孝の道

今の世の中の乱れる原因の一つに親子の関係というものがある。

親と子どもがいつまでたっても正しい関係を築けないのは、そもそも親とは何かということを学ばないからであろうとも思う。親心とは、子どもへの無償の愛であり子どもたちが幸せになってほしいことを願う心のことである。

そして子の心とは何か、それは親というものの偉大な愛に自分を生んでいただいた偉大な存在への感謝、自然そのものへの恩徳畏敬の念のままに自らをしっかり立てることでその身を周囲へお役立てしていくことである。

四書五経に孝経がある。

この孝経の孝の字は、老と子が重なった字であり、元々老とは親のこと、子は子だから、これは親子の学問であると私は定義しこれをよく読み返します。

この孝道とも言えるものが廃れると、こうも世の中は乱れるのかと思うと本当に悲しくなります。親は親のことばかり、子は子のことばかり、御互いに思いやることを失い自らの主義主張を正論だと偏ることで安心した社会を守っていくことができなくなります。

見守るということは、この親子の道の一つであると私は思います。

先日も、ある方の相談の中で孝道について心で省みているときにこういう一説に出会いました。

「曾子曰。若夫慈愛恭敬。安親揚名。參聞命矣。敢問從父之命。可謂孝乎。子曰。是何言與。是何言與。言之不通也。昔者。天子有争臣七人。雖無道。不失其天下。諸侯有争臣五人。雖無道。不失其国。大夫有争臣三人。雖無道。不失其家。士有争友。則身不離於令名。父有争子。則身不陷於不義。故當不義。則子不可以弗争於父。臣不可以弗争於君。故當不義。則争之。從父之命。焉得為孝乎。」

これは現代語を私が意訳したものになりますが、

「曾子が言いました。慈愛と恭敬にて、親の心を安心させて、身を立てて祖宗の名を称揚していく、このような者を孝という、と私は聞いております。 敢えて問いますが、父の命令に従うことを孝というべきでありましょうか、と。
孔子が答えました。何を言っているのか、何をいっているのか、それは道理に通じていないものの言葉です。 昔から、天子に行いを戒める家臣が七人いれば、無道であってもその天下を失うことはなく、諸侯も行いを戒める家臣が五人居れば、無道であってもその国を失うことはなく、大夫に行いを戒める家臣が三人居れば、無道であってもその家を失うことはなく、士に行いを戒める友人が居れば、身はその名声に背くことはなく、父に行いを戒める子が居れば、身は不義に陥ることはない、といいます。故にもしも不義なことをしているのならば、子は父を戒めるべきであるし、臣下は主君を戒めるべきである。 不義なことがあればすぐにこれを戒める、それを父の命令にただ従うのみで一体どうして孝ができましょうか、と」

親が言うことをただ従い聞いていることは決して親孝行ではない、もしもそれがどうしても天道地理義理人情の掟に間違っていることだと気づいたならばそれをどう戒めるのか、気づいてもらえるのか、それを思いやりを持って諫言し行動で示すのかか、そこに孝行の真心の実践があると私は信じています。

親として決して恥ずかしいことをしなくてもいいように見守ることがこの孝の道で、同じように子が恥ずかしいことをしないように見守ることも孝の道。

その親子の見守り合いというのは、互いに孝道から外れないように思いやり尽くしていくことではじめてその真意を理解できるのだとも思います。

本当の真心とは、親に正しく親をさせてあげること、子に正しく子をさせてあげること、先生に正しく先生をさせてあげること、生徒に正しく生徒をさせてあげること、社長に正しく社長をさせてあげること、社員に正しく社員をさせてあげること、つまりは正しい在り方、自然の姿そのものと一体であるように調和に貢献していくために中庸忠義を尽くしていくことであろうとも私は思います。

お互いに見守り合いの中で真のあるべき親子の道に止まっている。
それが真の孝行の姿であるのだと思います。

私自身も、学びの途中、素晴らしい両親に恵まれたこと、そしてこの命の源を創造してくださった心に、何よりも感謝し、これからも日々に真摯に自らを省み、真心の道を実践していこうと思います。