もブッダもイエスもすべて弟子が文章を編纂しているのを観てもよくわかる。

あれは、決して本で学んだ知識ではなく心の実践で得たものであろうと思う。

心でしか、世界が平等であること、万物すべてが一体であること、自他の区別がないことなどは理解することはできないからでもある。

人間の持つこの浅はかな分別知というものは、文明を築く上では価値があるけれどそれを使いこなせず、単にそれを維持しようと余計な知識を頭にばかり詰め込むから問題が生まれるのであり、その知識が増えれば増える程に便利になるけれどそうなればそうなるほどに世界がバーチャルになっていくのである。

本当の世界から切り離してゲームのように人生を送っても、実際は何かを生んだわけではなく繋がりが次第に途絶えているのだから最終的には引きこもりになり自己満足の世界に入り込んでいるうちに役割が果たせずに終わってしまうのでもある。

自らの天命を感じて役割を尽くすというのは、本来の世界とはどういうものかを知るに至ることでありそれは心の澄んだ場所がいつも観ている場所に住んでいることをいうのでもあると私は思う。

なぜなら真の場所とは心でしか本当の慈愛や畏敬を感じることができないのであり、それこそが自然の姿を心が感じているということでもある。

頭で怖がることや、ただ表面上の感謝していますというのは心が素直でやっていることではない。素直な心とは、そういう頭で偏れない場所、その絶対的な不可侵の澄んだ空間のような世界でこそ感じることができるのであろうとも思う。

私にすればまるで朝夕のあの陽の光が差し込んでくる黎明の時間帯に、心が感じている世界こそが澄んでいる空間なのである。

心を歓ばせていきることこそ、真の世界であろうとも思う。日々に、実践により心のままにあるがままに生きていく叡智を学んでいきたい。

思いやりを学ぶ

鎮守の杜と呼ばれる聖域の山とは別に、里山というものがある。

都市と自然がちょうど合わさったところで、人工的に自然を活かしながら共生していこうと考えてつくられた地域のことでもある。

自然か都市かではなく、その間でということでもあろうと思う。
今までは急速な都市化が続き成長の限界を感じて過渡期に入っているからこそ、これからはそういう考え方が広がっていくのではないかとも思う。

しかし基本的には、どんなに自然というものを意識してみてもそもそも人間は自然の中にいる生態系のほんの一部でしかない。例えば空気、光や水、様々な鉱物などもすべては共有財産として私たち生命はその存在をシェアしているのと同じく全体から観れば分かれてはいない。

元々、自然を切り取るという発想は人間の考え方であり自然とはもっと目には観えないけれど偉大なものを感じるときにこそ顕われるもの。

そういう「天」のようなものを鑑みているときにこそみんなで使っているものだからと分け合ったり、自分の分限を守ったり、思いやりという気持ちが生まれてくる。

それが天に命が活かされているという実感になっていく。

しかし、今の時代はまるで切り取った自然を自分のものといわんばかりに国は天然資源も自分のものと言い張り紛争し、様々な動植物も乱獲し続け他に人に獲られないようにと猛烈に奪い合っている。

人間が自然を切り取れば、こういうことになってしまう。

この価値観では人間の文明は長くないと気づくのがいつかということである。

この里山の人工林も、自然の中で生きることが大事のように語られているけれど私はそうではなく如何に生態系の中にいることで穏やかな心になるか、優しく思いやりを持てるか、他の生命との一体感を感じているかということを学ぶ方が大事なのではないかと思う。

人間はすぐに人間中心にモノゴトを捉えて一方的な価値観で自然を観ようとするから里山も今の都市化された目線で見つめればおかしな話になる。私が思うには、元々思いやりがあった人間、優しい人が生きている場所だから里山ができたのだと推察している。

これは以前、滋賀の里山が中江藤樹先生の近くに存在しているのを聞き、その徳風がその棲家周辺及んで様々な生命を活かしていることを実感したからでもある。

きっと里山ができるのは、その地域に優しく思いやりのある人たちが集まっているからそういう思いやりのある地域が形に顕われ里山になったのであろうと思う。如何に、形だけは里山ができたとしてもそこに住まう人たちが思いやりと優しさがなければその里山は真の里山とは言わない。

厳しい自然の中で、人が思いやり生きていくことこそ人の道だからである。

人間が思っているほど、自然は小さな存在ではなく本来の姿からすれば人間がやっていることなどはたいした影響はない。偉大な厳しさも慈しみの真心のままに自然はすべて受容しているのである。

自然の中には、私たちが探しても探しても見つけられないような真理がしっかりと詰まっている。自然に従いちゃんと観察して応じていれば余計な迷いは消えていくのである。

人間が自然をどうこうする前に、自然から思いやりを学ぶことが今、求められているのである。

今年は大きな変化が続いている、今まで以上に自然に寄り添い観察し自分の生き方をそして天命を感じてかんながらの道を歩んでいこうと思います。

気づき力

気づくというのは一体どこで行うのだろうか、それは頭ではなく心である。

心が先に気づき、それを頭が認識するという順番である。

しかし日頃から自分の心をすぐに信じずに先に頭でっかちに考える癖がついてしまえば、心が気づいたことはそのままにしておき、頭で分かったことしかしないということになってしまうことがある。

それでは、気づいたことをやっているのではなく分かったことをやることになる。そして気づいたことを分かったことにすげ替えてしまうことを「分かった気になる」と定義している。

もしもこの分かった気になってしまえば、気づいたものとは実際は異なるのだから気づいたことの本質から遠ざかり本来気づいたように変わることができない。

分かった気にならないというのは、気づいた瞬間から分からないようにすること、つまり感動している心を保持したままに気づいたタイミングで何をすぐに実践して忘れないように取り組みはじめるかということである。

人は何のためにやるのか、本当は何かのためにやっているかを考え抜かないと気づいたはずなのに実際はそうではなくなっていることがある。何のためにかが明確に立っているならば、分かった気になることは少ない。

なぜなら本質でやっていると真の意味が分からないままだからである。

モノゴトや出来事の真意は、一物全体、広大無辺、無限の時空ではないけれど、偉大なものと繫がりの中で発生しているのだから心で観なくては掴めないもの。だから頭では分からないことの方が、実際は気づいて掴んでいけることが多いのである。

その一つの方法が、何のためかという「本質」かどうかということである。

気づき力ということは分からないからやってみようという心であり、気づいた瞬間は心が全体を直観で捉えるのだからその感じた心のときに感応してすぐに行動して体で覚えるというようにコツというものを掴むために何度も何度も挑戦する力。

これは子どもが何かをチャレンジしてマスターしていくのと似ていて、自らが感じたことをすぐにやろうとして取り組む中で身に着けるのである。

今の時代は、それよりも先にどうせ無理と何度も自分の心を抑え込んできたからそれが出にくくなっている。ひょっとすると親や大人にあまりにも厳しく自由を束縛されて育てられるとそうなってしまうのではないかと今では洞察もしている。

しかし、誰かのせいにしても何もはじまらないのだから自分から気づいたことを思い切って行動しそれを最期まで遣り切る体験を積んで過去に自分を抑えつけたものを取り払うくらいの勇気を気づきの力で乗り越えることで志が強くなっていくのである。

気づいてすぐに変わるというのは、気づいた時こそ心が変わろうとしているときだと信じる事。

その気づいた瞬間に頭で理解して都合よく自分を言いくるめるための知識に変換するのではなく、気づいた瞬間に知識にせずに実践してその気づいたものを掴んでやろうという勇気と気概こそを優先するといいのである。

自分を変えることを自分に小さな知識や判断、頭でっかちの場所でやるといつまでもうまくいかないのは原理原則の通りである。

もっと素直に、気づいた、やった、やれた、よしもっとやろう、あっ変わってると感じる好奇心を伸ばしていく生命の根幹のものを引き出していくことで発達を楽しんでいけたらと思います。

子どもたちの発達と大人たちの発達も同根のものを使うことを示していきたい。

孝の道

今の世の中の乱れる原因の一つに親子の関係というものがある。

親と子どもがいつまでたっても正しい関係を築けないのは、そもそも親とは何かということを学ばないからであろうとも思う。親心とは、子どもへの無償の愛であり子どもたちが幸せになってほしいことを願う心のことである。

そして子の心とは何か、それは親というものの偉大な愛に自分を生んでいただいた偉大な存在への感謝、自然そのものへの恩徳畏敬の念のままに自らをしっかり立てることでその身を周囲へお役立てしていくことである。

四書五経に孝経がある。

この孝経の孝の字は、老と子が重なった字であり、元々老とは親のこと、子は子だから、これは親子の学問であると私は定義しこれをよく読み返します。

この孝道とも言えるものが廃れると、こうも世の中は乱れるのかと思うと本当に悲しくなります。親は親のことばかり、子は子のことばかり、御互いに思いやることを失い自らの主義主張を正論だと偏ることで安心した社会を守っていくことができなくなります。

見守るということは、この親子の道の一つであると私は思います。

先日も、ある方の相談の中で孝道について心で省みているときにこういう一説に出会いました。

「曾子曰。若夫慈愛恭敬。安親揚名。參聞命矣。敢問從父之命。可謂孝乎。子曰。是何言與。是何言與。言之不通也。昔者。天子有争臣七人。雖無道。不失其天下。諸侯有争臣五人。雖無道。不失其国。大夫有争臣三人。雖無道。不失其家。士有争友。則身不離於令名。父有争子。則身不陷於不義。故當不義。則子不可以弗争於父。臣不可以弗争於君。故當不義。則争之。從父之命。焉得為孝乎。」

これは現代語を私が意訳したものになりますが、

「曾子が言いました。慈愛と恭敬にて、親の心を安心させて、身を立てて祖宗の名を称揚していく、このような者を孝という、と私は聞いております。 敢えて問いますが、父の命令に従うことを孝というべきでありましょうか、と。
孔子が答えました。何を言っているのか、何をいっているのか、それは道理に通じていないものの言葉です。 昔から、天子に行いを戒める家臣が七人いれば、無道であってもその天下を失うことはなく、諸侯も行いを戒める家臣が五人居れば、無道であってもその国を失うことはなく、大夫に行いを戒める家臣が三人居れば、無道であってもその家を失うことはなく、士に行いを戒める友人が居れば、身はその名声に背くことはなく、父に行いを戒める子が居れば、身は不義に陥ることはない、といいます。故にもしも不義なことをしているのならば、子は父を戒めるべきであるし、臣下は主君を戒めるべきである。 不義なことがあればすぐにこれを戒める、それを父の命令にただ従うのみで一体どうして孝ができましょうか、と」

親が言うことをただ従い聞いていることは決して親孝行ではない、もしもそれがどうしても天道地理義理人情の掟に間違っていることだと気づいたならばそれをどう戒めるのか、気づいてもらえるのか、それを思いやりを持って諫言し行動で示すのかか、そこに孝行の真心の実践があると私は信じています。

親として決して恥ずかしいことをしなくてもいいように見守ることがこの孝の道で、同じように子が恥ずかしいことをしないように見守ることも孝の道。

その親子の見守り合いというのは、互いに孝道から外れないように思いやり尽くしていくことではじめてその真意を理解できるのだとも思います。

本当の真心とは、親に正しく親をさせてあげること、子に正しく子をさせてあげること、先生に正しく先生をさせてあげること、生徒に正しく生徒をさせてあげること、社長に正しく社長をさせてあげること、社員に正しく社員をさせてあげること、つまりは正しい在り方、自然の姿そのものと一体であるように調和に貢献していくために中庸忠義を尽くしていくことであろうとも私は思います。

お互いに見守り合いの中で真のあるべき親子の道に止まっている。
それが真の孝行の姿であるのだと思います。

私自身も、学びの途中、素晴らしい両親に恵まれたこと、そしてこの命の源を創造してくださった心に、何よりも感謝し、これからも日々に真摯に自らを省み、真心の道を実践していこうと思います。

生態系から学ぶこと

生態系というものがある。

ある一定の地域の中で総合的に全てのものが密接に関わり合う循環環境システムのことを定義している。

これはヒトに限らず、虫や花、風や光、水など様々なシステムが同時に機能していることで生命がどのように存在するかを生態系から探索しようとするものである。

その中に食物連鎖というものがある。

多様な生態系の中で複雑に食べるものと食べられるものが分かれ、その中で自らの命をすべてにおいて役立てることで生命は自然を謳歌しているものである。

今のように、ゴミが生まれたりすることは自然界には元々ない。

その生態系の中では不必要という概念はこの自然の偉大な愛に包まれている実感の中では存在しないのであろうとも思う。

食べるものも食べられるものも、自然に受け容れるのはその命の存在を身近に感じる程に密接に生態系の関係性の中で生きているからであろうとも思う。

今の人間は、関係性が薄れ何が自然かというものから遠ざかることで生態系とのバランスが取れなくなってきている。食べるや食べられるということが、経済という架空の切り取られた文明の中で存在していけば次第に強者の理論がそのうちに優先されることになるのであろうとも思う。

この食物連鎖の中では、実は捕食的強者と言われる高次元消費者は実は非常に弱い存在だという。その存在の環境がどうなっているかを観察すれば、自然界の今がどんなことが起きているのかが分かる。

例えば、鷹でいえば関東の雑木林の傍にはサシバという鷹が棲んでいるけれどそのサシバが生きるには50ヘクタール以上必要になる。もしもオオタカなら100〜200ヘクタール、イヌワシなら6000ヘクタールもの土地がいるという。

もしも、森林が少しでも壊れれば小さな生き物が減りその上の中型の生き物が減り、最後の大型の生き物はほとんど身近に食べるものがないということになるのである。広い範囲はより広くなり、食べ物がなくなることで数はより減っていくのである。

森の中のシカやイノシシ、サルのような大型のものも、森林が破壊されれば食べ物がなく人里で田畑を荒らすのは人間が獲り過ぎているからでもある。

何をもって森林かというと、その生き物たちの関係性の破壊のことである。
これぐらいはという小さな草原や生き物たちとの繫がりの破壊は、必ず広大な範囲の存在を危険にしていくということである。

太古の智慧ある人間はそれを知っていたから、目先の利よりも長期的で持続可能な義を優先して自然界の掟のしっぺ返しにあわないように工夫をして環境という関係性と共存していたのだと思う。

この原点はもともと自然の中で私たちは食べ物を分け合うところからがはじまっているのであろうとも思う。

自分の食べる分が他とバッティングしないようにどうするかを自ら律して考えることで進化してきたのであろうとも思う。本能的理性というものがあり、元来争わないようにすることが本来の自然の姿で争ったものは最初にいなくなっていくものであったはずである。

今の時代は、何から本来のあるべきようを学び直すのか。

集団や社会生態系ではないけれど、生きるとは何か、生き残るとは何か、子ども達の未来を思えば、食物連鎖の頂点になってしまった人間が選択していく道を示すことが今の私たちのヒトの役割でもあろうとも思います。

偉大なシステムの中でヒトがまず調和するということを実感するのは、それが自然環境を知るに繋がってからだとも思います。余計な知識は必要ではなく、自然の中にある生態系を観察するだけでも自然教育だとも思います。

今からは特に欠落してきた繋がりや関係性の新生の時代に入る気がします。
まだまだ観察眼を磨いて自然の姿をそのままに研究していこうと思います。