世界の保育

ドイツでの研修も3日目を迎えた。

ドイツの園での視察では、色々な工夫が見られ具体的に取り組んでいる保育実践は日本での実践と照らし参考になるものがある。

今回の視察先の園長の言葉を聞いていても、現場の保育を洞察してみてもドイツやヨーロッパで視察するような園は、即席に便利な人を創るよりも人格を育てようとすることが保育の基準になっているようにも思う。

ドイツの陶冶プログラムもきっと、産業ですぐに消費できるような人のための教育ではなく、人間として社会に役立つ人間力や社会性を育てようというそもそも教育とは何かというところから生み出されたものではないかと思う。

日本の一斉画一のものを見慣れていれば驚きもあるのだろうけれど、いつも見守る保育の実践の園ばかりを見ているせいかあまり何かとの比較はできず最初はどこを視ようかと戸惑うことも多く感じた。

しかし、よく観ていると同じような理念で取り組んでいる園がこちらではどのような変化が見て取れるのか、そこを観照することで視察している観点がはっきりするのではないかと感じている。

同じ理念で取り組んだとき、環境によって顕われてくるものの中には共通する実践が入り込んでくる、それを学び取り組めばその保育環境を互いに切磋琢磨していけるのであろうとも思う。

将来は、ドイツをはじめ世界にGT会員が増えていくのではないかという予感さえもし日本の保育が世界に広がっていくことが待ち遠しく楽しくなりました。

さて、せっかくなので日本という国をここから洞察してみる。

与えられた場所で自分で人生の選択をできるような環境というのは何を国家が優先しているのかということでもある。

一部の人たちのものが国家というものならば、そうではない人たちの自由な人権は与えらえず搾取の対象となる。これは歴史を観てもそうだし、一部の人たちが公共のものという共生の原理から外れればすぐに独裁の方へと傾いていく。

もともと国家とは、共生の原理にそって皆で創りあげていくものであるのならそれぞれに選択の自由があり、それぞれに自分の幸福を自分で決める人権を持っているということになる。

私たちは、いつから自分の人生を誰かに委ねて生きるようになったのか。どうしようもないと諦めてしまい、自分で決めることをしないで生きることが当たり前になってしまったのか。

人と生きるということは、集団の中で自分を殺して埋没させることではない。

人と生きるということの本質は、それぞれが皆で自分を活かしそれぞれの100パーセントの実践人生が周囲との共生を創りあげていくということ。そういう中にこそ、真の譲り合い、真の助け合い、真の思いやりというものはでてくるのであろうとも思う。

どのような理念で国家を治めるか。
どのような理念で国民一人一人が自分を修めるか。

どちらも、100パーセントの責任を果たすことで幸せな生き方を目指すのが私たち人間の文化発展の肝であると思います。

当たり前のことも見えなくなるくらい忙しいことは、決して自分のためにも国家のたにも世界のためにもなりません。心の余裕とは、自分で考え切る中で生まれるものだと思います。

子ども達と共に生きていく中でこれからの新しい世界を一緒に考え切っていきたいと思います。