新たな道のはじまり

久しぶりにドイツのミュンヘンに来ている。今年は縁あって2回もこのヨーロッパに学びにくることができている。思ってもみないのに思いやりさえ持っていればいつも素敵な機会をいただけるというのは、自分がそこに向かうようにと天啓を得ているのだと思います。

子どもの心や好奇心、自然体ほどに自分が全体の一部であるのを実感します。

私の西洋との出会いは、街並み、風土、文化、食、芸術、気候や価値観など見るもの聞くもの触るものすべてで感動してきたけれど、私はここの西洋思想から最も影響を受けたのは「人権」というものについてであろうとも思う。

そこからヤヌシュ・コルチャックの生き方にも出逢い、子どもの権利というものを真摯に学び機会もいただいた。

人は誰でも幸せになる権利がある。

それは私は自然の豊かさの中で、自分で気づき考えて正直に行動する自由を尊重されることだと思っている。あの動植物たちと同じく、普遍的なルールの中でみんなが幸せを謳歌しているように生きられるということである。

これは人間がそれをしているのではなく、元々それがあったということである。

それを声高に言われるのは今まで当たり前だったことが、一部の大人たちの言い分に無条件で疑わず従っていればいいといった歪んだものにすり替わっているからであろうとも思う。

人間がそういうものを設定してはならないのに、神にでもなったかのように生命を上下に格差をつけ不平等をルールにすることで心物がおかしなことになってしまうのだとも思う。

人権にも気づけなければ人は自分の人生であるのにそれをすぐに他人に委ねることを盲目になっていくものである。

ここから日本を眺めると、惰性的に考えずに流され生きていても誰も其処は疑問に思わない気持ち悪い環境があるようにも感じられる。

生きるということは元々が自分がやるべきものであり、幸せとは自分自身の中にあるものである。

それと、与えられたものや与えられるものだと勘違いし、それに反論してはいけないと刷り込まれ根本的なはじまりの問いに蓋をしてしまっては本当の今が観えなくなるのである。

私が子どもの心で物事と正対するとき、暗闇に光が差し込むように新たな世界や新しい観方、原点というものが顕われてきて、本来の今ということに気づくことができる。

しかし、子ども心を抑え込んでしまったのなら身近な仕事でも生活でもそうだけれど自分の凝り固まった固定概念の中で基準を持ち正しいと信じ込み、その中から抜け出せずいつも自分の価値観の微修正ばかりで自己満足の日々を過ごしてしまうのである。

そうなると恐怖や不安から逃げようとして今までの価値観にしがみ付き如何に自分がおかしなことをやっているのかも気づかずに間違いにも気づかなくなるのである。

そもそも問題はそのような自分の浅はかな正しいという場所に答えがあるのではなく、それ以前に正しいはずだと信じたその固定概念に問題があるのだと気づくことである。

それは疑うのではなく、間違いだったと気づくことである。

人は、自分が何処に立っているのかわからなくなるときこそ自分の価値観に気づくチャンスである。そして自分の間違いに気づき、未熟さを受け容れるとき新たな道が開くのであろうとも思います。

空間の間に、棲んでいる世界があるのなら今の自分の心が棲む場所こそが新たな空間なのである。

自分の戦略に気づく旅のはじまりになりました。

新たな道を切り開き、子ども達に真実の今をあるがままに譲っていきたいと思います。