行事の在り方

人間は本質が何かをまず考えなければどんな業務も増やしていくことになる。

例えば、学校行事などでも本質を深める前に、昨年評判が良かったからと行事を追加していくだけで今までのものを減らしていなければ増え続ける業務の中で忙しくなりたくさんやれば質が上がるなどと本末転倒なことを言っている人もいる。

忙しいのだろうけれど、いつも忙しいと言い訳を頭に掲げて同じことをやっていたらいつまでも忙しいままだろうとも思ってしまう。そうならないように他人は知恵を使って創意工夫していくことで改善していくしかないのである。

これは学校行事とはそもそも何か、本当は何のために行っているのか、そのはじまりはどのような理念であったのか、そういうものをよく知らないやよく分からないままで指示された通りに動こうとしたり、目先の期限ばかりに追われていたら忙しさというものはなくなることはない。

目先に姿ばかりを追っかけてみては思い込みで育てようとすることがより「深く考えない」環境を構成していくものだと思う。

目先には心は入ることはない。
心の余裕というものは、常に本質から考えたから生まれているのである。

そして話を戻せばこれは学校行事に限らず、何のためにやるのかというこを主軸に、そこから外れないようにと自問自答した後、皆で取り組めば温故知新に古いものは整理され新しいものが上書きされるというように変化に準じていくことができるのである。

つまりは考えればいいだけであり、何でも深く考えることで済むのである。
考えるために対話をし、考え切るために学問の修練があるのだ。

もう一つの例では学校でいえばすぐに危ないことや危険だからや不安だと、子どものことか自分の保身かがすり替わっていることも多いけれど弱体化していく子どもにあわせてさらに弱体化する環境を用意するというのは、自分が弱くしておきながら弱くなったからもっと環境を弱いものにあわせないととしているということになっていることに気づかないだけである。

弱体化の悪循環はこのままずっと考えないことによる弊害を受けることになる。反応的になにかをやっていたって、問題はいつになっても解決しないのである。

大人が何かを意図するのであれば、当然、その理念を先に立てるまで徹底して納得する心の時間をとるほうがいい。何の経営でも、スタッフが納得しないものを上から降りたからとただ従うという組織こそ思考停止し、全体の営みの質を下げていくものです。

まず私たちは自分たちの実践を通じて、深く考えて掘り導き出せるような関係性をより学んでいこうと思います。子ども達に本質的なものを考える環境を用意していきたいと思います。