使命感

人は何かをやるとき、自信があるかないかでモノゴトを決めようとすることがある。

自分にできそうか、できそうでないかというような先に結果を考えてから行動しようとすとその方法ばかりを考えているだけで何もやっていないということがある。

そういうことを繰り返していると、結局時間切れになり自信も意欲も減退していくものである。だから、仕事でも何でも結果がでないのならその在り方というべき生き方を今すぐにでも変える必要がある。

同じ時間を使うのであれば、方法のために努力するのではなく遣り切る方に努力する方がいい。

誰でも人は何かの物事に取り組む時に、何をなすべきかというものをまず決める必要がある。なぜなら、それはやれるかどうかではなく、できそうかそうではないかではなく、それは自分が「やらねばならぬ」ことかどうかだからである。

人は面倒なこと、自分にとって不利益なこと、周囲から評価されそうにないことなどは自ら進んでやろうとはしない。方法論に目を向けていたらこれだと失敗するかもとか、これだと迷惑がかかるだの、その方法論にばかりに囚われて何も為すことはできなくなるものだと私は思う。

私の場合はよく他人からあなたは自信満々のようだと思われたり、他人から何でもできる人でしょというように言われるけれど、これは完全に間違いである。

自分は別に自信があるわけでも自信がないわけでもないし、仕事ができるわけでもできないわけでもない、ただその「使命感」でやっているからそう見えるだけであろうとも思う。

自分がやらなければ誰が遣るのだと強い決意で子ども達を見守りたい、自分がこの先の時代にツケを払わせたくない、自分が間違っていると知ってしまったことを子どもたちに嘘をついてまでやりたくない、だからこそ子ども第一主義の理念を遣り切るのだという志があるだけである。

人はその自分の生き方ともいうべき心の置所に、志を置いているか、それを立てているか、つまり使命を果たそうとしているかということは大事なことでそれ如何では同じことをしていても成果が天と地ほどの差になってしまう。

もしも使命感を持ち何が何でも遣り切るのだにと思っている人は、方法論がどうであれ関係なく勇気を出して必死に遣り切るからそれを周囲が次第に支えるようになるのである。

言い訳もいらないし、周りのせいにしなくてすむ、そして目の前のことに真剣にさえやっていれば雑音も聞こえてこない、何よりも正しい努力ができるのである。

自分に矢印を向けて自分の心が、その生き方が、何が何でも遣り切る、そしてそれが何のためなのかということに定まっているかどうかを確認することである。

誰がどういおうが、何がどうあろうが、やるのだという決意、それが使命。

一心不乱に使命感に燃えていれば、次第に何でもできるようになるし、次第に周囲は勝手にその人を認めてくるのである。別に、自信を持ちたいからやったわけでもなく、周囲に評価されたいからやっているのではない。

私が熱いのは、使命に燃えているからである。

これからも子ども達に志の大切さ、使命感を持って取り組むことなどを自分の生き方と人生の実践を通じて周囲へ感化していきたいと思います。